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大阪府箕面市 萱野三平旧邸長屋門

(Nagayamon of the former residence of Sanpei Kayano, Minoo City, Osaka)

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June 2012 撮影/文:野崎順次

大阪府箕面市萱野3−10−4

撮影日: 2012年5月31日忠臣蔵では、早駕籠(はやかご)に揺られて赤穂へ向かう場面や、討ち入り前に自害する場面などでおなじみの「萱野三平」はその名のとおり、現在の箕面市萱野で誕生し、この地で生涯を終えた。明治時代に萱野家が転居したため、2棟あった家屋は取り壊されてしまったが、三平が切腹したと伝えられる長屋門と土塀の一部は残され、大阪府の史跡に指定された。平成3年には箕面市へ寄贈され、市は平成6年に「萱野三平記念館・涓泉亭」を開館した。三平の俳号が「涓泉(けんせん)」である。俳人涓泉が活躍した元禄時代は松尾芭蕉や井原西鶴に代表される著名な俳人がその足跡を残したが、ここ摂津の地でも俳諧が盛んになり、東の芭蕉、西の鬼貫と称される伊丹の上嶋鬼貫を始め、水田西吟、厚東休計、萱野一族でも三平の叔父の藤井家房、従兄弟の水仙堂蘭風(藤井光貞)、兄の萱野紅山(重通)、義兄の北河原好昌等が活躍した。幼い頃から俳人に囲まれた育った三平は、12歳の時に赤穂へ仕官した。主君浅野内匠頭の参勤交代に同行し、江戸では、松尾芭蕉と親交が深かった水間沾徳の指導を受けた。討ち入りという勇ましい武士の姿の影に隠れてしまっているが、赤穂藩士の多くは俳人としても活躍した。中でも子葉(大高源五)、竹平(神崎輿五郎)、涓泉の技倆は特に優れ、当時の俳諧人の間で広く認められていた。しかし、元禄14年3月14日の「江戸城松の廊下」での刃傷事件が、俳人「涓泉」として大成するはずであった三平の運命を変えてしまった。内匠頭の切腹、お家断絶、赤穂城明け渡しの厳しい幕府の処分を受けた後、仇討ちの時を待つため、萱野の実家へ帰っていた三平を、元禄14年秋、大高源五が訪ねてきた。三平と一緒に、勝尾寺や箕面大滝で遊んだ後、桜塚(豊中市)に住む西吟や伊丹の鬼貫のもとを訪れるなど、俳人仲間を訪れたかに思えるが、三平に会いに来た最大の理由は、仇討ちの急進派であった三平をなだめることであったと思われる。

わずか2〜3か月後の元禄15年1月14日、三平は自宅長屋門の一室で切腹し27年の人生を終えた。仇討ちに反対した父重利に対する親孝行と、主君浅野内匠頭への忠義の板挟みになったことが、その理由であったと伝えられる。俳人として余りに若い死が悔やまれる。パンフレット 長屋門 萱野三平が切腹した部屋と辞世の句碑 萱野三平記念館・涓泉亭 展示室

前の西国街道と花 参考資料

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