JAPAN GEOGRAPHIC

大阪府岬町 淡輪古墳群

(Tannowa Tumulus Group, Misakicho, Osaka Pref.)

Category
Rating
Comment
General
 
Nature
 
Water
 
Flower
 
Culture
 
Facility
 
Food
 


Sep.2012 野崎順次 source movie

大阪府泉南郡岬町淡輪

撮影日: 2012年9月15日大和政権が、大和から河内そして和泉に進出し、仁徳陵古墳をはじめとする巨大古墳が作られた5世紀の半ば、紀伊から和泉(堺)へ向かう海の交通路としてその中間地点となる岬町は、大阪湾の入り口であることから、非常に重要な地域であったようだ。特に淡輪地区には、狭い平野の中に約200mの巨大前方後円墳が2基も存在している。淡輪ニサンザイ古墳(宇度墓ともいう、墳丘長170m)、その800mほど西にある西陵古墳(墳丘長210m)、両古墳の中間にある西小山古墳(円墳)、鴻ノ巣山(こうのすやま)古墳群とともに「淡輪古墳群」を形成している。

 K:\DCIM\101___09\IMG_0722.JPG

(この地図は「邪馬台国大研究HP 全国遺跡旧蹟案内 淡輪古墳群」の「見学会経路図」でとても有用な地図であるが、今回の歩行ルートとは少し異なる。

南海「淡輪」駅から少し西に行き、南に曲がって踏切を越える。

陵墓参考地 宇度墓古墳(淡輪ニサンザイ古墳)

番川の形成する沖積平野の傾斜面に位置し、全長170m・前方部幅120m・後円部経110mを測る3段築成の前方後円墳で、5世紀後期の築造とされている。南側くびれ部に方形の造りだしを持ち、本来北側にもあったと推定される。垂仁天皇第2皇子五十瓊敷入彦命(いにしきりひこのみこと)の陵墓とされ、宮内庁の管轄下にある「」である。周濠の外側に、後円部を取り囲むように7基の円墳と方墳の陪冢が巡っており、これらの内の1基から刀剣が発見されたと伝えられるほか、埴輪の散布もみられるが、内部構造や副葬品はほとんど解っていない。この古墳は西陵古墳に続いて築造されたと考えられ、被葬者は紀伊を本貫地とする人物が葬られているのではないかと想定されている。

周囲を西から南、東(前方部から後円部)へと回る。

周濠の蓮の花、オニヤンマなど。

 

宇度墓古墳1〜6号陪冢、東側に南北に並ぶ。

 

府史跡 鴻ノ巣山(こうのすやま)古墳群の復元1号墳石室

この古墳群は番川の右岸、淡輪遺跡の背後、鴻ノ巣山丘陵尾根筋にある。2つの尾根筋の北側の尾根に4基、南側尾根に5基の計9 基の、経8m〜10mの円墳からなる。1970年の大阪府教育委員会の調査によって4基の古墳が調査され、横穴式石室を持っていることが確認されている。6世紀後葉に築造が始まり、7世紀前葉には使用されなくなったらしい。1号憤の石室は、玄室長2.5m、玄室幅1.4〜1.5m、玄門幅0.95m、羨道幅1.2m、羨道長1mを測る。また1号憤の天井はアーチ型になっており、須恵器・土師器・金銅環・滑石製紡錘車などを出土している。

 

国道26号線を西へ歩く。途中の道路わきに西小山古墳があるそうだが、よく分からなかった。

 

国史跡 西陵古墳

淡輪平野に突出した尾根を利用して築造されており、全長210m・前方部幅100m・後円部経115mを測る。岬町のみならず泉南部でも最大の前方後円墳で、葺石・円筒埴輪列の存在が知られている。3段築成で、西側くびれ部に方形造りだしを持ち、周囲には盾形の周濠を持つが溜池と利用されてきたため現在では変形してしまっている。1921年に、後円部墳頂から凝灰岩製長持ち形石棺の蓋石が出土し、周囲に砂岩の石材がみられることから、竪穴式石室内に凝灰岩製長持形石棺を納めた構造と推測されている。

前方部から登り、後円部頂上に至り、同じ道を引き返した。

 

周濠土手の花と蜘蛛。

 

参考資料

邪馬台国大研究HP 全国遺跡旧蹟案内 淡輪古墳群

ウィキペディア「淡輪ニサンザイ古墳」

ウィキペディア「西陵古墳」

 All rights reserved 無断転用禁止 登録ユーザ募集中