大阪府大阪市浪速区 願泉寺
(Gansenji Temple, Naniwa-ku, Osaka City, Osaka Pref.)
Category
|
Rating
|
Comment
|
General
|
|
府名勝の枯山水 |
Nature
|
||
Water |
|
|
Flower | ||
Culture |
|
千利休、伊達政宗ゆかりの寺 |
Facility |
|
|
Food |
|
July 27, 2019 野崎順次
大阪府大阪市浪速区大国2-2-27
浄土真宗本願寺派
日下山 願泉寺
願泉寺の開基は今を去ること1400年、聖徳太子の時代、西暦603年(推古11年)と歴史が深く開基当時は無量寿寺院と呼ばれていました。開祖は小野妹子の八男にあたる義持【法名:聖伝院永証】。当時は、西北数百メートルの場所にありましたが応仁の乱により焼亡し、1507年(永正4年)に現在の地に再建されました。
願泉寺の寺号は、かつて大阪城の地にあった石山本願寺の「願」からつけられたもので「日下山願泉寺」と称するようになりました。他面風雅を解していた住職三十一世定龍(1640年寂)は武野紹鴎(1555年寂)や千利休(1591年寂)とも親交がありました。石山本願寺の跡に構築せられた大阪城が当時の政治の中心地となり、参観の諸国大名中には定龍について茶礼を学ぶものも多くありました。後に豊臣と徳川が不和となり、元和元年(1615年)大阪城落城の後、当時定龍と親交のあった仙台候伊達正宗は帰国に際してその客殿(蔽ひ堂)と茶席(泰慶堂)を定龍に贈りました。
その後寛永2年(1625年)大道町、久安よりの出火に際して本堂、庫裡などを消失しましたが客殿、茶室は難を免れ、それらは1937年(昭和12年)に国宝建造物に指定を受けましたが、昭和20年の大阪大空襲でおしくも焼亡してしまいました。
その後、20坪あまりのバラックの再興を皮切りに4年の歳月をかけて本堂を再建、それに併して客殿、表門及び土塀を築造し今に至っています。
幾多の難を耐え抜いた、境内に現存する府指定名勝の庭園は京都の庭師である相阿弥(そうあみ)によって造られた100坪ほどの名園で1938年(昭和13年)に府の名勝に指定されるとその名は高まり、一躍大阪の名所となって訪れる人が絶えなかったといいます。
今では辺りの風景も変わってしまいましたが、この庭園だけは時代の流れをよそに、風趣のある姿を変えずにいます。初夏はさつき、秋は紅葉が美しく、四季をめぐってこの歴史ある境内に彩りを添え、やすらぎの時間と空間を創り出しています。
(中略)
相應庵は大阪市浪速区大国にある、願泉寺の敷地内にあり、四百年以上の昔に京都の庭師、相阿弥によって作られ、後に名勝庭園にも選ばれた日本庭園に囲まれた茶室です。
(相應庵ウェブサイトより)
境内へ、本堂の横から墓地にはいり、その右奥に庭園の一部が見えてくる。
府名勝 願泉寺庭園 桃山時代 枯山水
枯山水として大阪府下で最高級の評価を得ている。正面から見る。栗石で示される川の流れは二つの巨大な石橋の下をさかのぼり、奥の滝の石組に至る。その左には巨大な立石が並ぶ。滝の背後に築山があるが、荒廃しているようだ。
右手奥が現代の茶室「相應庵」である。
細部を見る。
築山の途中から見下ろす。
築山の上部
滝岩組の上にネコの親子がいた。岩陰に住み着いているようだ。このあたり、イタチが走り回っていると聞いたので、特に子ネコが心配だ。
茶室「相應庵」のあたり
All rights reserved 無断転用禁止 登録ユーザ募集中