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大阪府島本町 水無瀬神宮

(Minasejingu Shrine, Shimamoto town, Osaka)

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三島郡島本町広瀬3-10-24 水無瀬神宮客殿 重文 近世以前/住宅 桃山 桃山 桁行11.8m、梁間10.9m、一重、入母屋造、桟瓦葺 19260419

三島郡島本町広瀬3-10-24 水無瀬神宮茶室 重文 近世以前/住宅 江戸前期 江戸前期 桁行7.6m、梁間5.2m、一重、寄棟造、茅葺、東面庇付、こけら葺 19260419


Jan.2011 撮影/文:野崎順次

大阪府三島郡島本町広瀬3丁目

撮影日: 2011年1月10日

水無瀬神宮は、後鳥羽天皇の離宮水無瀬殿の跡に建立されたものである。

承久の乱で隠岐に流されそこで崩御した後鳥羽上皇の遺勅に基づき、1240年(仁治元年)、水無瀬信成・親成親子が離宮の旧跡に御影堂を建立し、上皇を祀ったことに始まる。

1494年(明応3年)、後土御門天皇が隠岐より後鳥羽上皇の神霊を迎え、水無瀨宮の神号を奉じた。

江戸時代まで仏式で祀られていたが、明治時代に神式に改められ、水無瀨宮(のち水無瀬神宮)に改称した。

後鳥羽天皇と同じく承久の乱により配流されてそこで崩御した土御門天皇・順徳天皇の神霊を配流地から迎えて合祀した。

1873年(明治6年)に官幣中社に、1939年(昭和14年)に官幣大社に列格した。

所蔵する美術工芸品

国宝 紙本著色後鳥羽天皇像

鎌倉時代の似絵(にせえ、肖像画)の代表作。承久の乱に敗れた後鳥羽上皇は出家して隠岐に配流される前に、絵師藤原信実(のぶざね)に命じて自身の出家前の肖像画を描かせたことが『吾妻鏡』に見え、その絵にあたるものという。

国宝 後鳥羽天皇宸翰御手印置文

「宸翰」は天皇直筆の意。「置文」は遺言とほぼ同意。1239年(暦仁2年)、隠岐に流されていた後鳥羽上皇が崩御の13日前に書いた自筆の遺言状。文面には上皇の手印(手形)が鮮明に付されている。歴史上著名な天皇の宸翰としてきわめて貴重な史料である。

重文 後鳥羽院置文案文

重文 後鳥羽院宸翰消息

重文 後村上天皇宸翰願文

西側の参道から入る。

府文 神門(桃山時代 1592〜1596年)

薬医門造。石川五右衛門が祀られた名刀を盗みに入ろうとして様子を伺っていたが、神威により門内へも入れず、仕方なく立ち去ったときに残した手形と言われるもののあとがある。

境内

離宮の水、昭和60年、大阪府下で唯一環境庁認定の「全国名水百選」に選ばれた。清流水無瀬川の伏流水の井戸から汲み上げられており、古くからの名水である。

境内

拝殿と本殿(京都御所の旧内待所の旧材を用いて寛永年間に移築したもの)

重文 客殿(桃山)

桁行六間、梁間五間の入母屋造、桟瓦葺。建てられた時期は不明であるが、豊臣秀吉からの寄進で、造営奉行は福島正則と伝えられる。ちょうど、初釜(新年お茶席)が行われていた。

茶室 灯心亭(江戸初期)

茅葺き寄棟造り。後水尾天皇より下賜されたと伝えられる江戸初期の数奇屋風書院。内部は、三畳台目の席と同面積の勝手とを並べた構成になっている。本席(茶室)の格天井に山吹、トクサ、ヨシ、萩など十種余りの灯心の材料とされた草木を用いていることからの名称である。松、竹、梅をはじめとする様々な材種を用いた繊細な意匠が随所に見られ、江戸初期における貴族(公家)好みの代表的な茶室として知られる。

初釜を取材に来たJ:COMのクルー。

参考資料

島本町HP

ウィキペディア「水無瀬神宮」

Feb.2011 大野木康夫

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