大阪府太子町 叡福寺
(Eifukuji, Taishi town, Osaka)
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河南郡太子町太子2146 叡福寺 多宝塔 重文 近世以前/寺院 江戸前期 承応元(1652) 三間多宝塔、本瓦葺 19770128
大阪府南河内郡太子町太子2146
最寄りの駅は近鉄長野線、上ノ太子駅
案内
古民家が見受けられる府道32号美原太子線。その左手の石段を登ると西方院。叡福寺と向い合っている。
お堂は隔夜堂、本尊は(石造阿弥陀如来坐像)【府指定文化財】、平安時代の作といわれている。
西方院 宗派;浄土宗 本尊:阿弥陀如来・十一面観音菩薩 日本最古の尼寺
西方院は、622年に聖徳太子が死去した後に出家した三人の侍女、善信(俗名月益、蘇我馬子の娘)・禅蔵(俗名日益、小野妹子の娘)・恵善(俗名玉照、物部守屋の娘)により、聖徳太子廟がある叡福寺の門前にその塔頭として法楽寺の寺号で創建されたといい、聖徳太子作の阿弥陀如来像を本尊として遺髪を納めたと伝わる。(太子町HPより引用)
道路の右手が叡福寺−大阪府指定史跡である。
境内案内図
宗派;真言宗 本尊:聖如意輪観世菩薩 開基:聖務天皇
推古天皇が聖徳太子とその母を守護する香華所として建立され。聖務天皇の勅願で七堂伽藍が整い栄えたが、戦国時代に織田信長の兵火で焼失した。江戸時代に豊臣秀頼が聖霊殿を再建、その後伽藍が整えられた。
案内図の順番に建造物を並べる。飛ばしたものもある
二天門−太子廟への入口、内側左右に二天を祀る
聖徳太子御廟
径50mの円墳 内部は切石造の横穴式石室で、奥に太子の母穴穂部間人(あなべのはしひと)皇后の石棺、手前に聖徳太子の妃の膳郎女(かしわでのいらつめ)の漆塗りのお棺を置いた二つの棺台が安置されていることから三骨一廟と呼ばれている。後に弘法大師をはじめ多くの高僧が廟内で修行したと伝えられ、わが国仏教の聖地としても重要な位置を占めている。石柱垣の正面に菊の御門が入る。
三連の拝殿風の建物、石室には入れない、阿弥陀三尊の掛け仏は三骨一廟のシンボル、雲に絡む瓦も目立つ
浄土堂 本尊:阿弥陀三尊像 桁行五間、梁間4間、入母屋造、本瓦葺 1597(慶長2)年再建、
経蔵−六角形の建物
弘法大師堂−弘法大師自らが刻んだとされる大師像が本尊 方三間、宝形造、本瓦葺、一間向拝付
念仏堂 本尊:阿弥陀如来坐像
客殿
南大門とその付近−三間一戸、入母屋造、本瓦葺、八脚門 1958(昭和33)年に再々建、扁額は山号で無く「聖徳廟」
南大門から二天門を見る
二天門から南大門を見る
多宝塔−国重要文化財 1652(承応元)年に再建 本尊は釈迦、文殊、普賢の三尊像 木割は太めで近世では正統派に属する。
金堂−大阪府指定文化財 桁裄五間、梁間四間、入母屋造、本下藁葺 本尊:如意輪観音坐像(高さ90cm) 1732(享保17)年の再建
聖霊殿−国重要文化財 太子堂とも呼ばれる 聖徳太子十六歳像を祀る 1603(慶長8)年豊臣秀頼が再建 縁高欄擬宝珠より判明。
桁行三間、梁間五間、入母屋造、本瓦葺、一間向拝付 1603(慶長8)年再建
上の御堂−聖徳太子35歳像をまつる
見真大師堂−改修中 来年3月末終了 本尊:親鸞聖人座像 方三間、宝形造、本瓦葺、一間向拝付、1912(明治45)年建立
隔夜堂−本尊は:(石造阿弥陀如来坐像)【府指定文化財】、平安時代の作といわれている。府道
府道32号線美原・太子線沿い、西方院への参道(石段)上り口に建つ。
境内もろもろ
September 15,2014 大野木康夫 source movie
所在地 大阪府南河内郡太子町太子2146
門前付近
山門付近
金堂(大阪府指定文化財)
享保17(1732)年の建築
桁行五間、梁間四間、入母屋造、本瓦葺
多宝塔(重要文化財)
承応元(1652)年の建築
三間多宝塔、本瓦葺
多宝塔細部
聖霊殿(重要文化財)
慶長8(1603)年の建築
桁行三間、梁間五間、一重、入母屋造、向拝一間、本瓦葺、
南面突出部 桁行三間、梁間二間、一重入母屋造、本瓦葺
附指定:玄関1棟、厨子1基
聖霊殿細部
聖徳太子磯長陵へ
磯長陵
境内各所
門前から見た多宝塔
大阪府南河内郡太子町太子2146
磯長山 叡福寺
撮影日: 2012年2月4日
聖徳太子墓を守護するために、推古天皇によって建立され、奈良時代に聖武天皇が大伽藍を整備したと伝えられ、聖徳太子信仰の霊場として発展した。織田信長の兵火によって、一時は全山が焼失したが、豊臣秀頼の聖霊殿再建に始まり、順次伽藍が再興された。太子の忌日を偲んで行われる毎年、4月11・12日の大乗会式は、多くの参詣者でにぎわう。
現地説明板など
石段を上り、山門から境内に入る。
国重文 多宝塔 江戸前期 承応元年(1652)
三間多宝塔、本瓦葺。江戸の三谷三九郎によって再建された。比較的木割が太く、近世では正統派に属する端正な多宝塔である。
府文 金堂(棟札付き) 江戸中期 享保17年(1732)
聖霊殿と多宝塔の間に位置し、如意輪観音を本尊とする。小屋裏に残されていた棟札から再建時期が明確である。
国重文 聖霊殿 桃山 慶長8(1603)
桁行三間、梁間五間、一重、入母屋造、向拝一間、本瓦葺。南面突出部 桁行三間、梁間二間、一重入母屋造、本瓦葺。
聖徳太子の墓前に営まれた寺院。聖霊殿は聖徳太子像を祀るもので、豊臣秀賴の再興になる。平面L字型の特異な形式をもつ仏堂で、細部の手法はよく時代の特色を示す。
その他境内
聖徳太子墓(叡副寺北古墳)
日本書紀によると、聖徳太子は推古29年(621)に亡くなり、磯長の地に葬られました。太子墓は径50メートル、高さ10メートルほどの円墳で、内部は精巧な切石を用いた横穴式石室である。太子と母君の穴穂部間人皇后、妃の膳郎女の3人の棺が納められていると伝えられることから、三骨一廟と呼ばれている。墳丘の周囲は「結界石」と呼ばれる石の列によって二重に囲まれている。
浄土堂、見真大師堂など
西側の石塔、石仏群
府文 石造阿弥陀如来坐像 平安末期
山門の道を隔てて向いに隔夜堂という小さなお堂があり、本尊が石造阿弥陀如来坐像である。
太子・和みの広場(背後は聖徳太子墓)、石室模型、松井塚古墳石槨などが屋外展示されている。
聖徳太子墓の石室模型
松井塚古墳の石槨【府指定文化財】大阪府指定有形文化財
昭和33年、偶然発見された松井塚古墳は、狭い石室内部に二上山から産出する凝灰岩製の横口式石槨を納めた、初期の終末期古墳である。現在、石槨はここに移築展示されている。
移築された横穴式石室など
国登文 山本家住宅(高塀、主屋、西蔵、東蔵) 大正3年1914
近くの町並み
参考資料
太子町HP
国指定文化財等データベース
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