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大阪府高槻市 普門寺
(Fumonji Temple, Takatsuki City, Osaka)

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高槻市富田町4-10-10 普門寺方丈 重文 近世以前/寺院 江戸前期 元和7(1621) 桁行13.8m、梁間10.9m、一重、入母屋造、こけら葺 棟札1枚 19770128


Feb. 2012 野崎順次 source movie

大阪府高槻市富田町4−10−10
臨済宗妙心寺派
慈雲山 普門寺

撮影日: 2012年2月26日

普門寺は、明徳元年(1390)、建長寺蘭渓派の僧、説厳(せつがん)によって開創、永禄年間(1558〜1569)には、細川晴元(はるもと)、足利義栄(よしひで)が入山した。その後、普門寺は、元和3年(1617)の龍渓(りゅうけい)の入山によって隆盛を極めることになる。

龍渓は、方丈や枯山水庭園の造営などの大事業を成し遂げる一方、当時長崎に滞在中であった明の高僧隠元(いんげん)を普門寺に招いた。隠元は、宇治に黄檗宗の総本山である萬福寺を開創して移るまでの約6年間を普門寺ですごし、その間、普門寺は一時黄檗宗に改宗し、禅寺として大いに栄えた。

さて、境内の整備や隠元の招聘など普門寺の隆盛に尽力した龍渓だが、臨済宗妙心寺派龍安寺の末寺であった普門寺の隠元入山後の改宗などをめぐって妙心寺内で対立が生じ、隠元が宇治に移った後、龍渓も普門寺を去る。

龍渓、隠元の去った後の普門寺は、再び龍安寺の末寺となったが、専任の住職はおかれず、龍安寺の輪番所となっていた。また、明治時代の廃仏毀釈によって寺地や諸堂の多くが失われるなど荒廃の一途をたどった。

戦後、普門寺は再興され、方丈が国の重要文化財に、境内のほとんどと庭園が国の名勝に指定されている。

パンフレットと現地説明板

表門をくぐり境内に足を踏み入れると、明の高僧隠元禅師が作ったとされる石畳が境内奥のへと導く。

隠元書「獅林」の大額は、今も方丈の一角にある。明暦二年(1656)創建横十間縦七間半の仏殿に掲げられていた。

国重文 普門寺方丈 江戸前期 永禄年間に再建、元和7年(1621)に移築
桁行七間、梁行五間半で、一重、入母屋造、こけら葺。桁行方向に三室を梁行方向に二列に配した六間取りで、木割が細くて建ちが低く、古風なところがある。京都に多い禅宗方丈が地方へ伝わる過程の一遺構として重要である。

方丈内部
御本尊 釈迦如来・脇仏右荷葉尊者・左阿難尊者
隠元禅師が中国より渡来した唐時代の仏像で、中国の名高い佛師范道生作という。
襖絵は狩野安信(1614 - 1685)の水墨画で、荒廃していた時の雨漏りによる損傷が激しい。

方丈前の庭

方丈西の庭 心字の庭 古庭園研究家森蘊工学博士による昭和の名庭園。

観音補陀落山の庭 
江戸時代初期の玉淵作と伝えられる池泉式枯山水庭園で、地形の起伏と要所に配された石を、水面と岸または島等にみたてた、まとまりのよい庭園で江戸時代初期の玉淵作と言われている。京都桂離宮の松琴亭北園「天の橋立」を造園の頃に造られたとみられ、その石組みが取り入れられている。

境内の一角には摂津管領細川晴元の墓と伝えられる宝篋印塔が建つ。戒名「龍昇院殿前右京兆心月清公大居士」永禄六年三月一日卒(1563)。

近くの町角にて

参考資料
普門寺パンフレット
高槻市HP


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