大阪府豊中市 服部緑地/日本民家集落博物館
(Hattori Ryokuchi Park/Museum of Old Japanese Farm Houses,Toyonaka City, Osaka Pref.)
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豊中市服部緑地1-2 旧山田家住宅(旧所在 長野県下水内郡栄村) 重文 近世以前/民家 江戸中期 江戸中期 "桁行14.1m、梁間8.3m、一重、寄棟造
中門 桁行4.5m、梁間5.6m、一重、正面入母屋造
総茅葺" 19640529
豊中市服部緑地1-2 旧泉家住宅(旧所在 大阪府豊能郡能勢町) 重文 近世以前/民家 江戸中期 江戸中期 桁行11.9m、梁間7.9m、一重、入母屋造、妻入、茅葺 19640529
豊中市服部緑地1-2 旧椎葉家住宅(旧所在 宮崎県東臼杵郡椎葉村) 主屋 重文 近世以前/民家 江戸末期 江戸末期 桁行22.1m、梁間9.0m、寄棟造、茅葺 19730223
豊中市服部緑地1-2 旧椎葉家住宅(旧所在 宮崎県東臼杵郡椎葉村) 馬屋 重文 近世以前/民家 江戸末期 江戸末期 桁行8.2m、梁間6.4m、寄棟造、茅葺 19730223
March 1,2025 大野木康夫
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所在地 大阪府豊中市服部緑地1-2
案内看板
河内布施の長屋門(登録有形文化財)
江戸末期の建築
木造平屋建、瓦葺、建築面積58㎡
【国指定文化財等データベースから引用】
桁行15m、切妻造、本瓦葺の長屋門。やや左寄りの門口は間口3mで、両開板戸を吊る。右は供部屋で正面に格子窓を開き、東は蔵で扉口のみを設ける。外壁は大壁の漆喰塗で腰板張とし、正面は垂木まで塗込める。旧家の格式を伝える長屋門の一例。
板倉の家(事務所)
東日本大震災の応急仮設住宅
堂島の米蔵(登録有形文化財)
江戸末期の建築
土蔵造2階建、瓦葺、建築面積49㎡
【国指定文化財等データベースから引用】
桁行六間、梁間二間、切妻造、本瓦葺、妻入の土蔵。小屋組は、曲がり材の梁を折置に組む和小屋とする。正面扉口は、内側を木瓜型に縁取った観音扉と土戸及び格子戸を建て込み、正背面に一所、妻面に各二所の窓を開く。かつての堂島蔵屋敷を偲ぶ貴重な遺構。
旧椎葉家住宅(重要文化財)
【豊中市ホームページから引用】
宮崎県日向の椎葉村は、飛騨白川村や阿波祖谷村と共に、わが国三大秘境として知られています。昭和34年(1959年)に移築されたこの民家は、急峻な山の斜面に建てられるため、「竿家造り(さおやづくり)」と呼ばれる併列間取りの細長いつくりをしています。奥行きが狭く、「ドジ(土間)」・「ウチネ(茶の間)」・「デイ(下座敷)」・「コザ(上座敷)」の各部屋が一列に並んでいる、山村特有の間取りをしています。一番の上座であるコザには神棚・床があり、肥を手にした者はその日この部屋に入ることができなかったと言われています。デイとウチネにはいろりが切ってあり、家族の者はここで寝ます。これらの各部屋の前面3分の1くらいのところに中仕切をしたウチエンがあり、その外にホカエンが続きます。背後は山腹に接しているため窓のない板壁となり、物入戸棚・神棚などが並べてあります。屋根は下地に筵(むしろ)をかぶせ、この上から茅(かや)で葺(ふ)いています。寄棟(よせむね)の屋根にはウシと呼ぶ自然木の置千木をのせて、棟押えとしています。大家族でもないのにこのような大きな家が建てられたのは、12月の夜、神楽を催すためで、数日前より忌み清められたデイで演じられます。コザは楽人、世話人たちの控室になり、ウチエン、ホカエンには村人が家格の順に座って神楽を楽しみました。
馬屋
江戸末期の建築
桁行8.2m、梁間6.4m、寄棟造、茅葺
主屋
江戸末期の建築
桁行22.1m、梁間9.0m、寄棟造、茅葺
旧泉家住宅(重要文化財)
江戸中期の建築
桁行11.9m、梁間7.9m、一重、入母屋造、妻入、茅葺
【豊中市ホームページから引用】
この家は大阪府の北端、能勢町吉野から昭和35年(1960年)に移したものですが、移築に際して、後世改造されていた部分を原形に復元しました。このような民家は、全国的に少なく、京都府から兵庫県の一部に分布していました。現在、大阪府内では豊能郡だけに残っています。その中でもこの家は最古のもので、定かな建築時期は不明ですが、恐らく300年以上を経過していると考えられます。
この民家の特色は入母屋造茅葺(いりもやづくりかやぶき)の屋根をあげ妻入にし、内部は縦に2分して、片側を室にしている点です。室の前面一間を開放的な広縁とし、土間共、この一間(広縁分)入ったところで戸締りするようになっています。広縁の奥に座敷、その次に土間に向って開放的な台所をとり、後端は周囲を閉した納戸とし、片引戸の入口によって出入します。座敷の横には通路を残して厩(うまや)を設け、奥のやや広い土間に竈(かまど)、流し等を置き、側方には戸口を開いています。細い柱を殆ど一間毎に立て、開口部は極めて少なく、片引戸を多く用いているため、採光は極めて不十分です。また、梁(はり)の架け方にも特色があり、屋根は束(つか)をたてて棟木を支え、垂木(たるき)を配して作られています。周囲半間では屋根裏を見せ、天井は丸竹をならべています。
旧重光家高倉(奄美の高倉)(大阪府指定有形文化財)
江戸末期の建築
【豊中市ホームページから引用】
奄美大島や沖縄には高床式(たかゆかしき)の倉が残っています。このような高床倉(高倉)は台湾やフィリピンなどの南方地域にその起源があると思われます。古代には日本国中に存在していたと考えられますが、現在では南西諸島や八丈島にわずかに残るのみとなりました。本高倉は昭和33年(1958年)に重光家屋敷地内にあったものを移築したものです。
高倉は穀倉であり、主として穀物を貯蔵していました。他に衣類・長持・魚肉(干物)・豚肉なども貯蔵していたようです。その構造は湿気を防ぐように造られているため、湿度の高いこの地方には非常に適したものです。また、脚の部分は堅い木(イジュ)でつくられており、ネズミが爪をひっかけて登ることができないようになっています。四方の壁は外側に傾斜し、床とほとんど水平になっていて、竹の網代(あじろ)で組みこまれているため通風がよいようになっています。高倉の登り降りは、丸太にキザミを入れた原始的な一本梯子を使用します。
沖縄本島などでも、集落と離れた位置に倉がまとめて建てられていて、倉原(くらんばーる)と呼ばれていました。集落がもし火災等の災害にみまわれても、食糧や種籾(たねもみ)を助けるためです。奄美大島には大和浜に高倉群があります。
旧山田家住宅(重要文化財)
江戸中期の建築
桁行14.1m、梁間8.3m、一重、寄棟造
中門 桁行4.5m、梁間5.6m、一重、正面入母屋造
総茅葺
【豊中市ホームページから引用】
長野と新潟の県境付近に位置する秋山郷は日本でも有数の豪雪地帯です。この地域から秋田県にかけて、中門造の民家が多く分布しています。その中でも昭和36年(1961年)に移築されたこの民家は特に珍しいもので、18世紀中頃の姿をとどめています。この民家は村の一番高い場所に位置していて、恐らく持ち主は、庄屋か組頭をしていたものと思われます。家の周囲の壁は葭簀(よしず)を張りその外側を厚い茅で取巻いています。前方に突き出た中門付の入口には便所と厩(うまや)があり、運搬用の牛が飼われていました。入口を入ると、正面にナカダチと呼ぶ衝立に似た板壁があり、室内の目かくしの役割をしています。ナカダチの下部にあるカマドでは主に雪国で欠かすことのできない味噌用の大豆をゆで、食事の煮炊きはいろりで行いました。家族の者が生活する場所は地炉の切られたナカノマで、その奥には法事など特別な時にのみ使う、仏壇のある「デイ」と呼ばれる座敷があります。その横は「張台構え」という踏み込みの高くなったつくりになっていて、入り口には筵(むしろ)がかけられ板壁に囲まれた寝室があります。このように寝室のみ間仕切りがあり、他は全く建具が使用されていない点も注目されます。「ニワ(土間)」と寝室の入口には掘立柱が使用されていて、古く民家の柱は全て掘立柱であった頃の名残をとどめています。
旧丸田家住宅(大阪府指定有形文化財)
天保6(1835)年の建築
【豊中市ホームページから引用】
十津川(とつかわ)村は奈良県の南端にある山村で、集落は山の急斜面に点在しています。どの家も山と谷にはさまれているため、横に長い間取りをとっています。
昭和37年(1962年)に移築されたこの民家も、背面には窓や出入口がなく、全て板壁で囲われています。ここでは年間3000mmにおよぶ降雨量があるので、水に弱い土壁は、土蔵以外には使用されていません。
母屋の屋根は切妻(きりづま)のソギ葺(ぶき)です。ソギは木を割いて厚さ5mmほどの板にし、これを約30cm四方に切ったものです。この板を軒先から50cmほどに垂直にうちおろし、これに軒天井(のきてんじょう)を張ります。これは、よこなぐりの風雨から家を保護するはたらきをしています。
間取りは右勝手の平入りで、中に入ると炊事場になる土間があり、この左方にカッテノマがあります。このカッテノマに切られたいろりで物を煮炊きし、これを囲んで家族が食事をしました。中央のナカノマは居間兼寝室にあてられ、オクノマは客間とし、神棚がおかれています。
旧山下家住宅(大阪府指定有形文化財)
江戸後期の建築
【豊中市ホームページから引用】
滋賀県湖北地方には、縦割りの間取りを特徴とする民家が分布しています。この形式の民家のうち妻入りのものを伊香(いか)型、平入りのものを大浦(おおうら)型と呼んでいます。昭和38年(1963年)に移築されたこの民家は大浦型で、福井県西部から湖北地方にかけて分布する民家の典型的なものです。
外壁は、柱を土壁に塗り込める大壁(おおかべ)づくりで、梁(はり)や柱などは豪雪地帯のため太い構造材を用いています。間取りは前面が土間で、後側は一段高くなって部屋が並び、家を二分しています。いろりのある手前の部屋は床が一段低く張られ、土間との間仕切りがありません。かつてこの部屋が土座(どざ)であったという名残りでしょう。土間も、ワラムシロを敷き、履物を脱いで使用していました。土座の生活から床板を張るにいたるまでの生活の移行過程の姿をよくとどめています。家の中央に出入口があり、右に厩(うまや)、左に炊事場があります。そして奥は、左手が寝室、中央がクチノマ、右側が座敷になっています。
クチノマの前面左側の柱が大黒柱と呼ばれ、古くはその家の神を祀る場所でした。正月には雑煮や正月の御馳走をヤスツボというワラの容器に入れて大黒柱にそなえます。しかし、こういう柱の信仰も後には床の間や神棚に移りました。
北河内の茶室(登録有形文化財)
嘉永4(1851)年の建築
木造平屋建、茅葺、建築面積27㎡
【国指定文化財等データベースから引用】
切妻造、茅葺で、四畳半の茶室と三畳の勝手からなり、濡縁をつけた貴人口は、縁端を壁として躙口や勝手の縁とを明瞭に画する。貴人口上部に櫛形窓、床脇に下地窓を穿つ。出節丸太の床柱、磨丸太の床框の他は簡明な意匠で、上層農家の茶室の好例。
旧藤原家住宅(大阪府指定有形文化財)
江戸後期の建築
【豊中市ホームページから引用】
東北地方の農家は、広い平野にそれぞれの位置を占めた散村を形作り、敷地背面に防風林をもつ永い独立した生活を送った姿をとどめています。昭和39年(1964年)に移築されたこの民家も、かつては一つ家(ひとつや)と呼ばれ、この家がぽつりと一軒建っていたという名残りを伝えています。旧南部藩(なんぶはん)に属するこの地方は、かつて馬の産地として栄えました。大きな厩(うまや)と母屋(おもや)をカギ型に接続させた「曲家(まがりや)」が多いのもそのことからです。母屋は座敷・板張りの広間(ジョイ)・狭い2つのネマからなっています。厩(うまや)と母屋の接続部には、台所と広いニワ(土間)があります。いろりは台所を切りこんで作られていますので、土足のまま火を囲んで家族がだんらんできるようになっています。また、ここからニワごしに厩が良くみえるので、日常生活の場からいつも馬の様子をみることができます。特に冬期は、母屋に煙出しがなく厩が入母屋(いりもや)になっているので、いろりの暖が厩を通って屋外に出るようになっています。これらの事から、馬に対する家族の細やかな心遣いがみうけられます。
棟にはイチハツやカンゾウを植え、農村らしい風情をもっていますが、戦後は馬の飼育がすたれ、厩の入口にはお守りだけが今も残っています。
小豆島(旧吉田)の農村歌舞伎舞台(大阪府指定有形民俗文化財)
安政6(1859)年の建築
【豊中市ホームページから引用】
農村歌舞伎は、刈り入れや田植えなどを祝って、村人たちが自分達で歌舞伎を演じていたものです。小豆島(しょうどしま)には、かつて歌舞伎を演ずる舞台が24ありました。
昭和38年(1963年)に小豆島の吉田部落より移築されたこの舞台は、小規模なもので、安政6年(1859年)の棟札(むなふだ)が残っています。舞台の前には観覧席が設けられ、最上段には社殿が位置しています。舞台下手袖には花道がつけられ、上手には楽人の座る台がつくられています。
小豆島の歌舞伎の特色は、その舞台が村の神社か、お旅所の境内に建てられ、ちょうど社殿に向かいあうかたちで演技を神に奉納する目的をもっていることです。村人の慰安としての村芝居よりも、古い時代の演劇のあり方を示している点が興味深く感じられます。
旧大井家住宅(重要有形民俗文化財)
江戸後期の建築
【豊中市ホームページから引用】
昭和31年(1956年)に飛騨白川村(ひだしらかわむら)より移築されたこの民家は「合掌造り(がっしょうづくり)」と呼ばれ、屋根は茅葺き(かやぶき)で、母屋の構造は平入りの3階建です。建築年代は不明ですが、今から200年位前のものと考えられます。1階は家族の生活の場で、2階・3階は通気が良く主に養蚕に使用していました。妻側に接して、ヘンチャ(便所)とミンジャ(水屋)が建てられています。壁は土壁を一切用いず、全て板壁造りですが、その板壁も横板を柱の間に落したもので、現在では神社形式にしか見られない古いつくりのものです。床のほかには釘やカスガイを用いず、縄とネソと呼ぶ木の枝で縛りつけています。合掌造りの名は屋根の木組みが、掌(たなごころ)(手の平)を合わせた形になっているところからきています。つまり、屋根の重心が集中するため、安定性があります。こうした構造から、風雪に強く、その合理性は現在の知識でも裏付づけられます。
May 23, 2015 野崎順次
大阪市豊中市 服部緑地
(Hattori Ryokuchi Park, Toyonaka City, Osaka Pref.)
正式名称は「大阪府営服部緑地」。
1941年(昭和16年)の防空緑地計画に由来する大阪四大緑地(服部・鶴見・久宝寺・大泉)のひとつ。
財団法人大阪府公園協会が管理を行っている。面積は約126.3ヘクタールで、甲子園球場33個分(東京ドームなら27個分)という広大な敷地を有する。
緑地内には緑豊かな自然のほか、「山ヶ池」など10以上の池や遊具が点在しており、春から秋にかけては花見などの行楽客で賑わう。
園内のほぼ全域が風致地区に指定されており、日本の都市公園100選や日本の歴史公園100選にも選出されている。
入園は無料だが、公園内部にある日本民家集落博物館など一部の施設と、駐車場は有料である。駐車場は4か所設けられているが、多客期には敷地内に臨時の駐車スペースが増設されることがある。
(ウィキペディア「服部緑地」より)
北大阪急行南北線緑地公園駅から西へ緑道を進む。
東中央広場
階段を上って
円形花壇
民家集落南広場
日本民家集落博物館を見学してから
西中央広場
山ヶ池
楽しそうな遊園地
西へ、緑橋から振り返る。
May 23, 2015野崎順次 source movie source movie
日本民家集落博物館
日本民家集落博物館は、日本各地の代表的な民家を移築復元し、関連民具と合わせて展示する為に1956年(昭和31年)に日本で最初に設置された野外博物館です。
大阪府豊中市の服部緑地公園の一角で梅、桜、竹、柿、その他多くの樹木や草花に囲まれた約3万6千m2の敷地内に、北は岩手県「南部の曲家」から南は鹿児島県「奄美大島の高倉」まで11棟の民家を集めています。いずれの民家も17〜19世紀(江戸時代)に建築され、昭和30年代まで人々が生活を営んでおられたものであります。その他に奄美大島・山陰のクリ船、堺の風車なども展示しております。
各民家は、地方固有の風土・習慣から生まれた特色を色濃く残し、景観的に優れたものであります。そこには、その土地の自然を活かし、調和を図りながら生活を営んでいた人々の知恵が随所にうかがえます。それぞれの暮らしぶりは時の流れを超えて、いまに生きる私たちに、大切なメッセージを静かに語りかけてくれることでしょう。
(公式ウェブサイトより)
パンフレットと現地説明板
河内布施の長屋門
旧塩川家長屋門 江戸中期
大八車
大阪堂島の米蔵
飛騨白川の合掌造民家
国指定重要有形民俗文化財 旧大井家住宅 江戸後期
屋根は茅葺きで、母屋の構造は平入りの三階建て。一階は家族の生活の場で、二階、三階は通気が良く主に養蚕に使用していた。妻側に接して、ヘンチャ(便所)とミンジャ(水屋)が建てられている。
摂津能勢の民家
国重文 旧泉家住宅 江戸中期
正面11.9m、側面7.9m、一重、入母屋造、妻入、本瓦葺
原田城主原田右衛門尉の五輪塔など
奄美大島の高倉
府文 旧重光家住
日向椎葉の民家
国重文 旧椎葉家主屋 江戸末期
正面22.1m、側面9.0m、寄棟造、茅葺
国重文 旧椎葉家馬屋 江戸末期
正面8.2m、側面6.4m、寄棟造、茅葺
信濃秋山郷の民家
国重文 旧山田家住宅 江戸中期
正面14.1m、側面8.3m、一重、寄棟造
中門 正面4.5m、側面5.6m、一重、正面入母屋、 総茅葺
栗栖山南墳墓群の石造物 室町
奄美大島のクリ舟(スブネ)とソリコブネ
大和十津川の民家
府文 旧丸田家住宅
越前敦賀の民家
府文 旧山下家住宅
北河内の茶室
旧原田家茶室
南部の曲家
府文 旧藤原家住宅
小豆島の農村歌舞伎舞台
府文 旧吉田の農村歌舞伎舞台
堺の風車 昭和初期(1930年代)
参考資料
日本民家集落博物館公式ウェブサイト
国指定文化財等データベース
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