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大阪府豊能町 石仏めぐり

(Stone Buddhist Images and Pagodas,Toyono Town,Osaka Pref.)

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December 24 and 31, 2023  野崎順次  source movie

 

大阪府能勢郡豊能町川尻
豊能町石仏めぐり ― 川尻地区
(Stone Buddhist Images and Pagodas in Toyono Town, Nose County, Osaka Pref.)

「」内の説明は『とよのちょう観光ボランティアの会』サイトからの引用である。

12月24日 快晴

阪急池田駅からバスに乗り、川尻地区の平野で降り、山裾を回り棚田を直上する。

   

中の谷多尊石仏 
「上部に阿弥陀三尊、その下に16体の逆修仏が彫られている。碑文に天正元年(1573)と記されている。逆修とは、生前に死後阿弥陀如来の功徳により極楽往生しようとするもので鎌倉時代に始まり、乱世の永禄・天正年間に最高潮に達した。」

             

中の谷光明真言板碑
「寛文12年2月念仏講中により造立。大日如来報身真言アビラウーケンを十字に刻み真言宗の最重要の光明真言24文字をまるく囲んでいる。真言とは梵語を原音そのままに発音したもの。(密教)」

       

さらに府道4号線を登ると、法輪寺が見えてくる。

        

法輪姫の塔
「グミノ尾という所に散在していたものを、集め組立てたもの。宝筐印塔の基礎と五輪塔の水輪地輪は立派な造りである。中央の塔の基礎に文和4年(1355)の紀年銘のあるものを法輪姫の塔と呼ぶ。法輪姫とは誰か不明。」

                        

法輪寺
「光明山遍照院法輪寺・真言宗のお寺。開基は秘仏「出世大黒天」彫った弘法大師説もあるが、箕面・勝尾寺開基した開成皇子が勝尾寺へ移る前に草庵を結んだのが始まりではないかと思われる。本尊は妙観察智阿弥陀如来で、薬師如来、弘法大師像、牛頭天王、八大龍王などの仏像が祀られている。」

      

法輪寺宝筐印塔
「【宝筐印塔】は三蔵法師が印度から持ち帰って訳した。一切如来心全身舎利宝筐印陀羅尼経から出た名称で、この経典を写経して塔中に置き礼拝供養すれば、生きている間は災害から免れ、死後は必ず極楽に生まれ変わるとされることに由来する。後年、本来の目的以外で造立されたものが多い。塔の様式などから法輪寺の塔は、南北朝の頃の造立と推定される。」

           

寺からの眺望

   

北の谷不動明王板碑

        

北の谷大峰供養塔

       

長屋門のある屋敷

   

北の谷多尊石仏 
「造立は桃山時代天正八年(1580) 。四段に区画された最上段には定印阿弥陀像、左に観音菩薩、右に地蔵菩薩を配す。脇侍の右隣に二体、第二段から再下段に一七体の円頭合掌像が並んでいるがこれは地蔵を表し、造立願主の逆修仏と観られる。左右の五輪塔は講中の化仏者三人を表すとみられる。」

             

北の谷双体地蔵

       

今日はここまで

     

12月31日 くもり

阪急池田駅からバス乗車中はずっと小雨が降っていたが、北摂信愛園前に着くと、やんだ。

      

向井山宝篋印塔
地上高さ305.5cm、花崗岩製。豊能町にある江戸時代の宝篋印塔の最も古いもので、基礎正面に胎蔵界大日如来の梵字を刻み、他の3面にも銘文がある。それによれば享保七年(1722)当地の塩山左衛門満雅が現世安穏、後生菩提を祈って建立したものである。塔身の四方には金剛界四仏の梵字がきざんであり、典型的な江戸時代の宝篋印塔(ほうきょういんとう)である。

            

向井山地蔵石仏
自然石の台上に西面して立つ石に舟形を彫り込み、蓮座上に地蔵石仏の厚肉彫りがなされている。右手に柄の短い錫杖を、左手に宝珠を捧げ、お顔は少し損傷しているが温和のうちに厳しさがある。この地蔵尊は法性寺・地蔵尊(1314)および下所・地蔵尊に続く系統の室町時代前期のものと考えられる。

     

バス停に戻り、金石橋を渡り、府道4号線を上る。

     

殿方庚申塔
庚申信仰(中国道教の三尸説 さんしせつ)による。
享保7年(1722)造立。中央に青面金剛、上部に地蔵菩薩、下部に施主6名が記されている。人々が庚申講を結成し60日に一度巡って来る庚申の日に健康長寿を願って「庚申待ち」という行事を行っていた。

          

さらに上り、川尻自治集会所の前で左の急坂を行く。大きな家が多い。

          

打越阿弥陀三尊石仏
向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩の脇侍を従えた阿弥陀如来像。平安時代南朝年号 正平7年(1352)当時この地方は足利氏勢力下にあった。近くに多宝塔、万霊塔もある。

                    

打越宝塔
宝塔は本来大日如来を本尊としたもので、基礎・塔身・笠・相輪よりなり、塔身に金剛界四仏を刻む。四角の裳階(モコシ)を加えたものを多宝塔という。石造物としては全国的にあまり残っておらず、豊能郡では打越と能勢町清普寺の能勢総家だけのようである。

        

府道4号線に戻り、北の谷で林道に入る。

              

北の谷地蔵不動明王磨崖仏 
3m大の磨崖面に50cmほどの舟形を二つ並べ、左に不動明王、右に地蔵菩薩の立像が彫り込まれている。紀年銘は天正17年(1548)。

                   

 

 


December 2 and 10, 2023 野崎順次  source movie


大阪府能勢郡豊能町切畑・余野・木代

切畑、余野、木代各地区の石仏など石造物を概ね東から西へと撮影した。
「」内の説明は『とよのちょう観光ボランティアの会』サイトからの引用である。

12月2日
切畑地区への公共交通は、阪急バスが茨木市駅から1日3回往復しているだけである。午前9時48分に出発して、約1時間余で中所(なかんじょ)で降りて、まず余野十三仏(後出)を見てから、余野からの折り返しのバスに乗り、大円(おおまる)に午前11時50分頃に着いた。最初の三尊石仏は道路添いの擁壁の横をよじ登る。途中からは鎖が付いている。わずか数メートルだが、ちょっと怖い。
 
切畑大円小松阿弥陀三尊石仏
「切畑大円小松の観音堂前の府道をへだてた崖の上にある。高さ75cm、横幅3mの岩面に阿弥陀三尊の磨崖仏が彫られている。中央の阿弥陀如来は、舟型の彫り込みに半肉彫り27cmの坐像である。左右の観音、勢至菩薩は内側を向いた姿の坐像となっており、近所の人が「小松の横向き地蔵」と呼んでいる。三尊の姿は、肉付きが豊かで、丸味ある彫りの童顔の面相で実にかわいい。南北朝期の作であろう。」

         

次に切畑大門風上の摩崖仏を目指した。事前に調べた案内図の通り、棚田の上にある池の堤沿いに藪に入ったが、踏み跡が不明瞭なので断念した。

      

切畑妙見宮の石燈篭
切畑小平尾にあり、正面に「妙見宮」「若中」右面に「嘉永四年(1851)亥八月」の刻がある。この地区の若者集団の組織「わかなか、わかじゅう」で、神輿かき、獅子舞い、にわか芝居、太鼓かきなどはみな若中がつとめていた。昔は火消し役をしていたようである。この燈籠は若中が建てたものである。
(豊能町教育委員会「豊能町の石の文化財」平成28年3月31日改訂)

    

大円釈迦堂

        

町文 切畑大円釈迦堂阿弥陀三尊笠塔婆
「旧岩奥山竜泉寺跡と伝えられる釈迦本堂の一隅にある豊能町最古の石仏。鎌倉時代後期、乾元二年(1303)の作。中尊は阿弥陀如来の坐像で、高さは29cm、印相は阿弥陀の定印と見られる。その下にある左右の脇侍・観音菩薩は蓮台を持ち、勢至菩薩は合掌している。願主の名は風化していて判読できないが、疫病・禍の悲運にあい、阿弥陀の慈悲にすがりたいと願主の回向、冥福を祈って造立したものである。」

               

切畑大円釈迦堂宝筐印塔
「室町中期の作風を伝えるもので、二重の基壇の上に建ち、基壇上部は繰形座で、基礎は上端が復弁の反花座、側面に輪郭を巻き内に格狭間が入れてある。塔身は各面とも輪郭を巻き、中に月輪を浮き出して、内部に金剛界四仏の梵字を薬研彫りしてある。笠は軒下2段、上6段の段形、隅飾りは二弧輪郭付きである。相輪も完全に残り、下の請花は複弁8葉、上の請花は単弁8葉である。」

         

その他の石造物

       

次に切畑大円貝川三位の墓(一石笠塔婆)を目指したが、思わぬ工事現場の囲いがあって、右に行けばよかったのだが、左の擁壁から山道に入って、途中で断念した。

           

切畑大円下所地蔵石仏
「法性寺の地蔵菩薩とよく似たお姿。細長い自然石の表に舟形を彫りこみ、中の蓮華座上に地蔵立像が半肉彫りされている。像はすらりとした長身、引き締まった感じでお顔は童顔m(ママ)スマートな衣紋と若々しい感じの好感の持てる地蔵尊像である。蓮弁の形から南北朝時代の作と推定されている」。

         

切畑下所多尊摩崖仏
「天正二年(1574)の作。自然中央石に彫られている。中央の阿弥陀仏が光輪を背にしている。阿弥陀仏像の下に「為逆修檀」の碑文が見られる。阿弥陀を主仏に左右2体づつの座像、併せて向かって左に五輪塔、中段に4体、最下段に14体の座像が彫られている。」

             

さらにほぼ2対づつ克明に撮っておく。

            

希望ヶ丘三丁目バス停まで約1㎞である。途中の木立の中に意味ありげな巨岩があったが、特に崇拝されている様子はなかった。14時52分発千里中央行き急行バスに乗った。

          

12月10日
前回と同じ阪急バスで法性寺前(ほっしょうじまえ)に午前11時前について、まず右手の坂道を行くと、食用水と書かれた泉があり、そのすぐ上に多尊石仏が安置されている。

     

切畑中の西多尊石仏
「もと溝川の橋になっていたもので、石英閃緑岩で作られた板碑で3つに割れている。上部に阿弥陀三尊、向かって右にある観音菩薩は大きく欠損し、中尊の阿弥陀如来も首のところで大きく欠けている。阿弥陀如来の頭部には放射光がある。三尊の下に5列4段、供養者たちと思われる20体の円頂・合掌の立像が蓮華座上にある。阿弥陀如来と勢至菩薩の間に刻銘、勢至菩薩の左に「道見」とある。「天正乙亥三年九月吉日」(1575)建立。」

                   

泉に戻り、左側の路をとる。

     

法性寺
「能勢頼次の能勢家再興時に禅宗から日蓮宗に改宗したもので、釈迦如来・多宝如来・日蓮上人を奉る。鎮守堂に改宗以前の十一面観音、妙見堂に妙見菩薩像を安置する。境内鐘楼脇に大阪府重要文化財・鎌倉期の石風呂、左手の墓地に大阪府重要文化財・鎌倉期の地蔵があり、「カゲ引き地蔵」の伝説を伝える。また、以前道路脇にあったという豊嶋安次郎の相撲石碑がある。」

       

府文 法性寺石風呂(石槽)
「法性寺の境内、釣鐘堂の横に旧走湯天王社のものと伝えられる石の槽が置かれている。鎌倉時代のものと推定されている。社寺での「みそぎ」や僧侶の斎戒に使用したとする説、庶民の厄病除災のための湯あみ説などがある。石風呂の周辺に窪みが多く見られる、これは薬草をすり潰したものであろう。」

             

府文 切畑法性寺地蔵石仏 
「石英閃緑岩の表に大きく蓮華座を刻み、上に舟形を彫り地蔵立像を厚肉彫りしている。右手に短い錫杖、左手に宝珠を捧げ、衣紋は左右相称だが像容はよく整い写実的であり、像全体から受ける感じはゆったりと悠揚としたものである。蓮弁の形も丸く大きくふくらみ、典型的な鎌倉時代後期のもので、「カゲ引き地蔵」の伝説がある。正和三年甲寅卯月(1314)建立。」

              

法性寺からバス道に降りて西へ行く。切畑西野の集落に入る。

                

北側山麓の福聚観音堂

    

切畑西野多尊石仏 
「石英閃緑岩に頭部山形の上部に阿弥陀三尊、その下部に15体の坐像が彫られている。弥陀如来は来迎印のようで、頭の周りには放射光が掘られている。下部4段の坐像は同型同大の円頂合掌像で多分供養者と考えられる。阿弥陀三尊の右肩に「為逆修」左肩に「天正三乙亥年八月三日」と刻まれている。本町に所在する多尊石仏7基のうちの一つ。」

                

バス道に戻り、さらに西へ

            


余野・木代地区

12月2日

余野十三仏
「地名由来で十三仏と呼び習わされているが、「十三仏塔」ではなく「逆修塔」である。所在地は遊仙寺の前身湧泉寺跡にある。碑の表裏とも上部に三尊仏下部に17体が2段に彫られている。表面主尊は地蔵菩薩と観られるが、裏面は定かではない。逆修が造立目的であることから見て、表面が地蔵菩薩、裏面が阿弥陀如来とするのが妥当。元来は阿弥陀如来を正面として配置していたと考えられる。碑文には永禄7年(1564)彼岸中日と記されている。豊能町最古の多尊石仏。」

                             

12月10日

余野遊仙寺
「寛永十三年(1636)に、現在の余野十三仏のある辺りに建立された真言宗の湧泉寺が、浄土宗に改宗し遊仙寺と改め当駅地に移転したという。」

    

余野遊仙寺寄せ墓
「昭和30年頃、余野地区内に散在していた無縁の石塔石仏を供養のために境内に集め、約200基を数段の四角錐状に並べたもの。中でも4基ある宝筐印塔には文和四年(1355)の銘があり、他の1基も南北朝時代の様式で基礎部に「木道恵南上人」と刻まれている。」

                           

錦山塚
「関取の碑で、当地の贔屓の大阪藤嶋取締りの絹川部屋の門弟たちが建立したものである。」

   

余野市街、コンビニがバイクツーリングの休憩所になっているようだ。クラシックカーもあった。。その近くのカフェ・レイドバックでチキン・キーマあいがけカレーを食べた。

                  

市街地を離れ、木立の山道を行く。

               

木代たぬきやぶ磨崖仏 
「豊能町にある7基の逆修石造物のひとつ。天正二年(1574)十一月廿八日の銘がある。それぞれの像の右肩に法名が刻まれているようで、右端のものは妙海と判読されている。16人の逆修講中が生前に死後の極楽往生を願って供養した証しである。」

                      

来た道を戻る。

      

豊能町郷土資料館、あいにく閉館してたが、屋外展示を見る。釜は寒天つくりに使われたらしい。

         
 
余野の旧池田・亀岡街道の道標
木部(現池田市木部町)から伏尾・止々呂美を経て余野に至る池田街道は、余野で大阪と亀岡を結ぶ亀岡街道に接続する交差点に建てられていたものである。平成五年頃、豊能町立郷土資料館の敷地内に移された。刻銘は下部の一部を欠いているが、大部分は読みとれ、建てられた嘉永二年(1849)の交通状況の一端が知られる。なお、亀岡街道の起点は大阪(高麗橋東詰北側)、明治九年(1876)十二月に設置された。
(豊能町教育委員会「豊能町の石の文化財」平成28年3月31日改訂)

           

その他石造物

                

帰途、余野(東能勢中)バス停に向かう。前回と同じ千里中央行きに乗れた。

          


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