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佐賀県鳥栖市 勝尾城筑紫氏遺跡
Katunoojo Chikushishi iseki,Tosu city, Saga pref.

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Apr.9,2017 瀧山幸伸 source movie

国史跡
勝尾城筑紫氏遺跡(かつのおじょうちくししいせき)

  

 鳥栖市牛原町・山浦町・河内町

 (第1次指定日)平成18年1月26日
 (第2次指定日)平成22年2月22日
 (第3次指定日)平成24年1月24日 

以下の解説は鳥栖市資料を引用

 勝尾城筑紫氏遺跡は、戦国時代、現在の鳥栖市域を中心に勢力を誇った筑紫氏の約90年間の城下町遺跡で、居城及び支城群から構成されています。
 天正14年(1586)の落城時の姿がそのまま残されており、戦国時代の城下町の姿を知る上で大変重要な遺跡です。遺跡の面積は福井県の特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡に匹敵する規模を誇ります。
 平成18年1月および平成22年2月、平成24年1月に遺跡の主要部分約230haが国の史跡に指定されました。

遺跡の概要
 鳥栖市の北西部の牛原町、山浦町、河内町にまたがる城山(じょうやま)山麓一帯に、戦国時代後期(約400〜500年前)に鳥栖地方を本拠として東肥前(佐賀県東部)や筑前、筑後にかけて勢力を奮った筑紫氏の勝尾城筑紫氏遺跡があります。勝尾城を中心に麓の館跡をはじめ、谷をぐるりと取り囲むように鬼ヶ城(おにがじょう)、高取城(たかとりじょう)、葛籠城(つづらじょう)、鏡城(かがみじょう)、若山砦(わかやまとり)の5つの支城、さらに館跡からはじまる谷間には家臣の屋敷跡、寺社跡、町屋跡や土塁、空堀等の城下跡が良好な状態で残されています。その規模は東西約2.5km、南北約2kmに及びます。
 城下町の構造としては、河内川に沿って西側の谷奥から城主筑紫氏の館並びに重臣クラスの屋敷を中心とする領主支配の中枢的な空間、2番目は高取城の北側で東西に流れる河内川を境に北に家臣屋敷と寺社、南には伝春門屋敷の空間、3番目は四阿屋神社と葛籠城及び付随する屋敷の空間、4番目が城下においてもっとも外側に位置し、主に町屋を中心とする空間で構成されています。これらの城下空間に対し、谷を遮断するように4つの長大な堀と土塁が構築されることにより領域区分と城下防備を行っています。
 全国的に、戦国時代の城下町のほとんどが現在、市街地になっていたり、開発等により改変されている中で、当時の姿を止めている勝尾城筑紫氏遺跡は戦国時代の城下町の姿を知る上で大変重要な遺跡との評価を受けています。

遺跡の発見
 平成元年度の農業基盤整備事業に伴う発掘調査によって、町屋敷や総構えの空堀が発見され、注目されるようになりました。
 その後、平成7年度〜16年度にかけて遺跡の範囲や時期を把握するための発掘調査を実施しました。その結果、勝尾城、葛籠城、筑紫氏館跡等が良好な状態で残されていることが確認されました。

筑紫氏について
勝尾城の城主筑紫氏の出自については諸説ありますが、一般的に藤原家の流れをくむ武藤氏の一門と言われています。武藤氏は鎌倉時代源頼朝の命で筑前、豊前、壱岐、対馬の5カ国を総括する鎮西奉行として関東から下向し、大宰府を本拠に少弐氏を名乗ります。この少弐氏は、九州における武家の主領として戦国時代後期(16世紀前半)まで北部九州を中心に勢力を奮いますが、筑紫氏はその有力な一門と考えられています。
 筑紫氏が勝尾城に本拠として入城するのが、筑紫満門の代で明応6年頃と考えられており、以後、満門から尚門、正門、惟門、広門までの5代、天正15年(1587)までのおよそ90年間が筑紫氏の在城期間です。
 筑紫氏の所領の規模は、鳥栖市を中心に佐賀県基山町、みやき町、福岡市早良区、春日市、筑紫野市、大野城市、小郡市、那珂川町等に及び、その勢力規模は北部九州では龍造寺氏や秋月氏に次ぐものと考えられています。 

勝尾城の歴史
 勝尾城がいつ築城されたかは同時代の史料では不明です。後世に編纂された『北肥戦誌』によると、応永30年(1423)、九州探題渋川義俊の築城と伝えられ、渋川氏が少弐氏との抗争過程において渋川氏によって築城されたようです。その後、少弐氏が東肥前を手中に占めて、勝尾城に入城しますが、周防の大内氏と抗争において少弐氏の有力な家臣であった筑紫氏が大内方に属し、明応6年(1497)、筑紫満門が少弐氏を追い勝尾城に入城します。
 弘治3年(1557)、筑前・肥前の支配者であった大内氏が滅び、新たな支配体制を巡り北部九州は争乱の場となり、豊後の大友氏と大内氏の支配を引き継いだ毛利氏との争いとなります。その後、元亀元年(1570)には北部九州諸国は大友氏の支配下に属しますが、天正6年(1578)、日向の耳川合戦で大友氏は薩摩の島津氏により大敗します。これを機に島津氏は九州制覇を目指し、天正12年(1584)の島原の沖田畷合戦では、肥前の龍造寺隆信を下します。島津氏はさらなる勢いで北進し、天正14年(1586)年7月、勝尾城に2万余りに及ぶ軍勢によって攻められ、勝尾城は落城します。城主の広門は、筑後の大善寺に一時幽閉されますが、同年8月に再びに勝尾城を奪還します。その後、すぐさま豊臣秀吉の島津攻めに従い、天正15年(1587)、島津氏は降伏し、秀吉の九州国割りにより、城主の広門は、筑後国上妻郡の領主として鳥栖を離れます。なお、その後広門は、秀吉大名として2度にわたって朝鮮出兵に従軍します。文禄の役(1592〜93)では小早川隆景の第6軍として戦い明軍に勝利し、その功績により秀吉から感状を贈られます。慶長の役(1597〜98)では、倭城の守備についていましたかが、秀吉の死で朝鮮から撤退しました。
 その後、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で、広門は石田三成方の西軍に属したことにより、筑紫氏は改易されてしまいます。そして事実上、歴史の表舞台から姿を消すことになります。

 

勝尾城
 鳥栖市北西部の城山山頂に(標高501m)に立地します。応永30年(1423)、室町幕府の九州探題渋川氏によって築かれたとされ、その後、明応6年(1497)筑紫満門が入場し、およそ90年間、筑紫氏の本城として機能します。
 支城として葛籠城、高取城、鬼ヶ城、鏡城、若山砦があり、勝尾城を中心に谷を取り囲むように配置されています。

まず二の丸に登り、石垣、主郭、物見石、石塁へ往復、大手曲輪へと下った
       

        

                         

     

        

      


総構え空堀
 城下域の最も外側の防備ラインで、幅約10m、深さ約5mのV字形の堀。
   

新町町屋跡
 城下町の最も外側の区域にあたります。現在、新町と呼ばれる一帯で、戦国時代の町場の名残と考えられます。発掘調査の結果、「町屋」はおよそ200mの直線道の両側に片側約40軒、合計80軒ほどの家屋が立ち並んでいたことがわかりました。
 発掘調査では陶磁器類などの土器の破片に混じって、火縄銃の弾が出土しました。
          

葛籠城
 標高約126m、勝尾城の南東部に築かれた城で、戦いになれば勝尾城下町の防備の最前線となる。主郭は東西約30m、南北約50mの楕円形。前面は長大な2重の空堀と土塁によって強力な防備ラインを形成します。
         

高取城
 標高約290m、勝尾城の南に築かれた城で、筑紫広門の弟、筑紫春門の居城と言われています。主郭を中心として、連続する曲輪、堀切、空堀が残っています。

鬼ヶ城
 標高約350m、勝尾城の南西部に築かれた城です。主郭を中心とする5カ所の曲輪と土塁が良好な状態で残ります。現在は城の崖の一部がロッククライミング場として利用されています。

鏡城
 標高172m、勝尾城下町の東の守りに備えて築かれた城です。主郭を中心に、曲輪、堀切、畝状空堀が残ります。この畝状空堀は、筑紫氏の城郭郡の中ではほとんど例が無く、中国・近畿地方の城郭に使用例が多いことから何らかの関連性が窺えます。

若山砦
 標高約250mに築かれた砦。天正14年(1586)島津氏により勝尾城が攻められたときに、最後まで落城しなかったと伝えられています。曲輪、堀切、石積み遺構が残っています。


筑紫氏館跡
 勝尾城の南麓にあります。筑紫氏の領地支配の拠点となる政治の場でした。館の主要部は南西約80m、南北約50mの規模を有します。主殿や会所などの建物があったと考えられます。発掘調査では、枡形状の虎口、建物区画の石列焼けた壁土、柱穴などが確認されました。
 遺物では硯、銭貨、小柄、漆塗りの椀、瓦、輸入陶磁器、国産陶器や土師器などが出土しました。
                                               

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