JAPAN GEOGRAPHIC

埼玉県上尾市 

Ageo city,Saitama

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Jan.2015 柚原君子

中山道と周辺

Nakasendo post town and vicinity

中山道第5宿 上尾宿

大宮駅→原市駅→「原市宿(星野家、田中家、相頓寺、妙厳寺)」→バス→上尾駅→「愛宕神社」→「脇本陣」→「氷川神社」→「遍照寺」→「庚申塔」→「造り酒屋」→「紅花問屋須田家」→次の桶川宿へ

原市宿(中山道脇往還)概要

上尾駅周辺には上尾宿の面影が少ないということで、中山道脇往還、つまり裏街道と呼ばれるところにも行ってみようと原市に出かけました。

原市宿は戦国時代より町が機能。江戸〜明治時代にかけて物資の集散地として発展し、蔵造りの建物が立ち並ぶ独特な町並みが形成されました。江戸時代後期には「上尾宿」の補宿としての役割も担いました。町は、上新町・上町・中町・下町・下新町の五つの町内に分けられて、ひと月に三の日と八の日の六回の市が開かれ、明治時代には県の許可を受けて上町・中町・下町がそれぞれ順番に二回ずつ市を開催して、大正末期まではかなり盛んに開かれていたそうです。民家の前には今でも広い敷地が確保されていて市の立っていた頃の風景が残っていました。上新町・上町・中町の三町の守り神として祀られてきた氷川神社もありました。現在は「上新町」というバス停名が残されています。上尾宿が六百十九石に対して原市宿は一千七十六石余りと、当時は原市宿の方が大きかったようです。明治35年に刊行された『埼玉県営業便覧』によると、原市宿には木綿・白木綿商が5軒、酒造業が3軒、機織物業が2軒、人力車業が4軒(上尾町は1軒のみ)とありますが、上尾町には全く記載がありません。その他、乾物屋、魚屋は7軒もあり原市宿が脇往還ながらも上尾宿より栄えていたことが示されています。しかし「上尾」の方に鉄道が開通したことによって、繁栄は次第に上尾の方に移っていったそうです。芸人コンビ「ハライチ」は原市の出身。

※参考資料:『埼玉県営業便覧』

1、埼玉新都市交通伊那線(ニューシャトル)

宿のある「原市」は大宮駅より埼玉新都市交通伊那線(ニューシャトル)に乗車して三つ目の駅ですが、高架を走行する電車ですのでとても見晴しが良く富士山もくっきり見えました。下車した「原市」のホームは新幹線が良く見える所と案内にありました。ニューシャトルと並行して走る新幹線がものすごい勢いで何本も通り過ぎました。

2、相頓寺(そうとんじ)

埼玉県上尾市五番町14番地2

浄土宗の寺院で、円蓮社聖満良順が開山。草創は 1382 (永徳2) 年。「永徳」の年号は北朝年号で、南朝と北朝が激しく争っていた時代の創立となります。鍾楼門の山門を持つお寺です。国指定の川越の喜多院の鐘楼門とは違ってかなり小ぶりな門ですが、美しい形をしています。鐘楼に上がっていく細い階段が付いていましたので、私の身幅ギリギリでしたが登ってみました。吊るしてある鐘は戦後のもので以前のものはこの三倍はあったそうです。鐘楼門の建立時期は不明とのこと。

鐘楼門をくぐると正面に本堂。まずご参拝をしました。本堂では土地のご婦人方の集会がある様で賑やかでした。本堂正面の小窓からはご本尊様を見る事が出来ました。「本尊の阿弥陀如来様は市指定の文化財。観音・勢至(せいし)の両脇侍(きょうじ)を従えた寄せ木造りの立像(りゅうぞう)。像高は93.5センチメートル、宋風の服制を示し、鎌倉時代後半から末期にかけての作と推定。万治3(1660)年に、京仏師(ぶっし)が修理したという墨書銘が残されている」(上尾市教育委員会の案内板より要約)

本堂の手前左側には地蔵堂があります。市指定の相頓寺三仏があります。中尊は木造延命地蔵菩薩半跏(はんか)像、右に木造閻魔(えんま)王座像、左に木造奪衣婆(だつえば)座像が配されています。地蔵菩薩は桃山時代の作。閻魔王や奪衣婆は江戸時代前期の作。

その他、15点の絵馬が奉納されている、と立札にありますが、正面の窓が小さすぎてどうのぞいても全てを見ることはできませんでした。絵馬群も市の文化財に指定されています。

鐘楼門

本堂

地蔵堂

3、星野家 

埼玉県上尾市原市576 番地

原市駅より徒歩5分。原市街道に面してある白壁も美しい家です。江戸時代から続いている「肥料屋」さんで、屋号は「山本屋」。現在はカフェ&ギャラリーになっています。まだ開店前で入れませんでしたが、ちょっとのぞかせて頂いた店内には半纏、看板など当時のものが展示されているようでした。洋服屋さんの「つくね」、お米屋さんの「橋本商店」など古い家の街並みが続いていました。

4、矢部家

「長屋門」といいますとおり、とても長い門です。平衡感覚をなくし崩れそうな感じすらします。実に壮大で反対側の通りで身を引いてやっと全景が撮れました。矢部家は原市の旧名主。街道と門の間のスペースは市が開かれる場所で「広庭」と言うそうです。矢部家の広庭はことのほか広く感じました。家の前の看板は興味のあるところでしたが、どう透かして見ても読めませんでした。門の中にも少し入らせて頂きました。市指定の樹木白木蓮が銀色の蕾を付けていました。原市街道を氷川神社の方に歩きます。蔵のある家も数軒あり宿の面影が残っています。

氷川神社は奥行きもなくこじんまりとしていました。

矢部家附近の街道筋

氷川神社

5、田中家

歴史的な街道を見るようになって気づくことがあります。名のある家の脇に郵便ポストがあるということです。そういえば……私の住んでいた田舎も村の中では由緒ある家の方が切手の扱いをしていたことを思い出しました。なるほどね、豊かな家の格式ある方々が(戸締りも厳重にできる?)任される業務なのでしょうね。八木氏の居宅とあります。田中家の脇にもポストがありました。安政6年創業の造り酒屋さんです。現在はお酒の販売のみだそうですが、家の背後にとても広い敷地があり、土蔵がいくつも建っていました。

6、妙厳寺(ミョウゴンジ)

埼玉県上尾市原市975

産業道路が寺の前に入っていますが、昔は無かったのではと思います。造り酒屋の黒い長い塀の細い脇道からまっすぐ伸びたところにお寺がありますので、その道がもしかしたら参道だったのかしら、と振り返ってみました。

妙厳寺には上尾市指定有形文化財の西尾隠岐守一族の墓があります。墓地の中にさらに特別に囲まれた中にあります。大名の墓所の脇に巨大な赤い送電線の鉄塔が立っていて、絵になるような、ならないような……時代の経過を感じさせる風景になっています。

本堂の屋根に乗った対の狛犬(?)龍(?)が可愛くて写真を撮ってしまいました。

妙厳寺を出て原市街道に出たら庚申塔がありました。1852(嘉永5)年2月、下平塚講中の建立。右側面に「東方 幸手・久喜・高野」、左側面に「西方上尾・秋葉」と道案内が刻まれています。庚申塔の反対側には「原市新道」という道しるべがありました。

しばらく行くと無人の野菜売り場が。一円で品物を持って行ってしまう人がいるらしく、間違えないように、との注意書きがありました。 ***以上が上尾宿の補宿といわれる原市宿でした***

街道筋

中山道 第5宿上尾宿概要

中山道第5宿「上尾宿」は1843年の道中奉行による調べで、宿内人口793人、宿内軒数182軒(本陣1軒、脇本陣3軒、問屋場1軒、高札場1軒、旅籠41軒)、町並みは10町10間。現在の上尾駅の大宮寄りに集中していたそうで、あまり大きな宿場ではなかったようですが、上尾宿は江戸から10里の所にあり早朝に江戸を出ると上尾宿辺りが宿泊の位置になり、小さい宿であった割には旅籠が多かったそうです。普通の旅籠も多かったのですが、飯盛り旅籠(遊女がいる旅籠)も多くあって、近在の川越や岩槻辺りからの遊び客も多かったそうです。

上尾宿は複数の脇往還と交差する場所でもあり、また荒川に近く船の運航が盛んな時代でもありましたので、江戸と結ばれる重要な地点でもあったそうです。

1860年(安政)の大火で多くの歴史的建造物が焼失して、歴史的価値のあるものは現在あまり残っていない宿場となっています。上尾宿として栄えて本陣のある辺りは現在は無電柱化されていて、すっきりとした街並みになっています。上尾の駅の先にある紅花問屋の須田家のあたりは、昔は桶川宿の範囲だったそうで、上尾の駅の手前より原市の方に膨らんでいた宿だったのではないかと想像できます。

※参考資料ウィキティベア他

7、上尾陸橋・庚申塚・愛宕神社

埼玉県上尾市愛宕1丁目18 大宮宿を出て1時間くらい歩くと上尾陸橋の交差点に出ます。左が陸橋。右が上尾宿の補宿となっている原市宿から上尾宿に入ってくる道になります。陸橋を左に見て直進で「上尾宿」に入っていきます。信号の左側に庚申塔と愛宕神社が見えてきます。

庚申塔は猿田彦大神と掲げられています。しめ縄もお堂もある立派な庚申塔です。

1722(享保7)年の建立。愛宕神社はあっさりとした神社です。当初は上尾運動公園の北門西方2.3km程の地にあったものだそうです。その後1909(明治42)年にこの地に移されて、地域の名称も愛宕町と改名されたそうです。しばらく行くと1914年(大正3年)創業の布団屋さんとか1730(享保15)年創業の和菓子屋さんなどがあります。その先、京染物屋さんがありますが、この脇の道も、原市宿から上尾宿に入ってくる道になっています。

8、脇本陣〜氷川神社〜上尾駅

上尾宿には林本陣、白石脇本陣、井上脇本陣があったそうですが現在は駅前のビルが立ち並ぶばかりで、本陣があったころの面影は全くありません。たった一つだけ氷川鍬神社ななめ前の大きな駐車場の奥に、井上家として当時の脇本陣であったころの屋根瓦の一部が塀の上に装飾品として残されています。近くで見ることができます。見ごたえがありました。

氷川鍬神社(ひかわくわじんじゃ)(所在地:埼玉県上尾市宮本町1丁目)

寛永8(1631)年、桶川宿方より来た子どもが引いていた櫃が上尾宿本陣前で動かなくなり、子どもはいずこかへ消え失せたので、翌正月に櫃を開けてみると、鍬2本と稲穂があったそうです。以来、鍬2本を神体として五穀をつかさどる農業神を祀り、本陣前に社を建立したのが創建の経緯と伝えられています。地元では「お鍬さま」と親しまれているそうです。

氷川神社〜上尾駅

9、遍照院(へんじょういん)・孝女お玉の墓

埼玉県上尾市上町1-6 

上尾駅から5分ほどの距離に遍照院(へんじょういん)があります。門の左に「武州足立郡上尾講中」と刻まれた庚申塔があります。武州は武蔵の国の略称で現在も「武」は総武線、西武線、南武線などと使われています。庚申塔は庚申塚とも呼ばれ主尊の「青面金剛」が彫られています。庚申塔の周囲には「青面金剛」の化身といわれている猿は大体彫られているようですが、その他には「太陽」「月」「邪鬼」「鶏」などが配置されていることもあります。青面金剛の容姿は、頭髪の逆立った像もあれば、僧形や頭巾姿など、また蛇を頭上に載せているものなど様々です。表情も優しい顔から怒った顔まで色々な相が見られます。腕の数も二本〜八本くらいまでありますし、持っていらっしゃるものも「三叉戟」「棒」「法輪」「羂索」「弓矢」「剣」「杖」「蛇」とたくさんの種類に及びます。遍照院の庚申塔は頭には蛇を巻いているようで、庚申塔が持つものを大体持っていらしゃるようで、にぎやかしい庚申塔でした。

遍照院は真言宗智山派(3000寺)で日乗山秀善寺遍照院。京都仁和寺(にんなじ)の末寺。江戸時代に寺領20石の朱印地を与えられた大寺です。寺内の墓地には「氷川鍬神社」に、ニ賢(菅原道真・朱文公)を祀って聚正義塾を開いた山崎武平治と遊女お玉の墓があります。

宿には本陣があり、脇本陣、旅籠などありますから当然どの宿にも遊女の伝説が多いです。上尾宿の遊女は墓地立て札「孝女お玉の墓」のいわれによると「名を清と言う。家の貧しさを助けるために11歳で新潟の貧しい村から出てきて大村楼の遊女となる。心優しく美しく、頭も良くお客の評判は高かった。加賀前田家の小姓に見初められ江戸に住むが、江戸で暮らすこと2年、わずか20歳で病に罹り上尾に戻されてしまう。病身でも懸命に働き貧しい生家を助けたが25歳で他界した。大村楼の主人が日頃のお玉の孝心に心を打たれて、ここに立派な墓を建てた」とあります。墓石には「廓室妙顔信女」の戒名が彫られています。加賀前田家は中山道宿を歩くとその名前に多く出会いますが参勤交代で中山道を使用していたからという理由があります。

10、庚申塔〜造り酒屋

遍照院を出てしばらく行くと上町庚申塔が街道の右側にみえてきます。信号の脇。こちらの庚申塔もにぎやかな絵柄です。通り過ぎて右側に黒い建物に竹林が妙にマッチしている造り酒屋「文楽」があります。荒川水系の伏流水が豊富なこの地で、明治27年の創業以来110余年の歴史がある酒蔵だそうですが、現在はリニューアルされた模様で蕎麦を主とするレストランのようでした。脇のドアから入るとお酒を作っているところはどうやらビルの上のほうにあるようです。

上尾宿の撮影を一度したのですが、私のミスでSDカードをリニューアルしてしまう(笑)という失策をして、上尾宿歩きは実は二度目なのですが、二度とも迷ったあげくに入らなかったお店です。酒屋さんなのかレストランなのか……えらく高そうでもありましたし……。しかし、竹林はきれいでしたね。

11、上尾宿説明板〜紅花問屋「須田家」

「緑ヶ丘地下横断道」交差点の手前右手角に上尾宿の案内板があります。ここが上尾宿の西の木戸となります。鍾馗様が西日にあたって輝いていました。悪霊や邪気を寄せ付けないお守りが鬼瓦ですが、鍾馗様は唐の皇帝のマラリアを治したことで有名です。もちろん「どこからとも大鬼が現れてマラリアを治したので名を尋ねると『鍾馗』と名乗った」、という言い伝えに基づくもので実在の人物ともそうでないとも言われています。鍾馗様は門に貼るお守りの札でしたが何故屋根に上がったかというと、昔、京都三条の薬屋が立派な鬼瓦を葺いたところ向かいの家の住人が突如原因不明の病に倒れ、これを薬屋の鬼瓦に跳ね返った悪いものが向かいの家に入ったのが原因と考え、鬼より強い鍾馗を作らせて魔除けに据えて、屋根に上げたところ住人の病が完治した、といういわれに基づいているものです。江戸時代末頃より関東にもこの風習が流れ込んできて、特に上尾、桶川などに多いそうです。

西の木戸である案内板を過ぎて次の交差点「久保西」の脇に紅花問屋「須田家」:上尾市緑ヶ丘3丁目4−9があります。ものすごく長い黒い塀が続き、蔵も傾かんばかりの体です。須田家には、古文書、紅花仕入帳など紅花関係資料が多く残っていて、市文化財に指定されていますが公開はされていません。門、塀、竹林など丹念に撮影していましたら、防犯カメラに写ったのでしょうか、御用ですか?と家人が出ていらっしゃいました。お話を何かうかがいたかったのですが、私は撮影の素人、質問して話をつなげる自信がありません。少しだけ写真を撮らせていただいています、とお辞儀をして辞しました。

須田家は,武州紅花仲買いで財を成しました。この辺り一帯は山形最上地方よりも温暖で一ヶ月近くも早く収穫できることと、米の数倍も儲かることなどから1700年代の終わり頃から紅花の生産が盛んとなったそうです。「桶川臙脂(えんじ)」の名で全国ブランドとなり品質の良さで最上産を凌ぎ,最盛時には1000戸くらいの農家が栽培したそうです。明治以降は化学染料に押されて衰退。今は観賞用や染色、また紅花祭りなど観光資源として活用されているそうです。古文書が公開されたらどんなことが書いてあるのでしょうかしらね。文化遺産は皆のものだから公開を、と願いながら上尾宿を終了しました。

次は桶川宿です。

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