埼玉県深谷市 渋沢栄一関連遺産
Shibusawa Eiichi momorial, Fukaya city,Saitama
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Apr.2015 柚原君子
旧渋澤栄一邸
所在地:深谷市血洗島247-1
県指定旧跡・市指定史跡
※土蔵は本来は県指定でしたが、土蔵を利用しての学校開校などで、クーラーが設置されたために県指定より市の指定という経緯有り。日本煉瓦製造株式会社の撮影が終わったので(ホフマン輪窯のある倉庫撮影を失念。旧事務所の前側に、長い倉庫に煙突がありましたが、それだったようです。中が見られないので、はなからあきらめていた感がありますが、探すことも忘れて……。まだまだ重要文化財を撮っている人にはなれないようです。
さて、ここから旧渋澤栄一邸までは電動自転車でも30分くらいかかりそう。元気出してこぎましょう。方向音痴に鞭打って地図を確かめながら出発です。
ルート275を北上してルート45に交差したら左折してそのまま西に向かいます。庚申塔のある大塚の交差点を過ぎて、血洗島というあまり穏やかではない名称の交差点までさらに直進です。深谷ねぎやキャベツの畑、麦畑が続きます。桜はほぼ散り状態です。
深谷市は利根川の氾濫によって作られた自然堤防の島のような土地が多くあったので、「島」のつく地名が残っているそうです。洪水によって地が荒れるので地荒れ(ちあれ)、土地が洗われるので地洗れ(ちあらわれ)や、端の方を現す(けせん)などが血洗となったなどなどが「血洗島」という地名になったと想定されているそうです。また血洗という当て字の伝説には日光の神と赤城の神が戦って、腕を切られた時にその血を洗ったとか……いづれも定かではないそうですが「血洗島」という見た目の物騒な名前にはまず驚かされます。その交差点を右折して暫く行くと酒屋さんの手前の道を左折となりますが、案内が出ていますのですぐにわかりました。
深谷駅のキャプションと重複しますが、渋澤栄一は日本の近代化に力を注いだ人物です。第一国立銀行(第一勧業銀行→現・みずほ銀行)の創設に尽力して頭取も務めるほかに、東京商工会議所と東京証券取引所の設立にも関与し、日本鉄道(現.JR東日本)、上武鉄道(現.秩父鉄道)、東京ガス、王子製紙等を含め500社以上の設立に関係した人物でもあります。これらのことから渋沢栄一は日本近代資本主義の父(日本近代経済の父)と称されています。渋澤栄一の故郷がこの深谷市血洗島。東京での活動の合間に故郷に帰ってくつろいだ家が「渋澤栄一 生地、旧渋澤邸、中ん家(なかんち)」です。
渋沢栄一の生家は明治25年の失火により焼失しています。現存する家屋は家督を受け継いだ渋沢の妹貞と婿の市郎によって、翌年に再建されます。広大な敷地を有する渋澤邸。地方の豪農の生活ぶりが偲べます。主屋は屋根に煙り出しのある典型的な養蚕農家の形。梁間5間、桁行9間の切妻造りの二階建で西側に3間×3間の平屋部分を持つています。奥の十畳の部屋は帰省する渋澤栄一のために念入りに作られ、中央に見える引き戸は杉の一枚板。今だと一枚100万円はするものだとか。渋沢家全盛期の建築なので部材も実に豪華につくられています。
主屋を囲むように副屋、土蔵4棟、正門、東門が建ち当時の北武蔵における養蚕農家屋敷の形を良くとどめています。また昭和58年からは「学校法人清淵塾渋澤国際学園」の学校施設として多くの外国人留学生が学んだそうです(平成12年解散。43カ国、679名の留学生が学んだ、とパンフレットに有ります)。来る途中の農家の方の話では、当時、外国の多く若い人々が自転車で道を走っていたとのことでした。清淵の由来となった池が土蔵の奥にありました。副屋は明治44年に上棟。正門、東門はケヤキの一枚板。土蔵は内部に落とし板が使われていて、米蔵だったと思えるとのこと(参考資料:パンフレット)
誠之堂
国の重要文化財
所在地:埼玉県深谷市起会110番地
大塚の交差点に戻りさらに南下すると小山川を渡った左側にあるのが誠之堂と清風亭です。双方とも渋澤栄一ゆかりの建造物ですが、当初は世田谷区瀬田にあった第一銀行の保養施設清和園の敷地内に建てられていました。平成11年に取り壊しの危機に瀕していたので、深谷市が渋澤栄一の生地であることから譲り受けることに名乗りを上げて、大寄公民館の敷地へ移築されました。
誠之堂は渋澤栄一の喜寿(77歳)を記念して第一銀行行員たちの出資により建築されました。大正5年建設、煉瓦造り平屋建て、設計の条件は英国農家風を希望したとのこと。室内装飾は中国、朝鮮、日本などの東洋的意匠。北側の外壁面には喜寿の文字が表されています。ステンドグラスの図案は守谷延雄。漢代の貴人と侍者、それを饗応する人などを並べて、渋澤栄一を貴人に見立てて喜寿を祝う情景が表されています。建物の設計は田辺淳吉。少し残念なのはお隣の球場のライトが誠之堂の撮影に少しお邪魔、ということ。これ以外は遠景も近景も綺麗に収まります。窓の開閉部の留め金や窓下の彫刻が味のある建造物でした。(参考資料:案内書他)
清風亭
埼玉県指定有形文化財
所在地:埼玉県深谷市起会110番地清風亭は澁澤栄一のあとをついで第一銀行第2代頭取となった佐々木勇之助の古希を祝して、第一銀行関係者が世田谷に1926(大正15)年に建てたスペイン風の会議棟です。建築資金は誠之堂と同じく全て第一銀行行員たちの出資によるものです。
澁澤栄一の下で長らく第一銀行頭取を務めた佐々木勇之助は、旧幕臣で明治六年の銀行創業時に経理係として入行しました。創業当時の銀行の総勢は45名。その中で佐々木の勤勉ぶりは群を抜き渋澤栄一の目にとまります。佐々木勇之助はやがて洋式簿記を覚え帳簿課長になり明治29年に副頭取となります。渋澤栄一と佐々木勇之助は明治6年以来ほぼ毎日顔を合わせる間柄でありました。お互いに尊敬しあい礼儀を守り、40年以上その厚い信頼が揺らぐことは無かったそうです。
建物は大正15年建設、鉄筋コンクリート造り。外壁は人造石掻落仕上げの白壁に黒いスクラッチタイルと鼻黒煉瓦がアクセントをつけています。屋根のスパニッシュ瓦、ベランダのアーチ、出窓のステンドグラスや円柱装飾など、当時流行したスペイン風の様式がとられています。大正12年の関東大震災を契機に、建築構造は煉瓦造りからコンクリート造りに主流が変わりましたが、その初期の建築物としても建築史上貴重な建物となります。設計は西村好時。澁澤栄一と仲の良かった佐々木勇之助と共に古希を祝って建てられた建物がお隣同士に有るという状態に、ほのぼのとした感を抱きながら撮影しました。(参考資料:案内書他)
誠之堂は、渋沢栄一の喜寿を祝い、大正5年(1916)に建設された記念堂で、多摩川を望む東京府荏原郡玉川村(現東京都世田谷区)に位置する、第一銀行の運動場及び保養場であった『清和荘』に建設された。
設計は清水組の田辺淳吉、施工は清水組であった。
昭和50年代以降は大学の外国人教師館に充てられたこともあったが、平成9年(1997)に敷地が売却されることになり、現在地に大ばらし解体で平成11年(1999)に移築復原された。
煉瓦造平屋建で建築面積は113.3㎡、東面に濡縁(ベランダ)付きの大広間を中心として次の間、玄関などを配する。
屋根は天然スレート葺で角度によってさまざまな屋根の形式を用いて複雑で非対称のシルエットをつくっている。
外観の基調は英国の田園風であり、外壁には濃淡3種類の煉瓦を用いて、外面をフランス積を基調とするが、妻面にドイツ壁、濡縁に東洋風の意匠等がみられ多彩な煉瓦積技法が使われている。
大正期の名建築デザイナーとして知られる田辺淳吉の代表作の一つとして貴重であり、国の重要文化財に指定されている。
《内部》
《ステンドグラス》
ステンドグラスの制作は宇野澤組ステンドグラス製作所とされる。
誠之堂、清風亭
Seishido,Seifutei
A camera
B camera
渋沢栄一 生誕の地
Shibusawa Eiichi birth place
Shibuawa Eiichi museum
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Mar.2011
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