埼玉県飯能市 能仁寺
Noninji,Hanno city,Saitama
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July 6, 2019 野崎順次 source movie
埼玉県飯能市飯能1329
曹洞宗
武陽山 能仁寺
寺伝によれば、文亀元年(1501年)、武蔵国高麗郡加治(現在の飯能)の豪族中山家勝が、諸国を巡歴していた名僧曹洞宗通幻派の斧屋文達を招聘して創建した。小庵であったが、家勝の没後、天正元年(1573年)、子の中山家範が父の菩提を弔うため本格的な寺とし、中山家勝、家範、照守および、その後の中山家・黒田家の菩提寺となる。
宝永2年(1705年)当時、常陸下館藩の大名であった黒田直邦は13世住職泰州廣基とともに老朽化した寺を改築し、伽藍を完成させた。そして、雲水50人、七堂伽藍を構える禅寺として栄華を誇った。
慶応4年(1868年)5月23日、飯能戦争(戊辰戦争)の舞台となる。
(中略)
彰義隊の生き残りを吸収して1,500名に膨れ上がった振武隊は5月18日、能仁寺に入り陣営を構築する。5月23日、3,500名の官軍は早朝から攻撃を開始、わずか数時間で勝敗は決し、寺はほとんど焼失。
(中略)
本堂は昭和11年(1936年)再興されたものである。
(中略)
31世住職の萩野映明(1940年 - 2016年)は、台東区谷中にある玉林寺の住職の次男として生まれ、報知新聞社で運動部記者を務めた後、永平寺での修業を経て1973年に能仁寺に入山、1991年に住職となった。新聞記者時代から続く親交により、長嶋茂雄、王貞治、原辰徳、太田誠、岡本綾子などスポーツ界の名士が寺を訪れており、そのため能仁寺は「スポーツ寺」の別名でも知られた。
(ウィキペディア「能仁寺(飯能市)」より
パンフレットと現地説明板
山門から境内へ、大書院、本堂、鐘楼、位牌堂、中雀門
大書院と庭園、長嶋茂雄の華麗なプレーの絵、そして本堂北側へ
市名勝 能仁寺庭園
江戸時代初・末期 池泉鑑賞式
本庭は山畔を利用して背後に大きく築山を設け、向かって右方の築山の中央から枯滝の石組を見せ、この枯滝付近の石組はなかなか豪健である。このような、築山の中央部に枯滝を作る庭園は、慶長というよりも天和以後において多く散見するところである。築山の枯滝を設けるものは古くからあるが、いずれも築山の上部から枯滝や水落の滝石が組まれるものが多く、中央以下に組むものはやや時代が降るのが常である。その実例はむしろ寛永期以降に多いのだが、その石組手法がなかなか豪健であるから、この付近は天和前後の作庭が残ったのであろう。
しかし株の池泉は地割が江戸初期末年の宝永・正徳時代と、向かって左方部は江戸末期の改作と見てよいから、本寺諸堂の再建直後の改造と末期の改造と見てよく、それは同時、池畔の護岸石組その他によっても判明している。それよりもずっと後世の手法も見られるから、江戸末期や明治の手法もあり、たびたび改造されている。
池中には沢渡を打ち、池中に四方型の石燈籠を入れるあたりは末期趣味であり、中島が小島となり、これに石橋は豪華なものを架けてあって、すべては江戸初期末年のものを多く示している。しかしこの地方としては傑出した庭である。
(重森三玲「日本庭園歴覧辞典、昭和49年」能仁寺庭園より)
本堂内部
天覧山登山口側へ
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