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埼玉県本庄市 市街

Downtown,Honjo city,Saitama

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June 2015 柚原君子

中山道第10宿「本庄宿」撮影:Apr.2015

行程

滝岡橋→宝殊→寺石仏→大正院→円心寺→本庄城跡→本庄駅→戸谷八→旧諸井家住宅→歴史民俗資料館・本陣門→賀美橋・寺坂橋→旧本庄商業銀行→安養院→金鑚神社→浅間山古墳→泪橋碑→陽雲寺→一里塚→大光寺→神流橋本庄宿概要

中山道は武蔵国(東京・埼玉)、上野国(群馬)、信濃国(長野)、美濃国(岐阜)、近江・山城国(滋賀・京都)という五つの国を通って京都へと続いています。本庄宿は中山道第10の宿場で武蔵国では最後の宿場となります。

鎌倉時代、武蔵国の武士は御家人として鎌倉幕府を支えます。武蔵国には武蔵七党と呼ばれる勢力があり、その中の最大勢力は児玉党でした。この最大勢力の児玉党の中の庄太夫家弘(本宗家4代目)が児玉氏から庄氏(荘氏)を名乗ります。5代目を継いだ庄太郎家長が一ノ谷の戦い(1184年)で武功をあげ、恩賞として備中国草壁荘の地頭職を与えられ備中の領土へ移っていきます。そして備中庄氏として西日本で活動していきます。本宋家と分家の何れが移っていくかは、各氏族によって異なったそうですが、児玉党の庄氏の場合は本宋家が移っていったのです。そして本拠地である武蔵国に残った分家が、本拠地に残った庄氏ということで、「本庄」を名乗ったというのが「本庄」の名の経緯です。

本庄村は1555年 - 1570年(弘治・永禄年間の頃)より、戸谷・諸井・森田・内田・田村などなど、新田氏の遺臣を移住させ土着させることにより開墾が進み、城下町は整って行きます。が、家督を継いだ本庄隼人正は、1590(天正18)年に豊臣秀吉と対立して本庄城も落城、ここに鎌倉時代から本庄の地を支配してきた武蔵国の本庄氏は滅亡します。本庄氏による在城期間は2代合わせて34年でした。(『徳川時代之武蔵本庄』・諸井六郎著より引用)。本庄氏が没落した1590(天正18)年の頃には城下町の大きさが15町50間。農家は38軒になっていました。

1603(慶長8)年、徳川家康により中山道が整備され、1625(寛永2)年に参勤交代が制度化されたのちの1633(寛永10)年に本陣、1637(寛永14)年に人馬継立場が設置されて武蔵国児玉郡「本庄宿」は整っていきます。本庄城は既に廃城(1590(天正18)年徳川家康が江戸に入城。その家臣である小笠原掃部大夫信嶺が新城主として信州松尾より赴任し、本庄領一万石を配領しますが、1612(慶長17)年には本庄藩廃藩にともない本庄城も廃城)になっていましたので武家の城下町ではなく、商人の町として本庄は栄えます。

江戸より22里(約88km)の距離にあった本庄宿は利根川を利用した物資の集積地でもありましたので、1843(天保14)年には、宿内人口4554人、商店など全ての家数は1212軒を数え、医師、殻屋、豆腐屋、米屋、酒屋、煙草屋、菓子屋、八百屋、古着屋、桶屋、建具屋、鍛冶屋、傘屋、研師、陰陽師、職人、大工、石工、髪結、畳屋、鋳掛屋、経師屋、薬種屋、魚屋、本屋、質屋、両替屋などがあり、中山道の宿場の中では人口と建物が一番多い宿場となっていました。本陣一軒では対応できなくなり当初の田村本陣(現在の中央1丁目6番付近)の他に、内田脇本陣(後に本陣に昇格)を加えて、本陣2軒、脇本陣2軒という構成になりましたが、現在では田村本陣の門が残るのみで、残念ながら往時を偲ぶものはありません。本庄宿は1889(明治22)年の町村制の施行により本庄町となり、現在に至っています。

※参考資料『徳川時代之武蔵本庄』(諸井六郎著)・(ウィキペディア)・(武蔵国児玉郡誌・沿革編)(他)

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1、滝田橋〜八幡大神社〜宝殊寺〜御堂坂〜石仏

旧中山道(※1)の小山川にかかるイギリス積み煉瓦の形が美しい滝岡橋(登録有形文化財)を渡って左に折れてしばらくは堤防の上を歩きますが、堤防道は緩やかに下に降りていきます。前岡肥料店の前を通過して川を左手に見ながら進んで行くと藤岡小学校があります。途中の家にトトロを思わせるような樹木を使った猫のオブジェがありましたのでパチリと記録しました。かわいい!

左側に八幡大神社があります。『武蔵国には武蔵七党と呼ばれる勢力があり、その中の最大勢力は児玉党』、と本庄宿概要でも触れましたが、その児玉党の中の巻西四郎広末が祀った神社とあります。左側にあるのが宝殊寺。杉木立の参道からの山門の朱色が見事に映えています。開基開山年代は不詳とのことですが、1649(慶安2)年徳川三代将軍家光より御朱印石高10石を賜ったとお寺の案内にはあります。街道に戻ります。右側に藤田郵便局。その反対側に白壁が相当落ちていますが大きな長屋門があります。小川家です。10代目とおっしゃるご主人が農作業に出られるところでした。中側よりの写真も一枚いただきました。長屋門は農作業用具の倉庫のようになっていました。街道は緩やかな曲がりを繰り返しながら傍示堂跡(ぼうじどうあと)に突き当たります。傍示とは、傍(ふだ)を立てて、ここが国境(くにざかい)であることを示したことからつけられた名称ですので、この辺りが武蔵国(武州)と上野国(上州)との境界となるようです。堂が二つ並んでいます。傍示堂跡を示すなにかなのか、古峯神社なのか、どちらがどちらか良く解りませんでしたが、どちらともになくお参りして、昔で言う国越えの気持ちになってみました。上野国に入る新泉橋を渡ります。この辺りに一里塚があったそうですが何の面影もありません。国道17号を越えてなだらかな御堂坂を上って行くと左側に庚申塔と石仏様が見られますが、特に何の説明もありません。

※1

中山道は国道17号などにそっていますが、時として外れて一般民家の脇の細い路地であったりします。江戸時代の頃の渡し舟のあったところも、現実には渡れないところが多いですので、新しく架けられた橋を通らざるを得ないこともあります。当キャプションは現在の地図上にある中山道と称する道を外れて昔の中山道をたどる場合に限って『旧中山道』と記名しています。

2、大正院〜円心寺〜本城城址

本庄駅の手前の左側にあるのが大正院(だいしょういん)。本庄七福神の弁財天でもあります。薬師堂が旧本堂です。不動堂は江戸時代に「成田詣」が盛んになり、本庄でも成田詣をしたいという願いを受けて成田山新勝寺から分霊されたもの。寺宝の不動剣があるとのことですが本物は見られないようで、不動剣の石板がお堂の前にありました。商家らしい家を見ながら中山道交差点を過ぎると右側に円心院があります。三間一戸の山門が鮮やかに圧倒的な大きさで建っています。1781(天明)の建立で社寺建築技術が最も発達した時期の所産で、構造だけでなく相対的に安定した美観、とお寺の案内にあります。昭和53年に解体修復されて翌年に本庄市の文化財指定を受けています。体躯の割りには顔の大きな仁王様がにらみを利かせていました。

円心寺の先に本庄市役所。その東側に本庄城址・城山稲荷・八坂神社が広がっています。緑濃い森になっています。

本庄城は石垣の城ではなく、天守の無い平城でした。本庄宮内少輔実忠が古河公方家を迎え撃つために1556(弘治2)年に造られました。そのあとに家督を継いだ本庄隼人正近朝が城主となりますが、1590(天正18)年に豊臣秀吉と対立し自害しますので本庄城も落城します。同じ年、徳川家康が江戸に入城。その家臣である小笠原掃部大夫信嶺が新城主として信州松尾より赴任し、本庄領一万石を配領します。現在の本庄城址はこの第二次本庄城、小笠原氏の頃のことを言います。しかし1612(慶長17)年には本庄藩廃藩にともない本庄城も廃城となります。小笠原氏の城下町としての歴史は22年足らずで終わったことになります。以後は城下町に残された商人たちの町として本庄宿は発展していきます。

城山稲荷神社のケヤキは樹齢400年。埼玉県指定天然記念物です。深い森の主のようです。第一期本庄城の城主・初代本庄実忠(官途名は宮内少輔)、が稲荷神社移転の際に移したという藪椿も本庄市指定文化財として、ケヤキのすぐ横にあります。

権力争いに翻弄されていった戦国時代からの人々の静かなため息が聞こえてくるかのような森でした。

3、本庄駅〜旧諸井家住宅〜

城址と区役所を背にして本庄駅前に戻ります。本庄駅内の観光案内所には本庄宿のパンフレットがあります。軽快に宿を散策したい方は駅近の八代自転車さんでレンタルできます。料金は1日乗り回しても500円です。駅前のメイン通りはかなり広いです。傾いた庚申塔や商家や土蔵が見られますが総じて保存状態はあまり良くありません。大正か昭和初期のレトロな建築物も見られます。

駅を過ぎた中山道メイン通りの右側に、創業永禄三年(1560年……桶狭間の戦いがあって、今川義元が亡くなった頃)の「戸谷八」があります。新田氏の遺臣を本庄村に移住させ土着させることにより開墾が進み、城下町は整って行った、と概略にも書きましたが、まさにその遺臣の中の戸谷氏ですね。戸谷八郎左衛門という表札がかかっています。代々に渡って戸谷半兵衛を襲名していった全国的にも有名な豪商だったそうです(中屋半兵衛とも呼ばれて、江戸室町にも「島屋」という店をもち、京都の商人とも懇意で太物、小間物、荒物などを扱った関東一の豪商)。

家を一周してみましたが、白壁に土蔵が続き、町内の一角が全て戸谷家でした。現在は瀬戸物屋さんです。向かい側にやはり大きな店舗、1689(元禄2)年創業の回船問屋・岸屋さんがありますが、現在は葬祭屋さんです……さて、どのようないきさつがあったのでしょうか……。この辺りに内田本陣があったのですが、それらしき面影も立て札もありません。少し行くと右側奥に「旧諸井家住宅」があります。やはり新田氏の遺臣で本庄の城下町を整えて行ったメンバーの中に「諸井」という苗字があるので、その子孫となるのでしょうね。旧諸井家住宅は埼玉県指定の文化財となっていますが、修理の途中なのでしょうか、特に説明板もない「?」という感じの中途半端な住宅になっています。深谷に近いからでしょうか住宅の裏側の煉瓦と、こじんまりとした煙突が、この地方らしい色合いを見せていました。

何の説明も無かったので、帰宅後に調べた近代の諸井家は北・南・東・と付いた三つの諸井家に別れていました。

「北諸井家」は江戸時代に問屋役を務めていたため「宿屋諸井」と呼ばれていましたが、現在本庄にはありません。「南諸井家」は明治頃に書店を開いたので「本屋諸井」といわれ、町制施行で本庄町になった明治22年には初代の本庄町長になっています。街道に面してある本庄仲町郵便局(国登録有形文化財)の横手の道を入って行くとある撮影をした諸井家は「東諸井家」で、別名「郵便諸井」と呼ばれていたそうです。その郵便諸井の11代当主となる恒平氏は24歳で本庄郵便局長、翌年、日本煉瓦製造株式会社に勤務しています。明治40年には取締役となり、更に明治43年には秩父鉄道取締役、そして今後のセメントの需要を見込み「秩父セメント」会社を設立します。大正12年には秩父鉄道取締役に就任という華々しい経歴の持ち主です。渋沢栄一の祖父の娘との縁組など渋沢家とのつながりも深く、実業家の道をたどったのもうなづけるような気がします。

旧諸井家住宅は、明治13年に横浜の洋館を模して建築された住宅で、コロニアル風のベランダ、白い菱組天井、色ガラスの窓など、ところどころに洋風の建築手法が散りばめられています。調べたことを頭に改めて本庄宿の旧諸井家の写真を見てみると、荒れた感じがとても残念に思われます。やはりきちんとした埼玉県指定有形文化財としての説明と家の整備が必要だと感じました。

4、歴史民俗資料館・本陣門

街道に戻ると、看板建築の続く6棟一緒の建物がみえます。レトロな家並みが好きな私としては、これらもまた街道歩きの一つの楽しみです。街並みから繁栄のイメージとは程遠いのですが、町名は「銀座一丁目」です。しかし、ここの路地の奥にも派手に白壁が落ちた土蔵、しばらく行くとあちらの土蔵も、アララ状態。本庄宿の白壁は落ちている方が多い。ほんと勿体無い!とおもうのですが。

旧諸井住宅からしばらく行くと右奥に黒い門とそれには全く不釣合いな洒落た水色の洋館が見えます。現在は歴史民俗資料館になっていますが、移築された田村本陣の門と旧本庄警察署の建物です。

移築されている北本陣といわれた「田村本陣」(本庄市指定有形文化財)の門は皇女和宮がくぐっています。1642(寛永19)年からの宿泊記録が残されているとのこと。参勤交代が義務付けられたのはその頃ですから、全てが残っているということですね。素晴らしいです。田村本陣があった場所はここまで過ぎてきた道の一角に、店舗のシャッターに「塙保己一」(本庄の偉人、江戸時代の盲目の国学者)が描かれている所がありましたが、その前の辺りが本陣があった場所だそうです。

旧本庄警察署(現、歴史民俗資料館)は明治16年に建てられています。白い漆喰塗りが爽やかです。木造2階建・瓦葺・漆喰塗・内からも外からも柱が見えない大壁造りで、明治初期の洋風建築です。内部は無料で見せてもらえます。かなりの資料があります。本庄宿は児玉へと続く鎌倉街道との分岐道もあるところですので、鎌倉街道の資料などもあります。埴輪も多くあり、パリの展覧会に赴いた埴輪たちもあるそうです。市内の遺跡から発掘された「笑う盾持人物埴輪」も展示されていますが、これは全国でも例がないものだそうです。館長さんが丁寧に説明をしてくださいます。1982年に国の重要文化財に指定されている『中山道分間延絵図・本庄宿』の模写(レプリカ)もありましたが、残念ながら私は上手に写せずにブレた映像になり、涙ながらに没にしました。

建物の周囲にも当時のものが残っていて、用があって警察署を訪れた人達が待たされていた場所「人民控え所」など興味深くのぞきました。古びたお稲荷さんもあります。実はこれは南諸井家、本庄の初町長となったお家(本屋諸井)にあったものだそうです。この旧本庄警察署の南側に屋敷があったところから、こちらに移築されたのだそうです。

5、近代遺産寄り道(賀美橋・寺坂橋・旧本庄商業銀行煉瓦倉庫)

旧本庄警察署も近代遺産ですが、せっかくですので、近代遺産寄り道をもう少し。歴史民俗資料館のわき道を北上して行くと元小山川に出合いますが、そこに二つの橋が架けられています。一つは「賀美橋」。1926(大正15)年に架けられた長さ6メートル少しの小さい橋ですが、白タイル貼りの7つの連続アーチがとても可愛らしい登録有形文化財の橋です。親柱の上に三角ぺディメントがついています。同じ川の東側にもう一つ登録有形文化財の「寺坂橋」があります。川と言ってもとうとうと流れる川ではなく、川の真ん中にも立てるように飛び石のある緩やかな川ですので「寺坂橋」は橋下のほうに価値があるとのことでのぞいてみます。1889(明治22)年建設。橋の長さは7メートル半。石造単アーチ橋で両岸近くの迫石に五角形の切石を用いる特徴的なつくり。関東地方には数少ない明治期建設の石橋の一つとのこと。埼玉県で使われている橋としては最古のものだそうです。橋に刻まれている橋名は「て羅さかばし」でした。

元小山川の側道の蓮や柿の葉や花ざくろを見ながら中央三丁目の交差点に戻ります。交差点右にある蔵髪Kurappaは1854年の安政期頃のものといわれる「文具店丸十商店倉庫」です。少し先に煉瓦色の建物。修復中ですが写真撮影します。1896(明治29)年頃に建設されている旧本庄商業銀行の煉瓦倉庫(国登録有形文化財)です。約31m×8.5mの内法の長方形平面の煉瓦造倉庫。生糸産業全盛期に、本庄商業銀行は繭や生糸を担保にお金を貸していたそうですが、その担保を保存するものとして建てられたのがこの倉庫だそうです。

高価であった繭や生糸を貯蔵するため、左右対称の位置に設けられた窓に、網戸と鉄扉を設けて通風と防火に配慮しています。緑色の蔦が煉瓦に絡んできれいです。修復中ですので、梁や外観など克明に撮影できました。昭和51年からはローヤル洋菓子店として使われていましたが、平成23年からは本庄市の所有となりました。本庄市が建物の調査を行ったところ、深谷の日本煉瓦製造㈱が製造した煉瓦を使用していたことが判明したそうです。修復中でその後何になるとの明記はありませんでしたが、市の所有になっていますので公開はされることと思います。でも……本庄市は文化財保護に対して関心が薄い気がするから……ちょっと心配。

6、安養院〜金鑚神社

旧本庄商業銀行の煉瓦倉庫の向かい側の道を入って行くと安養院があります。

安養院は創立1475(文明7)年。武蔵七党の中の児玉党の一族、本庄信明の弟の籐太郎雪茂が仏門に帰依して、当時の富田村に安入庵を営んだのですが、水不足に悩まされたため土地を探したところ、現在の地を発見して安養院を開基。以後付近は水不足に悩まされることもなく、周辺の人々から“若泉の荘”と呼ばれるようになるとありますが、寺の歴史については、研究者によると、年代のつじつまが合わない部分が弱冠あり、査証中とのことです。安養院は1649(慶安2)年、徳川幕府より朱印地を受けています。立派な山門で仁王様もカッコいいです(仁王様いろいろですが、私としては好きなタイプ!)。山門の上の鬼瓦に何かはめ込んであるのか、太陽の光を受けてキラリと光るのがちょっとやりすぎノヨウニオモウノデスガ。戸谷半兵衛家や森田助左衛門家などの本庄宿の豪商や、諸井恒平を初め、日本の近代化に努めた東諸井家の一族の墓所もあります。伽藍3棟は本庄市指定文化財です。

安養院から街道に戻ってテクテク歩きます。次々と歴史のある家が現れます。「そば処きむらや」は糸繭商・長沼甚五郎邸(明治期)だったところ。中野屋製麺は大正5年の建物。中沢医院は大正15年の建物。モダンです。戸谷建築事務所となっている土蔵の扉が開いている家は、江戸期の旅籠屋・真塩家「一ノ蔵」(明治12年)であったもの。白壁の落ちた土蔵が目に付いた本庄宿でしたが、ここら辺りに来て宿の雰囲気を味わうことができました。

バラの季節です。良い香りの中を進みます。右側に見えてきたのは金鑚神社(かなさなじんじゃ)です。鳥居は両部鳥居の形で、厳島神社の鳥居をふと思いました。鳥居に付く屋根も重厚で、注連縄もしめてなかなか格好がいいです。鳥居をくぐった右側に大きな県指定の天然記念物のクスノキ。正面に総門(大門)、左側に本殿と拝殿、社殿や門に施された彫刻がとても濃密で見ごたえがあり、特に本殿の彫刻は鮮やかです。飛び龍などあまり近くでは見られませんが拝殿にあるものは目の前でしっかりと見ることができます。

本庄金鑚神社社殿と大門の説明を本庄市の指定文化財の案内より抜粋します。

本庄金鑚神社社殿:「金鑚神社は中山道本庄宿の西端に位置し、本庄宿の総鎮守として崇敬された神社です。当社は1556(弘治2)年に本庄城を築いた本庄実忠により勧請され本庄領の総鎮守となりました。その後、本庄城主になった小笠原信嶺の庇護を受け、中山道の整備に伴って現在の位置に鎮座したと推定されます」

本庄金鑚神社大門:「この大門は隣接する金鑚神社の別当寺であった金鑚山威徳院百蓮寺の総門でしたが、明治維新後に威徳院が廃寺となったため、金鑚神社が管理保存しています。この大門は文化11年(1814)の建立と伝えられています。各所に彫刻が配されていて、19世紀初期の作風を示す優れた例です」。

7、佛母寺〜浅間山古墳〜陽雲寺

金鑚神社を出ると道は千代田三丁目の交差点、R462に出ます。交差点脇に中山道碑、左折すれば信州姫街道に続きますが旧中山道は右に曲がってまたすぐに左に曲がって行きます。佛母寺があるので寄ってみましたが、猫のような弁才天があるのみ。交差点に戻ると道路に中山道の宿の名前が順番にありました。歩道橋の脇を左折するとしばらくは静かな道が続いていきます。途中にある長松寺は小島氏の館跡で空堀が存在するそうです。付近一帯は百余りの古墳があったので、旭・小島古墳群と命名されて県選定の重要遺跡となっているそうです。

しばらく住宅街を行くと左側にお花畑が見えて少し木の茂った小さな山があります「浅間山古墳」(せんげんやまこふん)です。昭和37年に町指定の文化財になっています。百余りの旭・小島古墳群の一つです。調査された当時の写真とともに発掘された数々の品の写真が載っていました。実は祠まで数十段の階段を上がっていったのですが、今まで一度も経験したことの無い背中の寒さをスーと覚えて、少し怖くなりちょっとお辞儀してすぐに降りてしまいました。祠の中の横穴式石室は全長約9.5mとのこと。古墳の前のお花畑の中にユスラ梅の木を発見。甘い実を少しもらって先を急ぎました。

少し行くと右側に泪橋跡とその由来がありました。『幕府の伝馬役(助郷)の苦役に、どんな厳しいときでも伝馬の人々は当時ここにあった川の橋に憩い、家族を偲び、身のはかなさを嘆じて涙を流した』と書いてあります。街道に「宿駅」ができてからは、幕府で定められた数の馬を宿場では常備しなければなりませんでした。そうして公用の荷物があるときは無償で隣の宿場まで届けなければなりませんでした(無償では重い負担になるので仕事の無い時は馬を引いて運送業をしてもいいことになっていた)。しかし参勤交代の時期や年貢米運搬の時期には定められた馬の数だけでは足りずに近隣の集落から馬と人員、また参勤交代の本陣宿泊代の金銭的負担の応援を求めるように定められていて(助郷役)、助郷を求められた村落では優先的に伝馬役の宿場に馬や人足を出さなくてはならない定めになっていました。多分普段でも豊かなくらしではない近隣農民たち、つまり借り出された人々の泪ということなのですね。

ピンクのバラ、白いジャガイモの花、雪洞のような葱坊主を見ながら、緩やかに曲がって高崎方面に行く旧中山道を行きます。時間は16時30分過ぎ。陽が傾いてきて影が伸びてきました。庚申塔や二十三夜塔が集められている場所がありました。傾いた陽の影を長く引いてなんとも懐かしいような景色です。

金久保神社を過ぎて陽雲寺へ。陽雲寺は武田信玄の正室・三条夫人(陽雲院)が住んでいたところで、夫人の名をとって陽雲寺と改められたそうです。陽雲院ゆかりの品々が多数保存されて県指定有形文化財の文書や画像があります。

8 一里塚〜大光寺〜神流橋

愛宕神社があったのでしょうか、ただの土の山に石の塔が建てられてあります。その先に勅使河原と呼ばれていたこの近辺の中山道の模様の説明板が立てられていました。お隣の『新町宿』は中山道の中でも最も遅くできた宿でしたので、それが出来る前はこの辺りが倉賀野宿や三国街道に曲がっていた道であると書かれてあります。数分で武蔵国最後の勅使河原一里塚跡。木立や山ではなくお堂を持っている一里塚です。

勅使河原北の信号で国道号の中仙道と再び合流します。一つ先の信号を左折して高崎線の高架をくぐると大光寺があります。1215(建保3)年、武蔵七党の一人である勅使河原二郎有直が創建した、とあります。上里町指定文化財の見透燈籠があります。見透燈籠は「燈に背かざりせば闇路にも迷ひわせまじ行くも帰りも」と秋因の和歌が刻まれています。1815(文化12)年の建立年と、左側面には建立者である関東一の豪農の戸谷半兵衛の名前があります。

德川幕府は、街道や宿駅制度を整備していきましたが、軍事的な理由から規模の大きな河川には橋を架けない政策をとっていましたので、主に渡し舟での川越えでした。見透燈籠は神流川の渡し場に設けられた常夜灯で、夜道を往来する旅人のために灯されていました。この常夜灯は1822(文政5)年秋の洪水で倒れ、その後1857(安政4)年5月に村人と大光寺の協力により再建されました。その後明治20年代に現在の大光寺の地に移転されたということです。

大光寺を出て街道に戻ります。道は緩やかな上り坂となり神流川に架る神流橋に出ます。橋の飾りに先ほどの常夜灯が見られます。交通量が多い橋で片側のみ自転車と歩行者が通れるようになっています。左側には高崎線の陸橋。橋の下は大きな大きな広い川原、古戦場とのこと。

この橋を渡ると埼玉県と別れて群馬県に入ります。群馬県より「新町宿」が始まります。古戦場の話とともに、次回に訪ねます。

9、特別編の本庄猫

飛びついて抱きつきたくなるような猫がいましたので、猫好きの私としてはたまらずに駆け寄って写真を撮らせて頂きました。かわいい!

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