埼玉県鴻巣市 吹上
Fukiage,Kounosu city,Saitama
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Feb.2015 柚原君子
中仙道7宿(鴻巣)と8宿(熊谷)の間の宿「吹上宿」
Nakasendo Fukiage post town JR高崎線「北鴻巣駅」→箕田追分・箕田地蔵堂→前砂村碑→前砂村一里塚標柱→妙徳地蔵堂→「吹上駅」→本町交差点→いぼ地蔵→吹上神社→権八地蔵→荒川土手(熊谷堤)→JR高崎線「行田駅」
吹上宿概要
吹上宿は中山道六十九次のうち日本橋から数えて7番目の宿場である鴻巣宿と、8番目の熊谷宿との中間地点に位置する「間の宿(あいのじゅく)」でした。中山道の宿としては江戸幕府公認ではありませんでしたが、吹上村の吹上追分で日光東照宮を警備する武士たちが通る「千人同心街道」(※1)と交差している関係上、その街道の第10の宿として機能していました。中山道における吹上宿は鴻巣宿 - 熊谷宿間は4里6町40間(約16.4km)と他の宿場に比べると距離が開きすぎていたため、旅人の需要が自然に発生させたものでした。
現在は埼玉県鴻巣市に含まれますが、江戸時代は東海道武蔵国足立郡吹上郷吹上村といいました。平成17年までは独立した自治体で「吹上町」でしたが、平成の大合併ブームで現在は鴻巣市吹上町になっています。吹上の街の中を流れている川は「元荒川」で荒川の本流でした。地名の由来については東京湾から吹いてくる海風と、北部の赤城山などから吹き降ろしてくる赤城おろしがぶつかる境界であることから名づけられた、との説がありますが、定かではありません。
※1
「千人同心街道(せんにんどうしんかいどう)」は「日光火の番街道」・「日光道」・「八王子街道」・「館林道」・「日光脇街道」とも呼ばれている、八王子から日光に至る40里(約160km)の脇往還です。日光東照宮を警備する人々は千人同心とも呼ばれていましたので街道名にも使われています。徳川家康は甲斐武田家の滅亡後に武田遺臣を中心に、八王子近在の地侍・豪農などで組織された500人〜1000人の同心集団を作りました。八王子は武蔵と甲斐の境界のため有事の際には小仏峠方面を守備させる理由もあったそうです。その後、太平の世の中が続いたので、国境警備としての役割が薄れ、千人同心は1652年からは交代で家康を祀る日光東照宮を警備する日光勤番(日光火の番)が主な仕事に代わっていきました。 1、北鴻巣駅〜箕田追分〜前村砂碑
鴻巣宿と熊谷宿の間にある「吹上宿」へ。JR高崎線「北鴻巣駅」から出発です。駅を出て信号一つ目、左側に先回で終了した箕田追分が見えます。確認したところで旧中山道(県道365号鎌塚鴻巣線)に入ります。
苗木バス停の前に庚申塔。1711(正徳2)年の建立の青面金剛像。6本の手があります。おなじみの三猿も浮彫りにされています。その反対側の小さな丘の上にお堂があるので登ってみました。何の説明もありません。帰宅後に調べましたが資料は見つかりませんでした。一つの岩にお地蔵様が六体彫られています。一枚岩の六地蔵でしたらちょっと珍しいなぁと思いました。
平坦な田園風景の道を歩きます。右手の奥に高崎線の線路。老齢時代を表すように、ところどころに大きな介護施設があります。交差点の脇に前砂村碑がありました。碑には江戸より十五里余池田英泉の「鴻巣・吹上富士」はこのあたりで描かれたと刻まれています。
碑のある道のYの字になっている右手を行きます。やや歩くと左手奥にお寺の気配があるので行ってみました。山門も無いと思ったらお寺の裏手でした。正面に回ります。「龍昌寺」とあります。ご住職の奥さんが立っていらしてご挨拶をしました。幸せになるから鐘を一つ突いていってください、と言われましたので遠慮なくゴ〜ン♪と突かせていただきました。久しぶりの鐘付きに思わずありがとうの言葉が出ました。珍しいものがあります、と連れて行かれたのは板碑群(死者の供養を願って建てた石の板状の供養塔)でした。たくさんの数。「前砂の板碑群(※2)」、考古資料とし昭和34年に鴻巣市の指定を受けているものでした。「盗られてしまうことも多く、こうして寺の奥にあるのです」とお住職の奥さんはおっしゃいましたが、誰でも通れる寺の脇の道に寄せ集められているだけの感じです。市の説明板を読むと70基ほどなければならない勘定ですが、ざっと数えても50基そこそこ……盗られたのか……ざっくりと地面に置いてある板碑群の横で水仙が可憐に咲いていました。
田園風景を過ぎて集落になるとポツポツと街道の面影を残す家がありますが、他の宿場に比べたら少なく、街道に面しているけれども奥まったところに昔の農家の大きな家が見える印象です。
史跡一里塚標柱が左側に。古ぼけてボロボロ状態です。日本橋より数えて十四里目の前砂の一里塚跡ですが行政の管理が不十分の様で立札の内容はよく読めません。
線路に沿うように北上を続けます。ところどころに「中山道はこちら↑」という貼紙が張られています。線路を横切りますがこちらにもご丁寧に横切るようにと書いてあります。大体の路図は持って歩いていますが、都市部では旧道が路地裏に迂回することも多く、行きつ戻りつをすることも多いので、吹上宿のこの矢印は助かります。 ※2
鴻巣市指定説明版より抜粋
『板碑は死者の成仏や自らの死後の極楽往生を願って造られた板状石の供養塔。秩父産の緑泥片岩(秩父青石)なので青石塔婆とも呼ばれる。埼玉県は全国で最も板碑が多く27000基あるといわれている。前砂の板碑群は昭和8年頃、元荒川改修の時に前砂地内河畔から多数出土したうち57基を龍昌寺に移したのが始まりである。その後、昭和54年に同地区内塚ノ越から出土した16基もここに移された。これらの多くは比較的小型だが刻まれた紀年銘や形態等から郷土の歴史的資料としての価値はきわめて高い。県内では土木工事の際にまとまって出土する現象が時々あり、永年の間に自然に埋没したものか、人為的に埋められたものか議論されてきた。近年では維新直後の明治政府による廃仏政策で埋められたとする説が有力である』
線路を渡ると妙徳地蔵堂があります。
妙徳地蔵堂
天保年間の頃、眼病を患った娘さんが観世音菩薩を背負って八十八社参りの旅にでます。7年後の満願の日に眼病が全快して喜び勇んで家路を急ぎますが、途中で盗賊に襲われ帰らぬ人になってしまいます。無念のあまり大蛇(悪霊)になってこの近辺のだれかれと無く恨みをはらしますが、法華経に出会って成仏をします。妙徳地蔵尊として祀った、という説明の石が昭和48年の日付で建てられています。
妙徳地蔵堂の右を進んでいきます。見えてきたのは「勝龍寺」。閻魔堂前の枝垂れ梅がとてもきれいです。
吹上の町の商店街は古いイメージです。はげたペンキの電気屋さん、三棟長屋の店舗などが残っていますが、その合間合間の古い家屋は閉ざされたままです。農家らしき家の奥のほうに土蔵の白壁がところどころに見ることはできますが、中山道間の宿として立場もあったそうですが、脇往還としては認められていた千人同心街道の正規の宿場でもあった割には本陣跡も無いのは少し残念です。明治天皇がご宿泊になられたそうですが、その碑は街道より奥まった住宅の敷地の中に投げ出されたように置かれていました。その向かいには大内と銘の入った瓦を頂く家があります。遠くから眺めるとこのあたりだけが宿場の風情が残っているような感じです。
本町交差点まで進みますが、旧中山道は熊谷宿に向かって国道17号を外れて高崎線線路側のほうに。複雑な道なのでちゃんと矢印付きの説明石碑が立っています。街道右に東曜寺があり、境内には六地蔵があります。街道に案内のあったいぼ地蔵はお堂の中に入っていますが、その横は物置になっていてあまり大切にされていない様子です。吹上神社(暴れ神輿(けんか神輿)で有名)を通過して、吹上宿の説明板(忍……おしのさし足袋、荒川のうなぎ、榎戸の目薬が名物であったと記されています)を見て、立体交差点を渡り荒川の土手(熊谷堤)方向へと進みます。
土手方向に歩いている道は緩やかに曲がっていますが、人通りもあまりなくてちょっと心細くなりました。夕方近くになり曇り空でいつ雨が落ちてくるのかわからない状態です。近隣の駅は「行田駅」ですので住宅街を抜けて駅に直進しようかとも思いましたが、ここまで来て荒川の土手を歩かないのも“旅人”(笑)らしからぬ行動と、迷っているところに近所の方に会いました。「土手は人通りが無いし……少し戻って国道に出ると駅が近いですよ……」ともいわれましたが、やはり歩くことと決心して直進しました。右側に榎戸村の碑が立っていました。「ここは旧榎戸村の上方。村は中山道に面して東西五丁南北六丁余の小村だが、江戸以来、吹上、大芦村から糠田村に至る八ケ村へ田用水を供給する元荒川の「榎戸堰」があり、風光明媚な所として知られた」と書かれてありました。道は緩やかに曲がって荒川の土手に。その上り口に権八地蔵があります。
権八地蔵
「権八地蔵とその物語」(鴻巣市民俗資料)を要約します。
「鳥取藩士の平井権八が同僚を殺害し江戸へ逃れ、その途中お金に困ってこのあたりの土手で絹商人を殺害して大金を奪い取ります。辺りを見回すと地蔵様を祀った祠があります。良心がとがめるのでお賽銭を上げて「今、私が犯した悪行を見ていたようですが、どうか見逃してください。また、誰にも言わないでください。」と手を合わせると、地蔵様が「吾(われ)は言わぬが汝(なれ)言うな。」と口をきいたと伝えられています。その後、この地蔵様は物言い地蔵とも呼ばれるようになります。権八はその後に捕えられ、延宝八年(延宝七年とも)に鈴ケ森の刑場(東京都品川区南大井)で磔(はりつけ)の刑に処された。」
ちなみに平井権八は、歌舞伎の演目『鈴ヶ森』の登場人物・白井権八として登場しています。ここから土手に上がります。荒川の本流は全然見えません。畑のようなものもある広大な緑地が広がっています。堤は熊谷堤(熊谷八丁堤)と呼ばれるもので、1574(天正2)年針形城主北条氏邦が荒川の氾濫に備えて築いたものだそうです。堤の途中には「決壊の碑」の大きな岩がありました(昭和22年カスリーン台風でも決壊、その後、昭和57年には洪水となって護岸近くまで水位が上がった、と国土交通省の説明板がありました)。
延々と続く堤です。振り返ると不ぞろい幅のアーチが続く荒川水管橋が見えました。まだ彩りの少ない早春の土手に赤くきれいに映えています。この先は久下と言いますが、次回熊谷宿を訪れる際にこの堤の先を歩いてみたいと思います。
夕暮れになりましたので土手を降ります。人通りはありませんでしたが、特に怖い道ではありませんでした。右側の煉瓦色のマンションの脇の道を直進するとすぐにJR高崎線の「行田駅」でした。
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