埼玉県鴻巣市 ひな祭り
Hinamatsuri,Kounosu city,Saitama
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Mar.3, 2015 柚原君子
1、日本一高いピラミッドひな壇
所在地:鴻巣市市役所ロビー鴻巣はひなひな人形の町です。日本一高いひな壇の認定を受けているというので行ってきました。鴻巣駅よりバスに乗り市役所ロビーに向かいました。すごい〜。一番上のおひな様たちはお顔が良く見えません。ひな壇は31段、高さ7.00m、おひな様は1807体とのこと。飾り付けは、上の壇は大工さんなどの職人さんが行い、下のほうは実行委員会とボランティアさんが一体一体、手作業で飾られたとのこと。
「ひな人形で飾る日本一高いピラミッドひな壇」として、2012年に認定を受けているそうです。鴻巣宿の紹介にも書きましたが、鴻巣で雛人形が作られるようになった経緯は以下のようです。
「鴻巣は人形の街として今でも知られていますが、その歴史は古く、現在「人形町」と示されている町の掲示には「江戸時代は上谷新田村と呼ばれ旗本、藤堂家の知行地でした。農民の多くは農閑期に鴻巣雛人形を制作して各地に売ることを生業にしていました。その後、幟、兜、破魔弓、羽子板の製造も盛んにおこなわれるようになり、人形の町となりました」とあります。
雛人形は天正年間(1573- 1644年)に京都伏見人形の人形師が移り住んだのが始まりとされていて、豪華な衣装で飾った古代雛なども作られるようになりました。
2、ひなの里
所在地:旧中山道鴻巣駅より北本駅方面に向かう、本町交差点近く。
鴻巣市には「ひな人形で飾る日本一高いピラミッドひな壇」のほかにも「日本一川幅が長い」といわれるところがあります 鴻巣市と吉見町の間を流れる荒川の川幅は2,537メートルあります。これが日本一です。鴻巣市を流れる荒川の普段の川幅はほんの数十メートル程度ですが、国土交通省は河川敷を含めた堤防間を「川幅」と定めていますので、間違いなく日本一です。
それになぞらえて、「ひなの里」展示されているおひな様は川幅のように川幅のように長く長く飾られていました。ひなの里は中仙道「こうのす宿」の案内所でもあります。
宿場風情のお宅にも、近代的なビルの間口にも、お肉屋さんの店先にも、おひな様たちが静かに静かに飾られていました。特に古代びなではないようですが、撮影をお願いするとどこの方も笑顔でドアを開けてくださいました。あれ、こんなところに?というところにもひなが飾ってあるので、この時期の中仙道歩きはキョロキョロして楽しむことが出来ます。
中山道 第7宿 鴻巣宿
JR高崎線「北本駅」→北本宿案内板→多聞寺→本宿天神社→線路越え→一里塚→鴻巣宿加宿新田碑のある交差点、ここより鴻巣宿→本陣跡→箕田観音堂(みだかんのんどう)→箕田氷川八幡神社→JR「北鴻巣駅」概要
天保14(1843)年の調べでは、宿内人口2,274人、町並み17町(約1.9km)、宿内家数566軒。本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠58軒、とあります。鴻巣宿は、中山道に交差する他の街道が多いところで、中山道の宿場町の中では比較的大きな宿でした。
「吉見道……松山(現・東松山市)に至る」、「忍館林道……箕田追分を経て忍藩の居城・忍城(在・行田市)に至る日光の裏街道」、及び、私市(現・加須市)に向かう道とあります。それら行きかう人々で賑わい、宿継ぎが行われる場所でした。
鴻巣宿周辺にはいくつかの立場(たてば)が存在しましたが、中でも鴻巣宿と熊谷宿の間にあり、千人同心街道との交差点に位置していた吹上宿(現・鴻巣市)は上述の忍城へと至る中継地点としての地の利もあり、間の宿(※1)として発展しました。
鴻巣宿周辺には他に久下(現・熊谷市)、箕田(現・鴻巣市)、東間(現・北本市)、本鴻巣(後、本宿と称する。現・北本市)に立場(※2)が置かれていました。また鴻巣宿の近在村である上谷新田村は加宿(※3)の機能がありました鴻巣の地名の由来は古く古墳時代にさかのぼります。古墳時代に起きた武蔵国造の乱(むさしこくぞうのらん)に、笠原直 使主(かさはらのあたい おみ)は勝利します。そして大和朝廷から武蔵国造であることの認知を受けて、現在の鴻巣市笠原あたりを国府として居住します。国府の中心「洲」ということで「国府の州」(こくふのす)と呼ばれました。これが「こうのす」となり、「こうのとり」伝説もふくめて、後に「鴻巣」になったようです。
コウノトリの伝説は、昔々、「木の神」と言われる大樹があって難を逃れる祈りでお供え物をしていました。その木にコウノトリがやってきて巣をつくり卵を産み育て始めたら、ある日大蛇が現れて卵を飲み込もうとしましたが、コウノトリは大蛇と戦って大蛇を退散させました。以後「木の神」は人々に災いをもたらさなくなったので、人々は感謝して木の傍らに「鴻の宮」という社を建てました。いつしかこの地を鴻巣と呼ぶようになった……。伝説は多分あとから民衆向けにできたのでしょうね。
※1
間の宿(アイノシュク……宿場間の距離が長かったり、峠越えがあったりすると、宿場と宿場の間に自然発生的に興り、発展した休憩用の施設が「間の宿」です。
ただし、宿場としては非公認であって、旅人の宿泊は原則禁じられていました。それ故に旅籠(はたご)は存在しなかったのですがあくまでもそれは名目上・表向きの事であったそうです。間の宿より小規模な施設を立場(たてば)と言います。間の宿のなかには立場が発展したものもあります。
※2
立場(タテバ……宿場は道中奉行が決めたところであり、その宿場の間が難所であったり、遠かったりした場合に置かれたものを立場と言いました。水を飲んだりお団子を食べたり、草鞋を替えたりの、ちょっと休憩という場所でした。この立場が大きくなって旅籠が設けられたりすると、間の宿……アイノシュク、と呼ばれましたが、宿場とは厳しく分けられていました)
※3
加宿(カシュク……加宿(かしゅく)とは、主に江戸時代、五街道や脇往還において、宿場(宿駅)として指定した宿において、人家が少なく人馬を出しにくい宿駅(街道を往来する人馬が多すぎて処理できない場合)で隣接する村を加えて、人馬の用を行わせたものです。この主となる宿駅(幕府が認めた宿場)に対して隣接する村を加宿と言いました。
1、北本宿〜多聞寺今日は鴻巣宿を目指します。
北本駅出発です。
北本駅を下車して桶川宿のほうに少し戻ります。北本宿の説明が交差点の脇にあります。実はここがもともとの鴻巣宿でした。1602(慶長7)年まではここが鴻巣宿として機能していましたが、江戸幕府の宿駅整備に伴って、鴻巣宿は北の方角(前橋寄り)、市宿新田に移設されました。
元の鴻巣宿のあった「北本」は「元鴻巣村または元宿村→明治12年に北本宿村に改称→明治22年に中丸村大字北本宿→昭和3年国鉄高崎線開通により駅名として採用される。→昭和34年町制施行の際に「北本町」に改称、という経緯があります。
移設の理由は桶川宿に近すぎたという説もあるそうですが、勝願寺が徳川家の庇護を受けていた関係(大間村にあった勝願寺が鴻巣宿に移った)などがあったようです。幕府の思惑……いつの時代にもありそうなことですね。そのようなわけで、北本宿は存在したのですが、街道筋に旅籠や店は無く、立場が二カ所あり、街道を行く人は喉を潤したりしたそうです。説明板のあるところを少し行くと、街道筋左側に白壁の蔵が見えます。蔵には「関」と入っているので、ここが立場を任されていた「関根氏」宅のようです。昭和34年までは曲り家であったそうです。北本宿の説明板には古い写真も数枚展示されていました。当時の関根氏宅の曲がり家を思い起こしながら通過しました。途中、黒い猫や、黄色に咲くミツマタを見ながら多聞寺に到着。天然記念物の無患子(ムクロジ)の木があり、羽子板つきの玉に使われる黒い実が数個落ちていました。
北本市指定の有形民俗文化財「数額」のある本宿天神社。北本宿のあった本宿村の鎮守でもありましたが、村の名主は「機屋」の屋号を持つ岡野家。その岡野家の氏神でもあったそうです。江戸時代は多聞寺持ちで、多聞寺が管理をしていましたが、明治6年には村社となり管理を抜けました。本殿は大東亜戦争後に老朽化していたので、中丸小学校の奉安殿を移築されました。菊の御紋が付いているのはその理由だそうです。昔の中山道を歩くので、現在の街道を少し外れます。東間踏切を渡ると一里塚があるというので行ってみました。
馬室原一里塚として左側だけが残っています(右側は高崎線工事で壊失)。関東の中山道に一里塚は三カ所現存しています。板橋宿(志村)と高崎宿です。一里塚は距離の目印で日本橋を起点として、一里(約4キロ)ごとに街道の左右一対として10平方メートルの塚を築いたものです。馬室原一里塚は線路沿いの畑の中ですが、登れるようなので登ってみました。時代を見てきた一里塚ですね。昭和2年に建てられた史跡がありました。
一里塚より再び線路を超えて街道に戻ります。交差点の脇に「鴻巣宿加宿新田」と刻まれた石碑が立っています。ここから鴻巣宿です。町内が変わる事に電柱に町の名の由来が掲示されています。宿場を大切にしようという行政の姿勢が示されていて、現代の中仙道を歩こうという人には頼もしい掲示です。
鴻巣は人形の街として今でも知られていますが、その歴史は古く、現在「人形町」と示されている掲示には「江戸時代は上谷新田村と呼ばれ旗本、藤堂家の知行地でした。農民の多くは農閑期に鴻巣雛人形を制作して各地に売ることを生業にしていました。その後、幟、兜、破魔弓、羽子板の製造も盛んにおこなわれるようになり、人形の町となりました」とあります。
雛人形は天正年間(1573- 1644年)に京都伏見人形の人形師が移り住んだのが始まりとされていて、豪華な衣装で飾った古代雛なども作られるようになりました。
街道筋にある古い家屋と共に人形の看板が目立ちます。2015年の鴻巣ひな祭りは2月14日より3月7日まで開催されます。
4、勝願寺
屋根に三つ葉葵の紋瓦を掲げる徳川家ゆかりのお寺です、浄土宗の名刹。徳川家康が2世住職円誉不残上人に帰依を受けたので葵の紋がゆるされて、御朱印地30石を賜わっていました。古刹にふさわしい堂々とした本堂と楼門です。仁王様も何だかとても偉そうにお立ちです。
家康の次男、結城秀康が結城から越前北ノ庄へ転封になった折り、結城城の御殿を全てこの寺に賜わったそうです。大方丈には金の間・銀の間・獅子の廊下などがあり、鐘も結城の華蔵寺から移したものだそうです。また、文禄2(1593)年には、家康、秀忠、家光の徳川将軍三代が鷹狩に来て長逗留するための鴻巣御殿が建てられたそうです。綱吉の代には生類憐れみの令によって鷹狩用としては使われなくなった御殿ですが、次の吉宗の代には鷹の訓練やおとりにする鳥の飼育を行う施設として復活しています。
境内の本堂左に「墓石群」があります。一番右が本田忠勝の娘で家康の養女となり、真田信之の妻となった真田小松姫の墓石。中の2基は 「真田信重(信之の三男)とその室の墓石」、左は豊臣秀吉の家臣で、その後家康に仕えた仙石秀久の墓石です。とても大きな案内板が、なんだかね、無粋でした。
勝願寺を過ぎて、鴻巣駅に入る交差点の手前にひっそりと本陣跡の碑が立っています。本陣、脇本陣、旅籠が58軒あったという鴻巣宿。往来には白壁の蔵や旅籠の様な風情の家屋もめだちます。何と言っても、人形の街そのものの看板にあふれる鴻巣駅周辺です。
ここは元々は雷電神社があった場所(雷電神社の現在地は桶川宿)です。バス停も地名も未だに雷電神社です。鴻神社は明治6年に氷川社・熊野社を合祀されたものです。境内にある「なんじゃもんじゃの木」は東京・青山の六道の辻にあったヒトツバタゴ。花の名の由来がおもしろいです。ヒトツバタゴという名前が分からなかったのでいつのまにか「なんじゃもんじゃの木」になりました。撮影時はお正月でしたので、善男善女の初詣の列が長くありました。概要の箇所で、地名の成り立ちを記しましたが、国府の洲の「洲」は中心という意味がありますから、「国府の洲」が変化してのちに当て字をされた、という説が正しい気がします。ということは「鴻の宮」は「国府の宮(こうのみや)」であったということなのでしょうね。国府という地名は全国に結構ありますから、鴻の宮の方が覚えられやすいことはありますが。
所在地:鴻巣市宮前3755
ずい分と空が広く感じられるさっぱりとした箕田観音堂です。よく見ると銀杏の木が4本ありますが、何かの怒りを買った様に、ばっさりと切られています。どうしたのでしょうか?青面金剛の庚申塔、供養塔が入り口左側に並んでいます。街道筋にあったものが集められているとの事。
もともとここには嵯峨源氏の渡辺綱の守り本尊を安置していたと伝えられる平等寺があっったそうです。吹張山平等院、箕田観世音とも言われています。かなりややっこしいので案内板をそのまま記します。
『当箕田観世音は、今を去る一千有余年前、平安時代中期の武将渡辺綱公を開祖とする由緒ある馬頭観世音である。この馬頭観世音は六孫王(清和天皇第六皇子の子)と言われた源経基公が、戦いの折に兜に頂いて出陣した一寸八分(約33㎜)の尊像である。承平の頃、経基公が大間の箕田城に在城の折、ある夜不思議な霊夢をみて、箕田の源仕公(渡辺綱の祖父)に譲り下された。箕田の仕公は、周囲の征夷を行った功績により武蔵守に任ぜられたが、これは他ならぬ観世音の「畏怖軍陣中 念被観音力 衆怨悉退散」のご加護のたまものである。それより、源仕公から源充公へ、源充公から渡辺公にと相伝えられ渡辺綱公がこの地に安置されたものである。時、正に永延元年(987)のことであった。それゆえに当観世音を「渡辺綱守本尊」と称し奉った。また、当観世音は別当真言宗吹張山平等寺でもある。この寺は宇治の「平等院」をここに移し「吹張山圓通寺殿」の別所と称したものである。当観音堂舎は、従来は大堂であったが明治五年二月に日の火災により焼失し、同年直ちに同地内の別当平等寺を引き直し本堂として修復工事を行ったものである。また従来より言い伝えられていた一寸八分の尊像もこのたびの本堂解体工事の際に無事見出され、百数十年ぶりにその御姿を現しになった。更に当観世音は忍領三十三観音霊場の七番観音にあたり、元禄の頃より巡礼者も多く賑わったと言い伝えられている。数百有余年の風雪に耐えた本堂も老巧化が進み、この度「開山一千年の記念事業」として、信徒の総意に基づきここに本堂の改築を行ったものである。この大事業が無事完成を見たのも、観世音菩薩の広大無辺なるご加護と共に、信徒各位の一層のご多幸、御繁栄を至心に祈願して、これを永代に残すものである。平成三年二月吉日』(案内説明より)
箕田観音堂をさらに進んで行くと、同じ右側に見えてくるのが箕田氷川八幡神社です。
箕田碑があります(鴻巣市指定金石文)。
鴻巣市教育委員会案内板より引用します。
『箕田は武蔵武士発祥の地で、千年程前の平安時代に多くのすぐれた武人が住んでこの地方を開発経営した。源経基(みなもとの つねもと・六孫王清和源氏)は文武両道に秀で、武蔵介(むさしの かい・として当地方を治め源氏繁栄の礎を築いた。その館跡は大間の城山にあったと伝えられ、土塁・物見台跡などが見られる(県史跡)。源仕(みなもとの つかう・嵯峨源氏)は箕田に住んだので箕田氏と称し、知勇兼備よく経基を助けて大功があった。その孫綱(渡辺綱)は頼光四天王の随一として剛勇の誉れが高かった。箕田氏三代(仕・宛・綱)の館跡は満願寺の南側の地と伝えられている(県旧跡)。
箕田碑はこの歴史を永く伝えようとしたものであり、指月の撰文、維硯の筆による碑文がある。裏の碑文は約20年後、安永7年(1778年)に刻まれた和文草体の碑文である。初めに渡辺綱の辞世「世を経ても わけこし草のゆかりあらば あとをたづねよ むさしのはら」を掲げ、次に芭蕉・鳥酔の句を記して源経基・源仕・渡辺綱の文武の誉れをしのんでいる。鳥酔の門人が加舎白雄(志良雄坊)であり、白雄の門人が当地の桃源庵文郷である。たまたま白雄が文郷を訪ねて滞在した折りに刻んだものと思われる。昭和62年3月』。夕刻に近づいた頃に訪れましたので、新年でしたが人もまばら。箕田碑の前に長く佇んで読んでいる人、その足元に長い長い鳥居の影が伸びていました。
鴻巣宿からほぼ1里(約4Km)ほど行くと、箕田村の追分に着きます。追分からは北(中山道より右側に分かれている道)へ向かって三ツ木・川面を経て忍(行田市)や館林(群馬県)城下へ向かう道となっています。鴻巣宿から次の宿になる熊谷宿までは、四里六丁四十間(約16km)の長い距離がありますので、途中の箕田・吹上・久下村の三カ所に立場が設けられていました。ですから、立場(たてば)である箕田の追分では、旅する人、見送る人、休む人でにぎやかであったと思われます。旅の安全を祈ったのか、はたまた行き倒れの人を弔ったのでしょうか、地蔵堂もありました。馬が倒れることもあるのでしょうね。地蔵堂より少し手前の辻角には馬頭観音もありました。箕田の追分を最後にして鴻巣宿を終了しました。ここより徒歩7分くらいのJR北鴻巣駅に向かいます。次回は熊谷宿ですが、熊谷宿に到達する間にも宿が一つあります。間の宿:吹上宿です。次回はそこに行きます。
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