JAPAN GEOGRAPHIC

埼玉県さいたま市大宮区 中山道大宮宿 

Omiya shuku,Omiyaku,Saitama city,Saitama

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Oct.2014 柚原君子

中山道第4宿「大宮宿」概要

中山道第4宿「大宮宿」は1843年の道中奉行による調べでは宿内人口1508人、本陣一軒、脇本陣9軒、街並みは9町30軒で中山道最大であったそうですが、現在はJR大宮駅の周辺に当時の宿を彷彿とさせる景観物は残念ながらあまり多く残っていません。

戦国時代のあと北条氏によって街道は整備されていますが、中山道第三宿の浦和宿の次は上尾宿となっていて大宮はその中間点の馬継ぎの場所に過ぎませんでした。大宮の由来は氷川神社にあります。当初の大宮宿は大門通りと呼ばれた参道に宮町、中町、下町の三町から成り立っていたそうです。

1624年(寛永元年)に1キロメートルばかり離れたところに居住していた北澤甚之丞直元が42軒の村民と共に移住してきて大門町を開いて4町となったと記録にあります。(江戸時代に入ると、その子孫である北澤次郎左衛門本陣を勤めます(本陣跡は現在の高島屋デパート。その屋上には北澤稲荷が祀られています)。

1628年には氷川神社の一の鳥居から西に新たに街道を開き(氷川神社の参道を牛馬が通るのをはばかってか)、氷川神社の参道を一直線にさせて旅人は氷川神社に参拝しながら中山道を京に上っていったのです。

氷川神社の参道は一直線に2k伸びた美しい欅並木です。一の鳥居から本殿までゆっくり歩いて20分はかかります。欅(ケヤキ)は埼玉県の県木ともなっています。

明治時代に入り鉄道の時代となって街道の役目は終わります。大宮は東北本線の分岐点となり、鉄道関連の大宮工場が設けられたこともあって、大宮宿は鉄道の町として発展していくこととなります。

新都心駅〜大宮駅

火の玉不動尊とお女郎地蔵→鴻沼用水と高台橋

中山道に出て大宮宿は左に行くのですが、大宮宿の始まりである火の玉不動尊とお女郎地蔵と高台橋の遺構を見るために右に信号一つ戻ります。駅とは反対側の歩道に上尾宿の方を向いて祠が一つ立っています。

説明版にはお女郎地蔵伝説は「江戸時代の大宮宿に柳屋とう旅籠があり、千鳥と都鳥という姉妹のお女郎が旅人の相手をしていました。宿の材木屋の若旦那と千鳥が恋仲となりましたが割って入ったのが大盗賊の神道徳次郎(悪党にしては神とか徳とか字を名前に持っていて、説明版を読みながら少し笑えます)で横取りをしようとします。旅籠に火をつけるという騒動になって千鳥は思い余って高台橋から身を投げたそうです。あわれに思った近所の人がお地蔵さんを建立したそうです。

火の玉不動地蔵は、高台橋から身投げした遊女の霊か不動明王のいたずらかこの辺りで火の玉が舞うことがおおかったそうです。ある夜、大盗賊の神道徳次郎が火の玉に切りかかるとギャーという声がしてものすごい形相の男が、俺は不動明王だ、お前に剣を切り落とされた!と言って消えてしまったそうです。翌日村人が見に行くと不動明王は剣を持っていなかったそうです。以来火の玉不動と呼ばれて祀られているそうです。

この下を流れるのが鴻沼用水です。八代将軍徳川吉宗が1728年に掘った灌漑用水路です。川も中山道大宮宿に向かって右側は暗渠になっていて見られませんが、左側に高台橋はの遺構の赤いレンガをみることができます。

大宮宿に向かって出発です。

安東橋碑

さいたま新都心駅より大宮に向かって歩いて行きます。右側に氷川神社の赤い一の鳥居が見えてきます。まっすぐに気持ちの良い道が神社まで伸びています。かつてはこの参道が中山道でしたが、牛馬が参道を通るのを憚って、一の鳥居より左側に道を新たに作って中山道としたそうです。もともとの中山道である氷川神社の参道は後ほどに歩くこととして、中山道の方を直進します。

吉敷町交差点に出ます。交差点の足元に安藤橋碑があります。高さ三十センチ程の小さな石碑ですので見落とします。私も交差点を二回くらい巡りました(笑)。

1775年、北澤本陣の失火によって大宮宿85軒が焼失する大火が発生します。時の勘定奉行であり道中奉行であった安藤弾正は幕府の御用金とお米 で人々を救ったそうです。けれども事前に幕府の許可を得なかったことから切腹という事態になります。大火のあとに救われた人々がその死を悼み、吉敷町にあった橋を安藤橋と命名します。排水路であった川も橋もその後に無くなります。橋が無くなったその後には墓碑を立てて祀ったとの言い伝えが残っています。橋の石碑は交差点の脇にあります。本当に小さいですよ。どうぞお見落としが無いように。

塩地蔵尊

屋敷門の斜め前に郵便ポストがあります。そこの前の路地を入っていくと右側に塩地蔵尊があります。妻に先立たれた浪人が娘二人を連れて旅の途中、病に倒れます。夢枕に地蔵菩薩が立ち塩断ちのお告げをされますので、その通りにしてお地蔵さんに祈ったところ、浪人の病が癒えたとの言い伝えがあるそうです。

塩地蔵尊は内藤新宿の厳覚寺にもあります。こちらは自分の体の痛いところと同じところに塩を塗ると、痛みが消えるというものです。宿にある塩地蔵は旅の疲れ、養生、怪我などに起因するものが多いのかもしれませんね。塩地蔵の変わったところでは安産祈願に塩を盛るお地蔵さんが狛江市の慶岸寺に、イボ取りのお礼にという塩地蔵は西新井大師にあります。島国の日本ですから海水には恵まれていて塩の精製もたやすい様に見えますが、塩は昔から貴重品だったようです。歴史の中にある忠臣蔵の大騒動も、もとはといえば赤穂藩と吉良藩の塩のシェア争いですものね。

ビルの陰にひっそりと建立された中山道の塩地蔵尊ですが、祠のすぐ隣には子育て地蔵様もあります。こちらは塩に縁もゆかりもないお地蔵さんで、「お塩は盛らないでください」という貼り紙がユーモラスでした。

涙橋跡

排水路に掛かる石橋でしたが、その先にある下原刑場に送られる罪人が縁者と涙の別れをした場所だそうです。下原刑場とは大宮宿の始まりで通ってきた高台橋の袂にあったそうです。お女郎伝説にある大盗賊の神道徳次郎もここで処刑されています。

当時、刑場や処刑場は藩単位で作れていました。埼玉県に存在したのは下原刑場のみです。ちなみに国定忠治は群馬県の大戸刑場です。東京都では鈴ヶ森刑場、芝高輪刑場、小塚原刑場、小伝馬刑場、板橋刑場(新撰組の近藤勇を処刑)、浅草鳥越刑場などがあります。

涙橋跡の大通り向かい側に高島屋デパートがあります。屋上にある北澤本陣のお稲荷さんの撮影に向かいます。

紀州鷹場本陣(北澤本陣)

大宮宿には内倉本陣、山崎本陣、紀州鷹場本陣ほか9軒の脇本陣があったそうですが宿場時代の高札場などの案内板が残っていないので場所を確認することは難しいそうです。そのうちの紀州鷹場本陣は現在の高島屋デパートの位置にあったそうで、デパートの屋上に北澤稲荷が残されていました。この後、氷川神社に向かいます

大宮駅〜宮原駅

本陣跡

大山道道標

氷川神社

東京、埼玉にある氷川神社200社の総社。2000年の歴史ある神社。その大いなる宮居という意味で所在地が大宮、宮原などなっています。一の鳥居から本殿までの道のりは実に2kもあります。ゆっくり歩いて20分くらいかかります。この氷川参道は初めは中山道の一部でしたが、清められた神社の参道を牛馬が通るのはよろしくないということで、1620年頃より一の鳥居より左側に中山道が作られます。

二の鳥居は昭和41年に明治神宮より寄贈された木造の鳥居です。木立の深い陰影の中、木漏れ日がユラユラと赤い鳥居に映りこんでとてもきれいです。二の鳥居の前はかっては大宮宿と岩槻の城下町を結ぶ街道だったそうで、平行して堀が有り太鼓橋が架かっていたそうですが、現在は面影もありません。現在は一宮通り(オレンジ通り)と呼ばれていて、街道の面影をなんとなく残す古い家が1,2軒あります。石畳の道になっていますがゆったりと歩くと旅人になった気分がします。参道の木々は昔は松だったそうですが、明治以降は杉となります。しかし太平洋戦争中に燃料としてさい×されることも多く、現在はおおむね欅の木になっています。幹周りが2メートルを超える古木も25本あり、市の天然記念物になっています。三の鳥居をくぐると神池があります。江戸時代には広大な沼であった地域でこの神池はその名残です。神池にかかる朱の神橋を渡ると楼門があります。見事な細工です。奥に舞殿がありその奥に拝殿、少しかがむと本殿がみられます。

お宮参りのお札を産着に下げたご夫婦から写真をとってくださいと頼まれました。カメラという機材だけがまあ何とか形を示していますが、腕は今一ですのでこんな時一番困ります。

中山道大宮宿を歩くためにさいたま新都心駅でもらったパンフレットには、境内にあるほぼ同じつくりにある三間社流の建物は4棟のうち3棟が市の有形文化財である、と書いてありましたので写真撮影が楽しみだと期待していましたが、神社を探しても何も見当たらず、立て札もなし。通りがかった神社の方に聞きましたら、あっさりと「知らないねぇ」とのこと。「有形文化財ならこちらが把握しているはずですが、知らないですね、もう一人の神社関係者も苦笑いでした。

東大成庚申塔

大山道道標を確認した後、またスタコラスタコラと20分ばかり歩いたでしょうか。今日の私のヒザの具合はまあまあで、それほど痛くは無く、先回浦和宿を歩いた時ほどは疲れませんでした。秋の気持ちの良いお天気で湿度が低い関係もあります。東大成の庚申塔を写真に収めたらその先の宮原の駅から電車に乗って帰宅の予定です。

上越新幹線の高架が見えてきます。それの手前左側の赤い鳥居が庚申塔の目印です。1697年に建てられた庚申塔が見えました。1697年の元禄10年の時代背景は井伊直弼が大老に就任した年です。そしてこの5,6年後には赤穂浪士の討ち入りがあります。……そんな昔から建っている庚申塔に見入りました。

このあたりは丹沢の風景と富士山が良く見られて展望が素晴らしいところだったそうです。庚申塔は正面に青面金剛像、二鶏、三猿が彫られています。庚申塔は中国より由来した道教に基づき庚申講を三年18回続けたら記念に塔が建つそうです。甲は干支で猿のことですから三猿が彫られていることが多いです。仏教でいえば庚申の本尊は青面金剛像なので、この像が彫られている庚申塔も多いようです。道の分岐点や街道などに建立されることが多いそうです。ここの東大成庚申様は、地元では耳の神様、目の神様として親しまれているとのことです。

さてと、今回の大宮宿はこれで終了です。「女猫」という面白い看板があったので撮影して、上越新幹線の高架をくぐって宮原駅に向かいます。

次は上尾宿です。

中山道大宮宿の猫と花

大宮宿の古い家

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