JAPAN GEOGRAPHIC

埼玉県さいたま市岩槻区 久伊豆神社

Hisaizujinja,Iwatsuki,Saitama City,Saitama

 
Category
Rating 凡例
Comment 
 General
 
 
 Nature
 
 
 Water
 
 
 Flower
 
 
 Culture
 
 
 Facility

 
 Food
 


Mar.5,2026 柚原君子

所在地;埼玉県さいたま市岩槻区宮町2-6-55

主祭神
大国主命(おおくにぬしのみこと) 言代主命(ことしろぬしのみこと)

創建の時代は不明とされるも、古墳→飛鳥→奈良→平安→鎌倉→室町→戦国→安土桃山→江戸時代と続く中で、今から約1500年前、古墳時代である第29代欽明天皇の御代と伝わる、と社伝にあるそうだ。
また、『吾妻鏡』には、鎌倉時代にあたる1194(建久5)年6月30日の条に「武蔵大河戸御厨久伊豆宮において神人等喧嘩出来の由その聞えあり。驚きおぼしめすにより、尋ね沙汰せしめんがために掃部允行光を下し遣わさると云々。」とあるそうなので、一般的にはこの頃の創建であろうと。
吾妻鏡文中の「大河戸御厨」とは旧埼玉郡と旧足立郡にかけての御厨(神様にお供えをするためのものを作る台所)の名称なので、現在の岩槻周辺か、その付近に「久伊豆宮」が存在したことは疑いないのではないかといわれている。しかし、社伝ではこの「久伊豆宮」が当社であるか否かは断定できないともしている。
ただ、境内には、「青石塔婆」という板碑があり、その年号を見ると1317(正和6)年、1318(文保2)年、1324(元亨4)年、1349(貞和5)年、1560(永禄3)年などとあり、吾妻鏡に載った100年後の、鎌倉時代後期から室町時代において久伊豆神社への信仰の篤さを窺い知る事実もある。
江戸時代に入ると、徳川将軍家からも篤く崇敬され、二代将軍秀忠、三代将軍家光も鷹狩りに際して参拝、休憩したと伝えられている。
明治維新後は一帯の総鎮守として郷社に列格。境内地約1万坪という大きな神社になっている。

岩槻と言えばお雛様。三月にはさぞかし雛が多いだろうと出かけた。民家をはじめとして文化財指定の建物の中もお雛様一色でうれしい撮影だった。しかし、もっとびっくりしたのは城下町、宿場町であったこと。日光御成街道にあり、将軍が日光に出向く時の一泊目の宿であることも初めて知った。
今日は御成街道の宿場としてではなく、雛の町の歴史を中心にしてまわっているが、宿場の歴史である高札場の立札や本陣跡など、気になるところたくさんで、何回か撮影を重ねたいと思った。

久伊豆神社は左岩槻、右東岩槻の鉄道線路のちょうど真ん中あたりの踏切の向こう正面に鳥居が見える。神社は埼玉自然百選になっている森でもあり、境内地の面積は三町歩余りの9000坪という広大な神社地で文化財を6つ持つ。岩槻市総鎮守と立札にある。もともとは江戸城北方の要衝として重要な拠点だった岩槻城城内にあった神社である。
鳥居を過ぎると右側に幼稚園。本殿までの道のりが長い。社殿(拝殿)本殿に進む。社殿は鈴尾が6本も下がっている。本殿にまわる。神社の本殿はよく見えないことが多いが、この久伊豆神社はきちんと全容が見えて、そして彫刻がどの面も美しい。

そのほかの特色。
■クジャク
何代目かになるそうだが、昭和13年、朝香宮殿下が軍事演習視察のために訪れた岩槻で手厚い待遇を受けたので、そのお礼としてご自分の庭で飼っていたクジャクを3羽をこの久伊豆神社に奉納。現在のクジャクは、その末裔。「救邪苦」と読むことも。
■石灯籠
1858(安政4)年。獅子の背中に乗っている。
■久伊豆をクイズと呼んで勝負神としてブームになったことも。


社殿の周囲は境内社がずらり。

久伊豆信仰の広がり
久伊豆神社の創建は約1500年前、欽明天皇の時代にまで遡ります。出雲族の土師氏が東国に移住した際に、出雲の親神である大己貴命(大国主命)を祀ったのが始まりです。

武蔵七党との関係
平安時代に武蔵野で勢力を持った武士集団「武蔵七党」のうち、野与党と私市党が久伊豆神社を厚く信仰していました。
彼らの勢力圏であった元荒川流域を中心に、久伊豆信仰が広まりました。
城主との結びつき
江戸時代には徳川家康が江戸の鬼門除けとして祈願したとされ、歴代の岩槻城主からも崇敬されました。
これにより、久伊豆神社は地域における重要な存在となりました。

総本社的存在
埼玉県加須市にある玉敷神社は、かつて久伊豆明神と称されており、各地の久伊豆神社の総本社的な存在だと考えられています。このことも、埼玉県内に多くの久伊豆神社が存在する理由の一つです。越谷市に鎮座する久伊豆神社もまた、埼玉県-を中心とした関東地方に約100社ある久伊豆神社の総本社的な存在とされています。

■手水舎の登竜門
久伊豆神社の手水舎は延宝三年(1675)に建てられたと伝えられるものですが、とりわけ注目されるのが「登竜門」の彫り物が施されていることです。 「龍門」は言うまでもなく中国黄河中流にある有名な険所であり、この急流を登ることができた鯉などの魚は龍になると古来伝えられており、 日本でも「立身出世の関門」を意味する語として余りにも有名です。まさに龍に化身せんとする鯉の姿は参拝を前に手水を使う参詣者に相応しいものです。

三ノ宮卯之助銘の力石
力石とは力仕事を人力に頼らざるを得なかった時代において、力くらべをしたり、体力を鍛えるために用いられた石のことです。 三ノ宮卯之助は江戸時代後期に、三野宮村(現在の越谷市大字三野宮)出身で、力石や米俵などの重量物を持ち上げる興行を行いながら全国各地を回り、 日本一の力持ちと言われた人物です。興行先であったと考えられる神社などには、「三ノ宮卯之助」の銘が刻まれた力石が残されています。 越谷市内では越ケ谷久伊豆神社に1個、三野宮香取神社に4個、三野宮向佐家に1個の計6個が確認されています。 久伊豆神社の力石には「奉納天保二辛卯年(1831年)四月吉日 五十貫目 三ノ宮卯之助持之 本庁 會田権四郎」と刻まれており、 卯之助が24歳の時に、五十貫目(約190kg)の力石を持ち上げたとされる文字が刻まれています。

狛犬の足止め麻
家出や悪所通い、多忙な仕事などで家庭を顧みない家族との絆をしっかり結びなおしたいという願いを込めて、 拝殿前の狛犬の足に麻を結びます。古くから「足止めの麻」といわれております。

(青石塔婆)

戦国時代の武将で、江戸城を築いたことで有名な太田道灌が岩槻城を築いた時、城の天門(乾・北西)にあたることから城内の総鎮守として社殿を再建し、軍事の成功や子孫永永無窮などを祈願しました。

さらに、天文19年(1550年)には岩槻太田氏第4代太田資正が社殿を再興するなど、戦国の名門である太田氏より崇敬を受け、厚く保護されました。

~江戸時代~

江戸時代に入ると、

岩槻は江戸の鬼門に位置したことから重んじられ、老中クラスの譜代大名が歴代の城主として居城しました。慶長年間(1596~1615年)には、徳川家康が自ら江戸の鬼門除けとして祈願したといいます。また、同じく慶長年間には徳川時代の初代岩槻城主高力清長が50石の社領を寄進しており、以後江戸時代を通して歴代の城主から崇敬されています。

さらに、
将軍の日光社参においては、城主の主催により祈祷が行われました。
歴代城主より奉納された宝物は、2代城主高力忠房より「鰐口」(元和元年・1615年奉納)、6代城主で老中にまで昇格した阿部重次より「螺鈿の鞍」(寛永9年・1632年奉納)、「神輿」(寛永19年・1642年奉納)、肥前国島原城主高力高長(2代高力忠房の子)より「大太刀」(明暦元年・1655年奉納)、13代城主小笠原長重の尽力による「宗源宣旨」(宝永4年・1707年発給)などがあります。

+昭和12年(1937)11月16日から17日にかけて埼玉県大宮岩槻付近で行われた軍事演習視察の為、当時陸軍中将であった朝香宮鳩彦王殿下は岩槻へご来臨されました。その際、岩槻の名士で元貴族院議員の齋藤善八氏が自身の洋館を殿下の御宿所として提供、応接役を務めました。翌年の昭和13年(1938)殿下は応接の御礼として白金宮殿で飼育していた孔雀を下賜すると沙汰(命令)されました。大変な栄誉を受けた齋藤氏は宮家から戴いた高貴な孔雀は岩槻町全体で享受するべきとして、岩槻町の総鎮守である久伊豆神社へ奉納し未来永劫、岩槻の町を見守ってもらう様にと考えました。
そこで境内にアールデコ調の洒落たドーム型の鳥舎を建設、同年3月9日馬場栄太郎社司(当時の宮司)、齋藤氏、秋葉保雄岩槻町長、氏子総代の長谷川宗七氏、島田友七氏らは東京白金の宮殿に参上、殿下より孔雀を3羽賜りました。その後、朝香宮様の孔雀は歴代宮司や地域の人々によって大切に飼育され、当神社のシンボルとして愛されています。
 

                                                                       

 

 All rights reserved 無断転用禁止 通信員募集中