埼玉県さいたま市岩槻区 遷喬館
Senkyokan,Iwatsuki,Saitama City,Saitama
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Mar.5,2026 柚原君子
岩槻藩遷喬館
所在地;埼玉県さいたま市岩槻区本町4-8-9
埼玉県指定文化財(史跡)1839(昭和14)年指定
埼玉県内では唯一現存する藩校の建物。「岩槻藩遷喬館」は、1799(寛政11)年に、岩槻藩に仕えていた儒者・児玉南柯(こだま なんか)が開いた私塾。後に藩校となり、岩槻藩の武士の子弟に儒学を中心に講義が行われ、勉学や武芸の稽古に励んだ。
建物は武家屋敷を利用したものであり、木造平屋建て、茅葺屋根の構造。15畳と9畳からなる二間続きの教場。扁額は岩槻藩(大岡家)第5代藩主・大岡忠正の実兄にあたる八田藩第3代藩主加納久慎による。
明治維新により廃校。1871(明治4)年の藩校廃止後は民家として使用されていた。
2003年から2005年にかけて、江戸時代に児玉南柯が創設した当時の姿に復元されて、吹きさらしの玄関や漆喰の壁、生徒の入口を設けている。
「遷喬館」(せんきょうかん)の名前の由来
詩経(中国最古の詩集)の「伐木」の一節、「出自幽谷 遷于喬木(幽谷より出でて
喬木に遷る)」による。学問を欲し友を求めることを「鳥が友を求めて深い谷から高い木に飛び移ること」にたとえた内容で、学ぶ者に高い志を持つことを促す意味が込められている。
※児玉南柯(こだまなんか)
江戸時代の後半である、1746(延享3)年、甲州の豊島家で生まれる。
11歳で岩槻藩士の児玉親繁(ちかしげ)の養子に。
16歳のとき藩主大岡忠喜(ただよし)に仕え、18歳で江戸の藩邸に勤務し、以後様々な要職を歴任し、35歳の1780(安永9)年、南京船漂着事件の処理で名声を上げた。
43歳で職を辞し、54歳の1799(寛政11)年に私塾・遷喬館を開設し、岩槻藩の子弟教育に情熱を注いだ。
裏庭に梅の花が咲いていた。
茅葺家は想像していたより大きな家屋。
式台(入り口)は多くの子供たちが並んで草履を脱げるような広さがあり、上がった先の大きな広間も天井が高く気持ちが良い。江戸時代の子どもたちの学ぶ声が聞こえてきそうである。こちらでも各部屋に雛飾り。大正~昭和の雛が多い。享保雛もある。独特の衣装でお内裏様は左。お雛様の冠が豪華。児玉南柯の自画像もあり、遷喬館近くの浄安寺に眠るとの添え書き。
写真を撮り終えて出てくると、受付の女性から深くお辞儀を受けた。人形の町岩槻としか知らなかったが、城下町としての目線で再びこの町を訪れたいと思った。
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