滋賀県愛荘町 金剛輪寺
Kongorinji,Aisho town,Shiga
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愛知郡愛荘町松尾寺874 金剛輪寺二天門 重文 近世以前/寺院 室町後期 室町後期 桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、檜皮葺(元楼門一階) 19610323
愛知郡愛荘町松尾寺874 金剛輪寺本堂 国宝 近世以前/寺院 室町前期 室町前期 桁行七間、梁間七間、一重、入母屋造、檜皮葺 厨子1基 18981228 19521122
April 9,2022 大野木康夫 source movie
参道
明壽院入口付近
明壽院庭園
再び入口
参道
二天門
二天門から見た本堂
本堂
三重塔
帰路
Nov.16,2020 瀧山幸伸
A camera
B camera
November 24,2019 大野木康夫 source movie
総門付近
参道
明壽院
名勝庭園
参道へ
参道
二天門
本堂、三重塔、二天門と紅葉
帰路
March 2, 2019 野崎順次 source movie
近くに鉄道の駅はないし、路線バスの停留所もない。その代わり、JR稲枝駅から1時間に1本予約制の愛のりタクシーで一人でも900円で行ける。通常タクシーの4分の1の価格である。この日は乗客は私一人だったので、追加料金を出して、最上部の本堂まで行った。
パンフレット
国宝 本堂
国重文 三重塔
鐘楼(銅鐘は県文)
本堂右手の坂を上る。
町文 宝塔
国重文 二天門
石仏の並ぶ参道を下る。
門前庭 桃山時代
白門から明壽院玄関
国名勝 明壽院庭園 桃山(玄関付近)、江戸初期(書院前庭)、江戸末期(奥部)
今これらの諸庭園を順次一覧して見よう。玄関の間東部の庭も、書院から鑑賞出来るようになっているが、東部の山畔を利用して、そこに多数の石を組んで滝を落とし、池庭には石橋三橋を架けたり、山畔には鎌倉期の立派な宝篋印塔を配してある。(この宝篋印塔は、上部の本堂付近にあったものを、文政年中にここへ運んできたことが文献で解る。)
この付近の滝の石組をはじめ、護岸の石組に至るまで、はなはだ剛健な手法を用い、よく慶長末年から元和にかけての作庭であることを語っている。
さらに書院東庭を一覧すると、この池庭には中島を設け、石橋を東西に掛け、中島が亀頭石をもっていることによって亀島に作られていることが解り、東部山畔の滝の石組は鶴を兼用した石組もあって、蓬莱山水としての石組であることを語っている。
(中略)
そのやや北東部に、山畔をそのまま利用した高い滝が見られる。この滝の石組はこれまた豪華の手法をもつだけでなく、上部に石橋を架けていて、これは玉澗流の作庭であることが解る。
(中略)
この玉澗流作庭は特に石組が傑出し豪華であり、とくに滝の石組に特色がある。そしてこの付近の石組はさらに西北に続くが、やがて北部の池庭は、全く新しく、文政以後の江戸末期の作庭となり、この付近の中島や護岸の石組は弱くなってしまっているので、本寺の各時代の石組を一緒に見ることは、研究的にも良い参考となる。
(重森三玲「日本庭園歴覧辞典、昭和49年」金剛輪寺庭園より)
玄関付近 桃山時代
書院前庭 江戸初期
奥の庭 江戸中期または末期
明壽院書院
白門、西谷堂、赤門、総門
松尾寺交差点から金剛輪寺へ
山門
参道
明壽院庭園
参道坂道
仁王門
本堂
三重塔
帰路
■案内
■■境内散策
■山門(黒門)付近
■明寿院付近 明寿院は金剛輪寺の本坊である。
■明寿院庭園 庭園が護摩堂と茶室が建てられ、庭の風趣を増している。
■参道周辺 千体地蔵が真新しい前掛けを掛けてもらって迎える。
■二天門 国重要文化財
■本堂 国宝 県内天台系仏道の代表作
■三重塔
■■仏像 一部である。近江の祈りと美より引用
■木造阿弥陀如来坐像 国重要文化財
■木造十一面立像 国重要文化財
■木造不動明王立像 国重要文化財
■お前立ち
平常時は、秘仏本尊の代わりとして拝観できる。
■御本尊
本尊:聖観世音菩薩は秘仏 国重要文化財 住職一代、一回の御開帳
「生身の観音さま」と信仰され、現物に接した人は少ない。あの白洲正子さんも強く望んだが見ないで終わった。今回の御開帳では一番衆目を集めた。
青もみじと千体地蔵に囲まれて、参道を登ります。梅雨明けの厳しい暑さが身に応えます。
二天門をくぐり、形の良い本堂と三重塔を目にするとその疲れが飛んでゆきます。
堂内の仏像も見ごたえのあるものでした。
所在地 滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺874
五月の金剛輪寺参道は青葉で染まっていました。
金剛輪寺明壽院庭園(国指定名勝)金剛輪寺は、彦根市の東南方、鈴鹿山脈が湖東平野に降る山裾に位置する。
北の西明寺、南の百済寺と共に、湖東三山と称され、天台宗に属する巨刹の一つである。
当時は平安時代から鎌倉・室町時代にかけて隆盛を極めてきた。
天正の頃の織田信長勢による兵火から辛くも免れ、現在に伝えられた国宝・本堂、重要文化財・三重塔や二天門、本尊である重要文化財・木造十一面観音立像を始めとする諸仏などの寺宝が、当時の古い歴史をよく物語っている。
江戸時代に入ってからは、彦根藩および天海僧正を始めとする天台宗一門の庇護を受け寛永期から諸堂宇の修理・復興が続けられた。寛文4年(1664)山内絵図面によると堂宇は本堂を含めて七宇、坊は二四となっている。
この時期の復興を主宰したのは、明壽院の前身正泉坊である。
これら坊の内、現存しているのは、明壽院・西光寺・常照院のみであるが、山内には調査で判明しているだけでも二四の坊跡が認められ、盛時の寺容をうかがわせるに十分の景観を残している。
明壽院は当寺の本坊である。
明壽院の名称の初見は寛文13年(1673)であり、この頃、正泉坊を継いで本坊になったと考えられる。
当院は、惣門と本堂の間で下方三分の一の所に位置する。
建物としては、庫裡・書院、護摩堂(正徳元年(1711))、茶室・水雲閣(天保11年(1840))がある。
庫裡・書院は明和3年(1766)から安永5年(1776)にかけて再建され、安政5年(1858)に改築されたものであったが、昭和52年に惜しくも焼失し、翌53年に再建されたものである。
庭園は書院の東側に面し、山裾までの約15mの間を南から北へ約70mの間屈曲しながら三つの池を流れで結ぶ池庭である。
南池は、仏殿書院の南および玄関書院の東から眺められる。
池のほぼ中央に板石三枚を使って巧みに橋を架け、護摩堂寄りの斜面に三尊石風の石組を築き下している。
小規模ながら力強い景観を呈している。
池は細い流れとなって護摩堂の前を通り、水雲閣の張り出しの下から東池となる。
東池は、仏殿書院の東正面にあたり、本庭園の中心である。
正面奥に高所に段をもつ滝を設ける。
この滝のやや右寄りの池中に中島を配し、書院側から二石および一石の橋で山裾へ結ぶ。
池の南岸からは、水雲閣が高く張り出しており、中島近くの池中の石に柱を置く。
また、池の左方には、多くの石を巧妙に組んだ垂直の小高い滝を設ける。
池は再び細くなり、書院に迫る山斜面を廻り込むようにして、渓谷風の景を呈しながら北の池に入る。
この池では、北東部の山深くに滝を設け、前面の高所に板石橋を架ける。池中には笹舟様の舟石を配する。
庭園植栽については、中島への橋脇にあるアカメヤナギの古木が景趣を添えているほか、山の斜面に手際よく植え込まれたアカマツとサツキの群れが美を添えている。
なお、高所の滝石組の上部に屹立するアカマツ、スギ、ヒノキの巨木群は、狭い山容に奥深さを与えていて見事である。
作庭時期についての直接的な資料はないが、幕末における部分的な作庭の記事があること、および元禄期から作庭に造詣の深い京都曼殊院に属したことなどから類推すれば、江戸時代中期から末期にかけての書院の再建・改築に関連して作庭・改庭が度重ねて行われ、現在に至ったものといえよう。
なお、力強い庭景の南池庭や、後世の改変が困難な高所の滝石組などには、江戸時代中期以前の作庭の可能性を無視できないところもあるが、後の調査・研究を待ちたい。
部分的には修理・改築のあとがみられるが、狭長な山裾の地形を巧みに利用し、石を多用した堅固な滝石組や護岸の構造に優秀な技法をみることができる。
数度の作庭が内在する複合的な庭園ではあるが、複合しながらも全体としての鑑賞上の価値の上で優れた庭園であることから、名勝として指定し、永く保存を図ろうとするものである。
(国指定文化財等データベースより)
再び参道をよじ登って二天門へ向かいます。
(重要文化財)
室町後期の建築
桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、檜皮葺(元楼門一階)
をくぐれば正面が本堂です。本堂(国宝)
室町前期の建築
桁行七間、梁間七間、一重、入母屋造、檜皮葺
境内が青もみじで埋まっていました。
三重塔も青葉の中です。三重塔(重要文化財)
室町前期の建築
三間三重塔婆、檜皮葺この塔は初二重の骨組しか残存せず加えて破損・腐朽も甚しいが、かつて三重塔として建立されたことは明らかである。
中世の三重塔が限られている現在、不完全とはいえ、二重までをほゞ遺存しているこの塔は貴重な存在である。
(国指定文化財等データベースより)重文指定は昭和47(1972)年ですが、その頃はデータベースの記述のとおり朽ちて二重だったのかもしれません。
修復により現在の形になり、最近も屋根の葺き替えを行ったばかりです。
A camera
B camera
愛知郡秦荘町松尾寺874 天台宗金剛輪寺は、湖東三山の真ん中に位置し松尾寺とも呼ばれている。
国道307号から分かれた県道筋に惣門が建つ。
北の西明寺、南の百済寺と共に、湖東三山と称され、天台宗に属する巨刹の一つである。
登り勾配の参道を行くと、左手に現在本坊になっている明寿院(みょうじゅいん)があり、その先両端にはかつて幾十もあった坊舎の跡が続き、最後に急な石段を登ると二天門に達する。
その奥の平坦地の正面に大きな七間の本堂が建ち、その左手奥に三重塔が建っている。広大な寺域を有し樹木があふれる。
惣門から子院跡の石垣の間に延びる石畳の道には、手のよく入ったツツジの低い刈り込みが続く。
参道の両脇には真新しい前垂れの掛かった千体地蔵が延々と並ぶ。
他の二山とは異なった優しさが感じられる参道である。
だが、本坊を過ぎた所辺りからは、凹凸のある石段道となり、本坊から伽藍までの距離は三山の中で一番長い。
全山に楓の木が多く、紅葉のシーズンは最高の景観を呈するが、青葉の頃も堪らなく清々しい。寺伝では、天平13年(741)に行基が開祖した聖武天皇の勅願寺で、いまも伽藍の本堂を「天平大悲閣」と呼んでいる。
古来より当地方に勢力を張っていた依智秦氏がその創建に関わっていたとも考えられる。
平安初期の嘉祥年間(848〜50)に、比叡山の慈覚大師円仁が中興し、天台の道場として以来、天台宗となった。
鎌倉時代を中心に寺運隆盛であったことが、現在に残る仏像や建築でわかると共に、当時の古い歴史を物語ってくれる。
中世には近江源氏佐々木氏の厚い崇敬を受け最も盛況を呈し、多数の坊舎が甍を並べていた。
応仁の乱後の戦乱で衰微し、信長の焼き討ちに遭ったが、幸いに寺僧の機転で本堂、三重塔、二天門などは被害を免れ今日に至る。
江戸時代に入ってからは、彦根藩及び天海僧正を始めとする天台宗一門の庇護を受け寛永期から諸堂宇の修理・復興が続けられた。
寛文4年(1664)山内絵図面によると堂宇は本堂を含めて七宇、坊は二十四となっている。
これら坊のうち、現存しているのは、明寿院・西光寺・常照院のみであるが、調査で24の坊跡が確認されている。
惣門
その名のように一山の総入口にあたる。通称黒門とも呼び、天保7年(1836)に改築された。
大工は大津坂本中西長蔵、木挽は犬上郡川相村木下経右衛門である。
惣門の左に下馬標、右側に石灯篭がある。
参道のツツジ
惣門から本堂までの参道の距離は約400mである。
現在の参道はかつての北参道であり、正式の表参道は、南谷から大門に上がる南参道で、その登り口を坂口といった。今の松尾寺南である。
一山の主権が南谷から北谷に移った江戸中期頃から現在の北参道が表口に変わった。
天保6年(1835)西谷堂から惣門までの参道が整備され、両側の石垣上に土塀が築かれ排水の溝が掘られた。
その後明治末に土塀が取除かれ、ツツジが植えられた。
往古は参道の両側には、各谷に属する坊舎が軒を並べていた。
華楽坊
参道の左側奥に建つ。楓にかこまれ静かである。食事を提供している。
さらに参道をすすむ。紅葉が美しい。まもなく本坊となる。
本坊の入口門
本坊玄関棟
本坊
国名勝指定
明寿院は当寺の本坊である。
建物としては、庫裏、書院、護摩堂、茶室・水雲閣がある。
庭園は書院の東側に面し、山裾までの約15mの間を南から北へ約70mの間屈曲しながら三つの池を流れで結ぶ池庭である。
南池は、仏殿書院の南及び玄関書院の東から眺められる。
池のほぼ中央に板石三枚を使って巧みに橋を架け、護摩堂よりの斜面に三尊石風の石組を築き下している。
池は細い流れとなって護摩堂の前を通り、水雲閣の張り出しの下から東池となる。
東池は、仏殿書院の東正面にあたり本庭園の中心である。
正面奥の高所に段をもつ滝を設ける。この滝のやや右よりの池中に中島を配する。
池は再び細くなって北の池に入る。
この池には滝を設け、板石橋を架け、池の中に笹舟様の舟石を置く。
山裾の凹凸を美味く利用して、心字形の池泉を巡らせた廻遊式庭園である。
入口部分から南庭。
中央庭・北庭と分かれ、桃山期から江戸中期ごろまでに作庭され、それぞれ趣を異にしている。
アカムヤナギの古木の趣き、アカマツ・サツキの群れ、スギ・ヒノキの巨木群、などが園内に美を添え、奥深さを感じさせる。
石の巧みな配置、多種の刈り込み、借景など四季の変化に富んでいる。
石造宝篋印塔が南庭の池泉にかけられた自然石の橋を渡った所にある。
総高1.71mの花崗岩で、鎌倉時代のものである。
5月にはこの塔を囲んで石楠花が咲き乱れて美しい。
茶室水雲閣
本坊明寿院の庭園の右手の少し高いところに茶室水雲閣がある。
この茶室は文政3年(1830)年往持光格僧都のときに建立された。茶室の天井格子には、四季の草花36種類が描かれているようで、茶室の雰囲気をより趣きのあるものにしているとのこと。
この茶室からの庭園の眺めが見事とされる。
境内の紅葉はもう終わりを迎えている。わずか残った枝葉が陽ざしに照らし出されて輝いていた。燃える最後の舞台を演出していた。
本堂
国宝:建造物:指定 1898 12 28:
桁行七間、梁間七間、一重、入母屋造、桧皮葺、附 厨子 1基
本堂は天平大悲閣ともいわれ、七間七面の豪壮な大堂である。
単層入母屋造の総桧皮葺。内部は内陣と外陣に分かれ、内陣の天井は山型の化粧屋根裏で、外陣は棹縁天井と異なっている。
内陣との境は吹寄菱格子の欄間と格子戸である。
内陣には大きな須弥壇を置き、その中央には入母屋造・桧皮葺の厨子があり、秘仏の本尊聖観音立像を安置されている。
国宝の本堂の建築年代は、須弥壇の束金具に刻まれた弘安11年(1288)、鎌倉時代である。
また、寺蔵の「金剛輪寺本堂並本坊什宝記」によると、弘安4年(1281)の元の來冠に際して、その撃退を祈って冥益を蒙った感謝のために、そのときの近江守護の佐々木頼綱が再興したといわれる。
本堂横の紅葉は「血染めの紅葉」と呼ばれ、朱色の鮮やかさで有名である。
本堂内部
二天門
国重要文化財:建造物:指定:1961 03 28 建立:1572
桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、桧皮葺(元楼門一階)
惣門から約400mの参道を登りつめて、最後の45段の急な石段をあがったところに建っている。
単層桧皮葺で桁行四間梁行二間の二天門は、室町時代に建立された。左右に増長・持国の二天を安置している。
さらに、信者が奉納した長さ2.5m、重さ55kgという大わらじが出迎えてくれる。
国重要文化財:建造物:指定:1972 05 15 建立:1392
三間三重塔婆、桧皮葺 附 旧相輪部分 14個
本堂に向かって左側のやや小高い所に三重塔(待龍塔)が勇姿を見せている。
初重と二重の一部だけの塔であった。
この塔は寛元4年(1246)の創建と伝え、昭和49年(1974)から復元を含めた大掛かりな解体修理工事が実施され、昭和53年(1978)完成した。
これによって本堂・二天門・三重塔といった伽藍配置が出来、一段と景観が重厚なものになった。
鐘楼
国重要文化財:梵鐘:
本堂に向かって右手の鐘楼にある。
梵鐘には造鋳を示す長文の刻銘があり、鎌倉時代の鋳造であることが分かる。
宝塔:鎌倉前期
花崗岩
本堂の前を南に入り、急斜面を登ったやや平坦な所の乱石積みの二重土壇上に建っている。
現高260cm、相輪が九輪の三輪目まで残っている。完全であれば総高330cmで、宝塔としては巨塔である。
基礎は四つの石を「田」の字状に組み、側面は各面輪郭を二区に分け、それぞれ格狭間を入れ、内部はすべて素面である。
格狭間の花頭曲線は梁がある。輪郭一杯に彫出している。
塔身は軸部・框・首部を一石で彫形し、鳥居部は大ぶり、框は薄い。首部は極めて高く、その上下端と中央に突帯を巻き、上下二区に分け、縦帯12本で上下を区分している。珍しい勾欄形である。
笠は露盤を作らず、軒下は別石造りの三段を入れてある。屋根は四隅に降棟を刻出し、勾配が急である。
近くの西明寺嘉元2年塔の塔身と構造が同式である。
仏像関係
いずれも国重要文化財である。
十一面観音立像・大国天半跏像・阿弥陀如来坐像・不動明王立像・慈恵大師坐像金剛輪寺の石積
目立った大きな石垣は少ない。参道に見られる石積が圧倒的に多い。比較的小粒な自然石がきっちりと埋め込まれており安定している。
随所に高低差や凹凸、曲がりがあって、これが自然らしさと歴史を感じさせる。
湖東三山には石の造りが非常に多い。その目的は各々違いがあろうが技術の存在があって成しえたといえる。
観音寺城に石垣を構築するに当たって、武家側にはそうした技術がなく、寺側にあったため、その技術の提供を寺側に求めた。
金剛輪寺文書「下倉米銭下用帳」には、技術供与した内容が記載されている。また、観音寺城の築城技術は百済寺の要塞造りに
活かされたとの報告がある。石垣技術が段階的に発展していった。。それらが信長の安土城築造につながってゆく。金剛輪寺の現参道沿いの石垣は、平均的な大きさ0.5〜0.8mの石材が使用され、丁寧な面取りで、目の詰まった構築になっている。
おそらく江戸時代にし直したものだろう。
東谷の石垣、ほとんど無加工とみられる純自然石横位整層積も間隙が目立っている。
金剛輪寺坊跡分布図
湖東の主要寺院位置図
参考文献≪滋賀県石造構造物調査報告書、近江湖東三山、滋賀県歴史散歩、滋賀県の近世社寺建築、ほか》
1st camera
2nd camera
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