滋賀県愛荘町 金剛苑 手織りの里
Kongouen,Aisho town,Shiga
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July 28.2015 中山辰夫
愛荘町蚊野外514
金剛苑のある、蚊野外周辺には今も5〜6世紀に作られた古墳が多く残っている。
“鈴鹿の山麓、湖の東に拓けるこの地は、古来、渡来人の代表として、京都太秦の広隆寺を造営したことで有名な秦氏が、応神天皇の5世紀頃多数の人民を率いて来朝し、未開拓地に先進的な土木・灌漑技術で土地開発を行い、農耕をもとに養蚕、機織りの技術を教えたのが始まりとされる。
「秦氏」の傍流—依知秦氏は愛知川流域で大きな勢力を持ち、湖東の秦氏一族(朴市秦、依智秦、など)の中心に立った人物で、ゆえにこの金剛上蚊野古墳群は、秦氏一族の墳墓とされる。
依智秦の里古墳公園
終戦直後までは300基ほどの墳墓が存在していたが、その後の圃場整備事業で処分され、一部が古墳公園として残されている。
彼らが伝えた織機の技術が着実に定着し、中世には麻布の生産が浸透、その織物は近江の特産物としての地位を確立した。
江戸期の彦根藩は農家の副業として生産の奨励・保護を行い、主要な地場産業に育てた。
江戸後期から末期にかけて、五個荘を中心に能登川、愛知川沿いの愛荘町や豊郷町などから出た湖東商人・五個荘商人の活躍で全国に販路が拡大、「近江上布」の名声が高まった。
明治に入ると、明治新政府の近代的な経済・産業基盤の形成に大きく貢献した。わが国の繊維産業の基礎は湖東商人によって築かれたともいわれる。
大坂紡績(株)の薩摩治兵衛、金巾製織(株)の阿部一族と田附政次郎・藤井善助(五個荘)、東洋紡績の阿部房二郎、江商の北川与平など日本の繊維業発展の初期を担った面々は湖東商人であった。投資活動にも積極的で、治田鉱山、東京銀行、小名木川綿布会社、金巾製織、富士紡績、などの設立に大村彦太郎・小林吟治郎・小林吟右衛門、などの湖東商人が加わった。
湖東商人の子孫は、現在でも「市田」「外与」「ツカモト」「チョーギン」など、京都・大阪・東京に支店網を展開している。
金剛苑
麻を原料とした平織物の「近江上布」は昭和52年に伝統的技術、技法、品質が認められ国の伝統的工芸品の指定となり、合わせて上布技術の伝承による秦荘紬も県の指定を受けた。
これを機に約2万㎡の苑内に、伝統的に使用されてきた麻、藍草の栽培、養蚕と共に、往時を偲ぶ資料館、金剛庵、染色工房、休憩館を配し、手織りの展示実演や手作り等を通じて、主要な地場産業となった経緯を伝える施設として開苑された。
古い学校校舎を利用した休憩館
織物資料館
織物の材料から機織り機等の道具類をはじめ、製品の資料を展示している。
生活資料館”金剛苑“
昔の暮らしぶりに触れられる様に、ヨシ葺き屋根の民家を公開している。
染織工房
現在でも近江上布・秦荘紬を製作している工房。伝統の櫛押し染め、整経など工程を見学出来るほか、研修制度も設けている。
藍染め
藍瓶を設置。天然藍で発酵している。管理が難しい。
藍染めは日本の伝統的な染色技術で、天然の蓼藍(たであい」)を原料に染められるものを「本藍染め」と呼ぶ。
近江上布と藍染めは、優れた伝統技術と鈴鹿山系から流れ出る豊富で上質の伏流水によって培われたものといえる。
愛荘町蚊野外514 手織りの里金剛苑は5000坪と広い。
苑内には資料館、庭園、桑園があり、伝統的工芸品の近江上布、秦荘紬の資料保存、技術技法の伝承と麻・藍の栽培、養蚕・天蚕の飼育、糸から織物までの過程が見られる。
また、本藍の結び染めの体験も出来る。技術指導を含めた研修の場として利用される。
近江上布や泰荘紬の特性や美しさを、資料や実演を通して伝える施設である。
苑内で栽培された藍草を使って織糸の藍染めから見学することができ、織り方の体験もできる。資料
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