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滋賀県愛荘町 豊満神社

Toyomitsujinja,Aisho town,Shiga

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愛知郡愛荘町豊満392 豊満神社四脚門 重文 近世以前/神社 鎌倉後期 元亨3(1323) 四脚門、入母屋造、檜皮こけら鎧葺 19020417


July 29,2023 大野木康夫 source movie

四脚門(重要文化財)
                                      

その他境内
      


Jan.2014 中山辰夫

滋賀県愛知郡愛荘町豊満392 豊満神社の細部資料・・・「近江愛知川町の歴史」より引用

                       


Dec.2012 大野木康夫 source movie

撮影 Nov.2012 所在地 滋賀県愛知郡愛荘町豊満392 豊満神社は愛荘町の愛知川地区、町役場から少し東に行ったところに鎮座しています。

(重要文化財)

元亨3(1323)年の建築

四脚門、入母屋造、檜皮こけら鎧葺交通量の多い通りに面しています。

通りを挟んで南側は社叢です。

彩色が鮮やかです。

                        

 境内各所

         


Jan.2011 撮影/文:中山辰夫

愛荘町愛知川豊満392

祭神:大国主命・仲哀天皇・神功皇后・応神天皇

祭礼:4月11日(4月第二日曜日)近江鉄道愛知川駅南約2kmの所にある。古代の大国荘の氏神であった。

境内地は約22000㎡の広さで、巨木が境内・社殿をすっぽり囲んでいる。信仰心の厚い集落に維持されている様子が判る。

南北朝時代にすでに「愛知郡総社」と呼ばれたほどの屈指の大神社で、郡内にも末社が多くある。

大国庄を開拓した愛智秦氏の祖神豊幡武尊を祀るという伝承がある。

古くから「旗の宮」「幡の宮」と呼ばれ、この由来は豊幡武尊が神功皇后の「新羅遠征」の際、日本軍の軍幡を始めて作った所だからという。

別には、「ハタ」は秦氏の秦に通じ、「東大寺文書」などの資料にも、「依智秦君(えちのはたきみ)」という名が出ており、この社が古代文化の中心だったと思われる。

源氏、佐々木氏らは軍旗にこの社の竹を用いた。

四脚門は国重要文化財である。

拝殿・本殿以外に、祝詞舎・中門・神饌所・神宝庫・神輿庫・祭器庫・手水舎・社務所

                    

創祀年代は詳かではないが、この地開拓の依智秦氏が祭祀したと伝えられ、社伝の棟礼に「延長8年11月豊満権現造替云々」とある。

縁起によれば神功皇后三韓征伐の際軍機の守護神として霊威があったということで、以来当社の神林の竹幹を旗の竿に用いると、戦勝があるとして、競って幾多の武将が篤く崇敬した。

皇室の尊敬も亦篤く、三条天皇は勅願社として神位を授けられたり、藤原俊成卿や嘉吉3年の中御門宜胤卿の神額奉納があった。

鎌倉以降近江守護職佐々木氏をはじめ京極氏、六角氏等、武運長久を祈願し神領の安堵状を寄せている。

その後織田氏の兵火に罹り、その都度復旧したが、安政元年正月本殿以下火災に遭った。しかし四脚門は難を免れた。

万延元年に社殿を復興し現社殿がこれである。

明治初年明神号を改めて豊満神社とし同9年村社に、同14年に郷社に列し、同41年神饌幣帛料供進指定となり、同43年氏子区域内の各社を合祀、昭和5年県社に昇格した。

四脚門

国重要文化財 鎌倉時代の建築

形式は本柱の前後に4本の控柱(ひかえ)があることから四脚門と呼ぶ。屋根は入母屋造で、材料の檜皮と柿板(こけら)を交互に葺いた「よろい葺」工法を施す。

建物は太い柱で力強さと安定感を持たせるが、反面組物は繊細なつくりで、巧妙な均整美を作り出している。

つよくした軒反りと緩やかな購買の屋根のバランスも微妙とされる。

        

拝殿

切妻造 間口七間 奥行四間 出会いの少ない形式である。

拝殿には天保7年(1836)から昭和10年(1935)まで大小17もの奉納俳諧額がかかっている。2以上のものが大半で、額の大きさ掲載句数の多さは特筆される。

        

中門・幣殿・本殿(三間社流造 間口三間三尺 奥行三間)

        

境内社・樹下神社

本殿のすぐ西に立つ小規模な社殿である。本殿に比べ、高欄を受ける組物や妻飾彫刻などの装飾が目を引く。

小規模ながら意匠に優れた建物である。

       

宝殿(校倉造)と境内林

     

祭礼:4月11日

 

社宝

 

神社頭 (2月11日)

2月初午の日 氏子の下之郷の大字市と天守とが、1年交替にて頭人を定め、神社に参拝する。

頭人は黒衣を着て千力餅と称する小餅365個と神酒と鯣を供える。365の数は、一年三百六五日の日供を一時に供えるというもので、この餅を食べると妊婦は安産を得るとして、大変喜ばれている。神功皇后三韓征伐時の軍機

近江、越前地方の伝承によれば、仲哀天皇9年(200)秋、新羅と伝えられている渡来人の大船団が敦賀湾に来襲した。

志賀穴穂之宮(大津市安太町)にいた神功皇后は本土自衛のため迎撃すべく、湖上を船で進み、岡水門「びわ町早崎」から高時川をさかのぼり、速吸門(湖北町水門)の「陣の森」に本陣を設けた。

一方、参謀武内宿弥の率いる陸上進撃部隊は東山道(中山道)を進み、愛知川を渡り、大国庄の豪族・豊幡武尊の提案を取り入れ、付近の竹を切って青・黄・赤・白・黒の五色五本の軍旗をつくった。

武内宿弥は敦賀湾北部五幡の五幡山に、この五色の旗を立てた。だから今でも五幡。五幡山という。

古事記によると、船をかついで刀根坂を越え矢田野「敦賀市麻生」愛発「同士疋田」で敵軍を破り、立石半島。常神半島に逆上陸して新羅軍を敗北させたといわれる。

参考資料《愛知川郡志、滋賀県神社誌、近江愛知川町の歴史、他》

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