滋賀県近江八幡市 安土城跡
Azuchi castle,Omihachiman city,Shiga
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近江八幡市安土町下豊浦6367 摠見寺三重塔 重文 近世以前/寺院 室町中期 享徳3(1454) 三間三重塔婆、本瓦葺 19010327
近江八幡市安土町下豊浦6367 摠見寺二王門 重文 近世以前/寺院 室町後期 元亀2(1571) 三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺 19030415
June 14,2016 中山辰夫
安土城郭資料館
近江八幡市安土町小中
JR安土駅に降りた瞬間から、駅前広場には安土城を想わせる雰囲気が漂う。安土城郭資料館もその一つである。
案内図
地下道を渡ってJRの南側に行く
安土城は、金箔瓦をいただき、外観5層内部7階で、内部は狩野氷徳の襖絵や異国文化の調度で飾られていた豪壮華麗な城といわれ、本格的な天主閣をもった初めての城である。
城郭資料館には、内藤 昌氏考案による移動分割式の安土城復元模型が設置されており、実物の20分の1の大きさで再現されており、真中で分割されて内部が見える構造になっている。
『安土の宮殿は近くから見上げると、山の斜面を覆う繁みごしに、青い瓦屋根をそらせた七層の巨大な塔が、黒塗に黄金の窓飾りをつけた城廓の建物の上に、壮麗な姿で聳えたっていた。山頂近く巨石を積み上げた石塁のうえに、銃眼をうがった眩しいほどの白い胸壁が宮殿の外廓をくっきりと際立てていた。(安土往還記)
真中で分割されて内部の構造が見える。
天主部分
『最上階に出たが、そこからは、青い屋根を縦横に組み合せた、目覚めるばかりに美しい城廓の建物全体が、安土山の木立にかこまれて、一望のうちに眺められた。…人が市場に集まり、入江で船をひき、建築場で働いている姿が豆粒ほどに望まれた。(安土往還記)
外観部分
断面〜内部
『室内の柱はすべて黒塗で塗られ、黄金の金具で飾られていた。重厚な格天井はその区劃ごとに見事な天井画が描かれていた。・・』
参考図 「引用:復元安土城 内藤 昌」
安土城天主復元 南立面図〜東立面図
北立面図・西立面図
南〜北断面図・東〜西断面図
外人教師ルイス・フロイス(1532-1597)が本国に送った書簡に書いたことで、ヨーロッパ中に紹介された。
『中心には、彼らがテンシュ(天守閣)と呼ぶ一種の塔があり、私たちの塔より気品があり、壮大な建築である。この塔は七重からなり、内外共に建築の妙技を尽くして造営された。
内部は、四方に色彩豊かに描かれた肖像たちが壁全面を覆い尽くしている。 外部は、階層ごとに色が分かれている。あるものはこの日本で用いられている黒い漆塗りの窓が配された白壁であり、これが絶妙な美しさを持っている。ある階層は紅く、またある階層は青く、最上階は全て金色である。
テンシュは、その他の邸宅と同様に我らの知る限りの最も華美な瓦で覆われている。それらは、青に見え、前列の瓦には丸い頭が付いている。
屋根にはとても気品のある技巧を凝らした形の雄大な怪人面が付けられている。)
一階には陶版の安土・南蛮図屏風 陶板壁画も展示されている。
安土城
安土城下
京都
長崎
二階コーナー
摠見寺
近江八幡市安土町
安土山全景
大手道付近
連休の期間は大勢の人が訪れた。
伝羽柴秀吉邸
摠見寺仮本堂入口
摠見寺仮本堂は安土城大手道を挟んで、伝羽柴秀吉邸跡の向かい側、伝徳川家康邸跡に建てられている。
信長公350回忌を機に1929(昭和4)年に宮内庁より京都御所の一部を賜り改築されたもので、1933(昭和8)年に完成した。
仮本堂内拝観
各部屋には、近代作家の襖絵が見られた。
本尊 「引用」
織田信長公坐像「引用」
信長公蛇石曳之図「引用」
その他意匠
茶室と庭園
摠見寺は、織田信長によって安上城内に創建された本格的な寺院です。
天主と城下町を結ぶ百々橋口道の途中にあるため、城内を訪れる人々の多くがこの境内を横切って信長のところへ参上したことが数々の記録に残されています。本能寺の変の直後に天主付近が炎上した際には類焼をまぬがれることができましたが、江戸時代末期の嘉永7年(1854)に惜しくも伽藍の中核部を焼失してしまいました。その後、大手道脇の伝徳川家康邸跡に寺院を移し、現在に至るまで法灯を守り続けています。(解説文)
信長一周忌の法要を京都の大徳寺で終えた秀吉は、伝二の丸跡に信長の墓を建立した。安土城に信長が建立した摠見寺に対し信長の墓と聖地安土城跡を守り続けることを決めた。そして、その住職は代々織田家の者がつとめることとした。これについては摠見寺に出された朱印状や寺伝でわかる。
この意志は徳川幕府十五代の間も守り続けられた。徳川幕府は織田家を高家(こうけ)として扱い寺を支えた。織田家一族は50年おきに安土城に会して法要を営み、その度に参詣道や石垣の修理を行った。
信長の建てた摠見寺は落雷で焼失したが、摠見寺は今も仮本堂で秀吉の申しつけ通りに信長の菩提や聖地である安土城を守り続けている。
旧摠見寺の構造
摠見寺は、信長が大叔父である犬山城主織田伊勢守信安の三男正仲剛可または津島牛頭天王社堯照法師を迎えて建立したと伝えられる。
創建当時には裳階付三間仏殿の本堂、方丈庫裏、鐘楼、熱田社、三重塔、楼門といった伽藍を有していた。すべてが移築で行われた。
摠見寺跡遺跡平面図 「引用」
伝百々橋口道から本堂の前を通らないかぎり山頂の城には迎えない。これは摠見寺が城の防衛的機能を果たすよう計画されていた。
百々橋口道周辺 現在は通行止めになっている。
仁王門 (楼門)
創建時のままとされる。国重要文化財 棟札の墨書から1571(元亀2)年に建てられたどこかの寺院の門の移築である。
甲賀武士山中俊好建立とある。屋根は入母屋造、本瓦葺。
金剛力士像 国重要文化財 東部の内側に1467(応仁元)年因幡院朝作の造像銘がある。信長が天正年間に甲賀より移した。木造、彩色、玉眼
阿形力士像
吽形力士像
三重塔
創建時のままとされる。国重要文化財 室町時代の建物
心柱の墨書銘から1454(享徳3)年に建てられたもので、信長が甲賀攻めの時に長寿寺から移築したとされる。
旧伽藍跡
堂は低い段から順に、庫裏、書院、そして中央の最も高い位置に本堂の基壇が遺されている。伽藍は南を向いて建てられていたようです。
参詣道
百々橋口から石積みの続く参詣道 登城道を兼ねていた。
摠見寺跡から見る琵琶湖(西の湖)
何時も身近に見てはいたが、登ったのは5年振りであった。城址内は整備され、一通りの検証も終わったのであろうか。
2006(平成18)年から入山が有料化(500円)されている。「百々橋口道」と「大手道」の二つある登り道は、大手道のみ許可されている。
大手道の石段の麓からは摠見寺の境内地になる。現在、三重塔(国重文)近くの石垣に崩れが起こっており、二王門には行けなかった。
安土山遠望
百々橋(どどばし)付近
「安土城址」の碑は徳富蘇峰の手による。
大手道へ行く手前にある西虎口
直線で進む大手道、道幅約7m、その両側に幅1mの立派な石積側溝が作られており、この道が特別な目的で作られたことを示している。
城内の郭には家臣の屋敷地として名前が付けられているが、これは江戸時代の絵図をもとにしたもので、確実な証拠は何もない。
石段を上ってすぐ左側の郭が伝羽柴秀吉邸跡 奥まで公開されている。
右側の郭が伝前田利家邸跡 虎口のみの公開である。
伝羽柴邸、伝前田邸跡を過ぎると、道の右側に摠見寺の建物が見える。摠見寺は信長が安土城内に建立した寺院で、現在まで信長の菩提を守り続けている。
元はこの場所でなく、百々橋口道上にあった。幕末に火事で主要建物を失い現在の場所に移転した。元々この場所は徳川家邸宅跡であった。
摠見寺
非公開であったが、最近は天気のいい土曜日・日曜日のみ公開している。普段は樹木が取囲みで殆ど建屋は見えないが、この時期は枯木立で見通しがきく。
摠見寺(伝徳川邸跡」の真向かいが伝羽柴秀吉主殿跡とある。
石段には石仏も使われている。
ジグザグの道に入る。横道七曲り状部で石がギッシリと積まれている。登り切った所の平坦部は絶好の展望スポットである。
祐筆をつとめた武井夕庵の邸宅跡
ジグザグ坂を上る途中にある。武将であると共に茶人であっただけに、屋敷内には池や流れの跡らしきものが見られる。向かい側は伝織田信忠邸跡。
左右に道が分かれ、左へ行くと三重塔・仁王門、右へ登ると二の丸から天守跡にでる。いよいよ本丸・天主へ向かう。
伝織田信澄と伝森蘭丸の邸宅跡を過ぎて進むと黒金門跡につきあたる。
黒金門跡
この辺りの石段と石垣をじっくり見る。荘重の美がまことに素晴らしく、登る度に魅かれる。一目で要塞とわkaru.
織田信雄4代の墓地
黒金門を入ってすぐ左手に「伝長谷川邸宅跡」とされる場所に建つ。
仏足石
白鳳時代この地にあったとされる安土廃寺(廃九品寺 はいくほんじ)のものであろうとされる。
伝二の丸跡に信長公本廟
信長の墓としては簡素過ぎるが、木陰に眠る廟塔は、武将を偲ぶにふさわしい有様である。
信長の死後百年後には存在していたとされる。摠見寺によって50年毎の遠忌供養が催されている。
伝本丸跡
伝本丸跡と天主跡は1940〜41(昭和15〜16)年に発掘調査が行われ、建物跡が見つかった。
天守への登り道に建つ
伝本丸跡の北辺に小さな石段がある。それを登ったあたりから見る遠景と天主台に続く石段道。
天守跡
1576(天正4)年に丹波秀長を総奉行として工事が始められ、3年の歳月を経て日本最初の五層七階の天守が聳えた。
その豪華さを偲ぶ礎石は四角の石垣の内側に、八角形の天守の礎石が並んでいる。
周囲を固める土塁とその上から見る遠景
当時、琵琶湖が真下にあった。
■天守跡からは、八角平から黒金門跡にもどり、摠見寺本堂跡へ行く。摠見寺本堂跡はやや高い台地に建っており、その途中は杉木立に囲まれた薄暗い石段道である。黒ずんだ石が編んだ鎧ように整然と並ぶ姿がいい。
中ほどまで登ると頂上がパーと明るく輝く。この暗と明の切り替えがいい。それを石段が演じている。お気に入りの場所である。
摠見寺本堂跡
遠景が素晴らしい
三重塔と仁王門、会勝寺 石部神社
三重塔
国指定重要文化財
旧摠見寺境内、本堂の左側に建つ。百々橋口道半ばにある二王門からは数十段の石段を上る。築後560年経過の塔である。
概要
三重塔は心柱の享徳3年(1454)の墨書銘によって造立年次がわかるとともに、安土城築城年代より古いことから移築された建物であることが裏付けされている。
この三重塔の平面寸法が、甲賀郡石部町の長寿寺三重塔跡の規模に合致することから長寿寺から移築されたものと推察されている。
構造
三間三重塔婆、屋根本瓦葺。初重平面の柱総間は3.89mの方形、総高は20m。
各重とも中央間に扉口をつけるが、両端間の盲連子窓は初重のみにあって二、三重は省略している。初重各面の組物の中備えには蟇股(かえるまた)をいれて、伝統的な意匠のなかにもはなやかさを加味する。
初重内部は四天柱から前方の2本を省略した来迎柱(2本)形式とし、来迎壁をもうけ須弥壇にするなど発達した手法をしめす。
この塔の前身(長楽寺)は常楽寺に近隣しており、常楽寺三重塔よりは規模は小さいが、全体の比例とか細部の意匠に共通点を見ることが出来る。
二王門
国指定重要文化財
二王門は三重塔より百々橋(どどばし)の石段を数十段降りたところにたつ。
棟木の墨書銘によって1571(元亀2)年に建てられたことがわかるとともに、三重塔とおなじように築城にあたって、長寿寺から移建されたものとされる。
屋根は入母屋造の本瓦葺。正面の柱間数3間の中央間に扉をつけた2階建の門を、三間一戸楼門というが、脇間に金剛柵を設けて金剛力士像を安置することから二王門と名づけられている。
二王門、金剛力士像いずれも国重要文化財。石垣崩れで通行禁止の為に近づけなかった。平成5年と9年に訪れた際の写真を載せる。
百々橋口道からの登りは平成5年頃までは通行OK。三重塔側から二王門までは数十段の石段道である。
金剛力士像
国指定重要文化財
安土山麓には、安土城以前から会勝寺と石部神社があった。安土城登城口であり、摠見寺参道へ続く百々橋口道の石段を登ると境内につながった。
■会勝寺(えしょうじ)
宗派:天台宗
百々橋口にある。東南寺の末寺であった。秘蔵の木造千手観音立像は平安時代の作で、国重要文化財。年2回のみ開帳される。百々橋口道に石段で繋ぐ。
■石部神社
延喜式内社である。参道は百々橋口道の石段道を上る。会勝寺から僅か離れた所にある。百々橋口道は石部神社参道までで、その先は通行禁止である。
この参道は石部神社への登り口までしか行けない。後は禁止。
厨子入木造薬師如来坐像:国重要文化財である。
平安時代の作で、小像ながら截金模様が施こされていて12世紀の作とされる。
会勝寺・石部神社の像は、白鳳時代この地にあったとされる安土廃寺(廃九品寺 はいくほんじ)のものであろうとされる。
参考資料≪仏像の写真は仏像集成(滋賀)より引用≫
夢、幻の如く—安土城 信長が残した石段・石垣・石畳
大手道に立ち、安土城址(国特別史跡)を見渡す。木立ちの幹越しに見える神々しくも金色に慄然と輝く天主。
前方の大手道の両側には境となる石塁が壁をなし、甍を戴いた立派な屋形の周りを石垣が守る。
天主への道はゆったりと続き、家来たちは威風堂々と正座し、主君の登城を待っている。
瞬間、時代絵巻の想像図が頭の中をよぎる。まさに「石の塊のお城」という印象だ。
山に突き刺さるように一直線に延びる石の道。穏やかな勾配の上り坂。石もキッチリと並んで座っている。道幅6m、長さは180m。両側には1m幅の側溝、これが大手道の堂々たる姿だ。
掘り出した石を使い、復元された道 とはいえ、割石の綺麗な野面を選んで積まれた石段は、表情も豊かだ。ただ、石段の間隔幅が1m程と広く歩きづらい。信長はこれで平気だったのか。
この道は天皇行幸を目的としていたとのこと。駕籠の行き来を想定した間隔のようだ。この大手道周辺には、安土城築城の統べての技術が、結集されているように思えた。
大手道の下り
大手道の上り
大手道の側溝
山の勾配に沿ってジグザグに屈折する形で石を使い、石段の奥行も歩幅に近く傾斜にもピッタリと揺るぎない石の配列に驚く。小石一つの使い方、工夫が隠れた所にも生きているようだ。
各々の石の造りには役目があって、それがキチンと果たされており、石が見事に生かされている、そんな空気をひしひしと感じた。
ギッシリ敷き込まれた石と石
少し進むと黒金跡(くろがねもん)となる。いよいよ城の要所となる。巨大な石を組み込んだシャ—プな稜線をもった石垣。その配置の見事さ。そしてその道を繋ぐ石段。各々の石造りには役目があり、それがキチンと果たされていて見事に石が生かされている。そんな空気をヒシヒシと感じる。
要塞の風格を感じさせる
天主跡を見終え案内に従って進む。杉木立に囲まれた薄暗い石段に出会う。黒っぽい石が編んだ鎧ように整然と並ぶ姿に見惚れる。
半ばほど登ると頂上がパーと明るく輝く。この暗と明の切替えがいい。それを石段が演じている。
登った所が摠見寺跡。台地になっていて広い。琵琶湖もまる見えだ。
その道の部分に幅1mほどの石敷きが30m以上続く。厚さ約15cmの石を一列毎に三個並べられている。それらはドッシリと落ち着きはらって坐っていた。
右側が摠見寺、左側は三重塔。塔は今も凛として建つ。その横の石段から下の方向きに仁王門が見える。
整然と並ぶ石段と空間の輝き、大寺院の佇まい、直線に走る敷石、三重塔(国重文)これらすべての配置の妙が堪らない。
やっとの思いで登って来た人たちを癒す美観
狭いのでは?と思わせる石道
明と暗の光の−ハ−モニ−を演出する石段
登ってきた仁王門からの石段もなかなかのものだ
最近になって通行禁止となった百々橋道(どどばし)。かってはこの道が登城にも参詣にも使われた。天主と城下町を結んでいたその道は石段に次ぐ石段の険しい道だ。
入口付近は特別に急峻で聳えているようで登りづらい。その後は少々緩やかになりトントンと同じ調子で上り下りできるが休む所がない。
4ケ所程カ—ブを曲がれば仁王門(国重文)が見えホッとする。ここまでは約390段。今では滑らかな石の表面も当時は角張り・凹凸ありで危険であっただろう。
その石段も多くの人の足に踏まれはしたが、今も頑丈なまま残っている。登り口は特に荒々しく巨石が並ぶ
日も通らない真っ暗な箇所もあった。
仁王門が見え、ホットとする瞬間
日本最初の超高層ビルとして昭和43年(1968年)、華々しくオ—プンした霞ヶ関ビル。高さ147mだった。安土城の天守閣は標高158mともいわれ、世界に誇る木造高層建築物だった。しかも3年有余で完成させた。
寄せ集めの労力・道具・材料で着工し、新たな技術を集積し、成果を得た英知と努力には頭が下がる。
安土城はその後の城郭建築に大きな影響を与え、「石の城」へ移り変わる契機となった。
「石段の安土城に至るまで」に興味を覚えつつ、1000段を越えるこの城址を新たな気持ちで踏み出した。
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