JAPAN-GEOGRAPHIC.TV

滋賀県近江八幡市 浄厳院
Jogonin,Omihachiman city,Shiga

Category
Rating
Comment
General
 
Nature
 
Water
 
Flower
 
Culture
 
Facility
 
Food
 



近江八幡市安土町慈恩寺744 浄厳院 本堂 重文 近世以前/寺院 室町後期 室町後期 桁行七間、梁間六間、一重、入母屋造、向拝三間、背面下屋附属、本瓦葺 棟札1枚 19030415
近江八幡市安土町慈恩寺744 浄厳院 楼門 重文 近世以前/寺院 室町後期 天文(1532-1554) 三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺 19980501

Nov.2012 大野木康夫 source movie




Dec. 2009 撮影: 中山辰夫

浄厳院(じょうごんいん)
蒲生郡慈恩寺744
浄土宗 安土駅を南側に出て、線路沿いに住宅街を南西に進むと森が見え、浄厳院の北門に出る。沙沙貴神社にも近い場所にある。
浄厳院は、安土城下慈恩院(じおんいん)の地に信長が建立した浄土宗の名刹である。『信長公記』に「安土町末」と記されているようにこの付近が城下町の西端と考えられる。

浄厳院の立地
浄厳院が所在する蒲生郡安土町は、琵琶湖の東側、滋賀県のほぼ中央に位置する。
町域は、北西から南東方向に細長く、その北東側には湖東平野の独立山塊、北から安土山、繖山(きぬがさやま)、箕作山が並ぶ。
町域の南西側は平地が占め、北西側はかつて大中の湖、小中の湖といった内湖が存在し、琵琶湖と通じていたが現在では干拓により広大な農地となり、わずかに小中の湖の一部、西の湖が残されている。
町のほぼ中央にJR琵琶湖線で京都から約40分の安土駅が位置し、国道八号線・東海道新幹線が南東端に山塊を縫うように走る。
安土町は平成22年3月より隣の近江八幡市と合併する予定である。

浄厳院は近江の寺の多くがそうであるように、草創は聖徳太子にさかのぼる。
太子が全国に建てた四十八伽藍のうち、近江国の十二伽藍の一つだといわれている。
時下って佐々木氏頼が正平年間に慈母の報恩のために建立し、天台宗慈恩寺威徳院となっていた。
この慈恩寺は信長の兵火で焼失した。
その後、信長の手で、金勝谷の浄厳坊に住む応誉明感上人が招かれ、慈恩寺の地を与えられて、寺を再建した。
明徳上人は信長が軍を京に進めたとき、その高徳を慕って、法を聞いた高僧である。
「武士が生死を覚悟して戦場に臨むとき、いかなる心をもって生きたらよいか」と信長が問うた。
明徳は仏法の真実を説き、信長を感銘させた。
それが縁となり、やがて天下を統一して安土城を築くと、早速に明徳を招いた。
明徳は浄厳坊の開祖隆尭上人の遺訓をもって、慈恩寺に移り威徳院を改め、金勝山慈恩寺浄厳院とした。
江戸時代には浄土宗の近江一国惣本山として八百余カ寺の末寺を持つ大寺院となった。 浄厳院の名前がよく知れているのは、天正7年(1579)に行われた安土宗論の舞台となったからである。
これは、法華宗と浄土宗とが浄厳院本堂を舞台として宗教上の論争を行ったものだが、信長によって浄土宗側の勝利と裁定され、敗れた法華側は、見物の群集に袈裟を剥ぎ取られ、打ち据えられるなどさんざんな目に遭わされた。
この結果法華宗側は、今後他宗に法論を仕掛けないことを約束する詫び証文を書かされていた。
こうして中世京都で一大勢力を誇った法華宗は著しく衰退させられることになった。
一説には、この宗論は信長が法華宗の勢力を削ぐため仕組んだものともいわれる。 浄厳院には、こうした歴史的背景のもと多くの什物(じゅうもつ)が伝来している。
絵画には平安時代から江戸時代にかけての浄土教美術の代表作が多く見られ、浄土教関係の書籍・典籍関係がまとまって伝わっている。
これらの多くは文化財指定を受けている。
境内に建つ建造物についても重要なものが多く残されている。本堂・楼門が重要文化財の指定を受けているほか、不動堂・鐘楼が安土町文化財となっている。
普通は北門より出入りするが、南正面に立派な楼門が建ち、宏壮な本堂の棟がそびえる大きい寺である。

              
楼門 (1555) 
国重要文化財:建造物:指定 1998・05・01 建立:1555
三間一戸楼門、八脚楼門、入母屋造、本瓦葺
慈恩寺の楼門として天平年間(1532〜1555)に建立されたもの。桃山時代の建築である。
楼門に設置された仁王像(吽像)にあった岩座墨書より、楼門が慈恩寺の建物として、存在していたことが明らかになった。 正面の柱間三間。中央に板扉を構える二階建門で南向き、左右に二王像を配する。桃山時代の建築である。
総丹塗で蟇股(下階正面中央間)は龍の彫刻で彩色が施されている。
この楼門の蟇股や木鼻は、日吉大社東本宮楼門(大津市、桃山時代)・苗村神社楼門(竜王町 大永2年1522)・油日神社(甲賀市永禄9年 1566)のそれに非常によく似ていることから、16世紀頃の建物とされる。
明治22年(1889)の台風で上層が崩落したため、切妻造、桟瓦葺にかえて応急修理された。
平成7〜8年(1996〜97)の解体修理により、本来の姿である入母屋造り、本瓦葺に復元されて現在の姿になった。
この時に実施された発掘調査の結果、他から移築されたものではなく、もともとこの地に建っていた慈恩寺の建物とみなされた。
中世から近世への過度的性格がみられ貴重とされる。

本 堂 (1572) 
国重要文化財:建造物:指定 1906・04・15 建立:1572
桁行七間、梁間六間、一重、入母屋造、向拝三間、背面下屋付属、本瓦葺 附 棟札 1枚  本堂は、もとは多賀(現近江八幡市多賀町)にあった興隆寺の弥勒堂を移築したものである。
昭和42年(1967)に解体修理が行われ本堂の改築の変遷が明らかになった。
興隆寺は天台宗寺院であったため、移築前の本堂は、内部を前後に分割して内陣と外陣に区画してその間を格子扉で区切り両脇を一間四方の子部屋に区画するという、天台密教系本堂の様式を備えていた。
しかし、信長がこれを浄厳院に移築した際に、内陣と外陣の間の格子を取り払い、両脇の子部屋を二間四方の余間に造りかえて浄土宗系の本堂に改造したとされる。
和様を主体とした古い様式を残した町時代末期の建築である。
元禄年間(1688〜1704)に大規模な修理が行われ、棟の高い外観になった。
太い丸太柱と大きな屋根が重厚感を醸し出している。縁に座ると穏やかな気分になる。
本尊は、平安時代につくられた木造阿弥陀如来像(国重要文化財)である。
天正6年(1578)に愛知郡二階堂から移されたとされる丈六仏で、像高2.7m、飛天光這背を負い、結跏趺座している。

 
 
不動堂
町指定文化財:建造物:建立 江戸時代:鬼瓦銘:元禄16年(1703)
4m弱の方形の仏堂で、屋根は宝形造、桟瓦葺である。
意匠は禅宗様を基調とし内部を瓦四半敷する。近年、破損が著しくなったので平成7・8年に解体修理され位牌堂として再生された。
釈迦堂 
建立:鬼瓦銘:天保10年(1839)
5.7m余りの仏堂で、入母屋造、桟瓦葺である。

鐘楼
町指定文化財:建造物
建立:鬼瓦銘:寛保2年(1741) 
腰袴付きの本格的なもので、各部とも基本に則って正規に造られているが、切石三段積基壇の上に建つので規模の割りには高さを感じさせる建物である。
昭和50年代後半に屋根本瓦葺の全面葺替、縁及び高欄の修理などが行われた。
観音堂
建立:鬼瓦銘:享保6年(1721)
6m余りの仏堂であるが、二軒、入母屋造、本瓦葺と本格的な建築である。
書院
明治9年(1876)の火災後に建築された。
庫裏
建立:明治11年(1878)
妻飾りなどの意匠からみて19世紀中頃の建築と思われる。
勅使門
大型の四脚門で、往時の寺格がわかる建築である。背面は罹災した痕跡をとどめている。
裏門
大型の高麗門で、寺の建物の中では最も馴染みの深いものであるが、19世紀後期の建築である。

手水舎
宝篋印塔
楼門内西側にある墓地の右手中ほど土塀の前に立つ。
相輪を失うが複弁反花座を備えたもので、高さは1.25m 基礎四面の格挟間内に開蓮が刻り出されている。



阿弥陀如来像

明徳上人が浄厳院に移ったとき、本堂は多賀の興流寺(現近江八幡市多賀町興隆寺)の弥勒堂を移し、本尊には佐々木六角氏にゆかりのある愛知郡の二階堂の丈六の阿弥陀如来を安置した。
この阿弥陀如来は丈六のとても素晴らしい阿弥陀如来像で、近江では、石馬寺、長寿寺、大池寺、仏性寺、普明寺などの仏像も大きいが、その中でも、特に秀作で、法界寺、法金剛院、三千院に並ぶものと思われる。
特に、光背・天蓋を完備している点が注目される。
寄木造、彩色、高さ2.73m、福徳円満なお顔、特に光縁部が透かし彫りになっている。その他の面からも美術史上値打ちのある仏像である。
その他、寺宝として国重要文化財を多く所有しているが、外部に寄託している。
資料:《滋賀県教育委員会作成史跡案内、浄厳院発行説明パンフレット、その他より引用》

 

July 2009 撮影: 中山辰夫

蒲生郡安土町慈恩寺744
天正5年(1577)に織田信長が、佐々木六角氏の菩提寺であった慈恩寺を破壊した後に、近江.伊賀両国の浄土宗総本山として創建したもの。
有名な「安土宗論」はここで行われた。勢力をのばし、他宗との衝突を繰り返す日蓮宗を押さえるために、信長の命で浄土宗と日蓮宗間で行った宗教論争。
信長が浄土宗に加担したため、敗れた日蓮宗は他宗への法論を禁じられた。

本 堂 

1572年築
国重文指定 1906・04・15
桁行七間、梁間六間、一重、入母屋造、向拝三間、背面下屋付属、本瓦葺 
附 棟札 1枚



近江八幡多賀の興隆寺弥勒堂を移築したもので、和様を主体とした古い 様式を残しており室町時代末期の建築で、太い丸太柱と大きな屋根が重厚感を醸し出している。



 
重文・楼 門

1555年築
国重文指定 1906・04・15
三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺 
桃山時代の建築である。正面の柱間三間、中央に板扉を構える二階建門で南向き、左右に二王像を配する。桃山時代の建築です。 


境内・その他





All rights reserved 無断転用禁止 会員募集中