滋賀県長浜市 竹生島
Chikubushima, Nagahama,Shiga
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長浜市早崎町1665 都久夫須麻神社本殿 国宝 近世以前/神社 桃山 "慶長7(1602)(身舎)永禄10(1567)(向拝及び庇)" 桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、前後軒唐破風付、周囲庇及び正面向拝一間付、総檜皮葺 棟札1枚 18990405 1953033長浜市早崎町1664 宝厳寺 唐門 国宝 近世以前/寺院 桃山 慶長8(1603) 一間一戸向唐門、檜皮葺 棟札1枚 19010327 19530331
長浜市早崎町1664 宝厳寺 観音堂 重文 近世以前/寺院 桃山 慶長8(1603) 桁行五間、梁間四間、一重、入母屋造、檜皮葺 19010327
長浜市早崎町1664 宝厳寺 渡廊(低屋根) 重文 近世以前/寺院 桃山 慶長8(1603) 桁行八間、梁間一間、一重、切妻造、檜皮葺 19010327
長浜市早崎町1664 宝厳寺 (高屋根) 重文 近世以前/寺院 桃山 慶長8(1603) 桁行二間、梁間一間、一重、切妻造、檜皮葺 19010327
長浜市早崎町1664 宝厳寺五重塔 重文 近世以前/その他 鎌倉後期 鎌倉後期 石造五重塔 19540917
June 20,2020 大野木康夫 source
movie
6月19日に新型コロナウイルス感染症にかかる移動自粛要請が緩和されたので、府県境を越えて竹生島を訪問しました。
琵琶湖汽船の竹生島航路は原則事前予約のみで、「社会的距離」を保てるまで少なくした船の定員に余裕があれば当日でも乗船できるということでした。
受付に入る際には検温が行われ、乗船に際しては間隔をあけて並ぶよう、路面に印が書かれるとともに、手指の消毒をして乗船することとされていました。
朝一番の9時長浜港発の便には30名ほどが乗船しました。(高速船べんてんの旅客定員は164名です。)
竹生島までの航路
竹生島に近づく
宝厳寺と都久夫須麻神社
竹生島港に到着
唐門へ
宝厳寺では平成25(2013)年6月から国宝唐門、重文観音堂、渡廊(高屋根)、渡廊(低屋根)の4棟の保存修理工事が行われ、本年5月に完了しました。
85年ぶりに塗りなおされた唐門と観音堂の彩色部分は、顔料や模様をレーザー測定して分析し、建築当初の鮮やかな色彩となりました。
また、調査によって、4棟が豊臣期の「大坂城」の「極楽橋」の遺構であることがほぼ明らかになったそうです。
唐門が極楽橋の入口にあったことを説明する看板
国宝唐門
重文観音堂
豊臣らしい黒を基調とした彩色に塗りなおされています。
細部の彩色
重文渡廊(低屋根)
屋根の高さが低く、長い方が低屋根です。
重文渡廊(高屋根)
渡廊内部
国宝都久夫須麻神社本殿
部分撮影
都久夫須麻神社拝殿からの眺め
観音堂を見上げる
唐門を見上げる
本殿へ
重文石造五重塔
竹生島港へ戻る
出航待ち
帰路
第3便を待つ乗船客
滋賀県長浜市 竹生島
琵琶湖4島(乳首島・沖島・多景島・白石)めぐりに参加して訪れた。4島の中で、竹生島は最も大きく、歴史のある島。宝巌寺に代表される有名な島である。
竹生島は全島石英斑岩からなり、高さ約120m、周囲約2㎞の島。まわりの屹立した断崖に奇岩怪石が乱立し、全山が木々に覆われている。
乗った船がたまたま島の廻りを一周してくれたので並べる。所要時間は約20分
多景島から約25分で島影が見えだす。
一周がはじまる
後方の山は伊吹山
カワウによる被害
遠景
竹生島へは、長浜港から約30分、彦根港から約40分、今津港から約30分で到着する。
境内〜社殿
石段に次ぐ石段をのぼる—途中に鐘楼がある
宝巌寺本堂〜弁才天堂周辺
雨宝堂〜宝物殿周辺
三重塔
唐門〜観音堂−国宝・国重要文化財
現在修理中で2018年末まで掛かる。柱や梁が黒塗りで、極彩色に彩られた鳥獣や草花などの彫像、絵画で埋め尽くされてあるが、どこまで復原されるか楽しみ。
渡廊 (舟廊下)−国重要文化財
屋根の葺替えも昨年終了した。観音堂から神社本殿に至る長さ22mの屋根付き廊下。垂木や扉、連子窓、檜皮屋根が鮮やかさを取り戻した。秀吉の御座舟の部材で造ったとの伝承から「舟廊下」トモヨバレルが、裏付ける資料は無い。
都久夫須麻神社本殿−国宝
龍神拝所と龍神
離島
長浜港から竹生島へ
下の通路から神社の正面へ登り参拝
舟廊下から宝厳寺観音堂へ
宝厳寺本堂へ
三重塔へ
再び本堂
乗船場へ
乗船場
長浜港へ
2011.7.27撮影長浜港を朝9時に出る船で竹生島に行けば、札所巡りの団体さんが乗船されないので、ゆっくりと島内を見て回ることができます。船内から撮影した琵琶湖の風景です。
竹生島には日本有数のカワウのコロニーがあり、植生に被害が出ていますが、2011年に入ってから確認されるカワウの個体数が、前年比で10分の1ほどに激減しているそうです。
竹生島が見えてきました。
島が近づいてくると、宝厳寺や都久夫須麻神社が見えます。
約30分で竹生島に着きました。
乗船したのは20名ほどなので、ゆっくり撮影することができました。
宝厳寺観音堂(重要文化財)慶長8(1603)年の建築
桁行五間、梁間四間、一重、入母屋造、檜皮葺 国宝の唐門と一体の建物ですが、唐門が豊臣時代の豊国廟又は大阪城の遺構であるため国宝に指定されているのに対し、本体部分は重要文化財としての指定に留まっています。
西国三十三か所観音霊場の札所として多くの人が訪れます。
宝厳寺唐門(国宝)慶長8(1603)年の建築
一間一戸向唐門、檜皮葺 観音堂の玄関部分です。
元は豊臣時代の大阪城にあった極楽橋に附属していた極楽門で、京都阿弥陀峯の豊国廟に移築された後、豊臣秀頼の命により、片桐勝元が竹生島に移築したものだそうです。
宝厳寺渡廊(低屋根)(重要文化財)慶長8(1603)年の建築
桁行八間、梁間一間、一重、切妻造、檜皮葺 観音堂の右手(東側)に接続しています。
通称の「舟廊下」は、豊臣家の御座船「日本丸」を解体して建造されたからだと言われています。
宝厳寺渡廊(高屋根)(重要文化財)慶長8(1603)年の建築
桁行二間、梁間一間、一重、切妻造、檜皮葺 渡廊(低屋根)の東に接続し、都久夫須麻神社本殿に向かいます。
都久夫須麻神社本殿(国宝)身舎:慶長7(1602)年の建築
向拝及び庇:永禄10(1567)年の建築
桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、前後軒唐破風造付、周囲庇及び正面向拝一間付、総檜皮葺元来竹生島は神仏習合でしたが、明治の神仏分離令で宝厳寺を廃し、全体を都久夫須麻神社とするよう命じられました。
しかし、全国の信徒の要望により宝厳寺は存続し、都久夫須麻神社と並立して今日に至っています。
本殿身舎は元伏見城にあった日暮御殿を移築したものです。
檜皮屋根の葺き替え工事が終わったばかりで、鮮やかな色になっています。
宝厳寺五重塔(重要文化財)鎌倉後期の石造五重塔です。
本堂(弁才天堂)の前にあります。
都久夫須麻神社境内各所拝殿から龍神拝所に向けてかわらけ投げが行われています。
宝厳寺境内各所弁財天堂や三重塔があります。
港に戻り、周辺を撮影しました。
カワウが減っているので、アオサギが営巣していました。
80分間の滞在で、ゆっくり回ることができました。
長浜港へまた戻っていきます。
カワウは港の沖合にいて、船が近づくと列をつくって飛んでいました。
解説:滋賀県教育委員会資料
信長の竹生島詣
Oct.2010 撮影/文:中山辰夫
竹生島
国指定名勝・史跡
沖合約6kmに浮ぶ周囲2kあまりの小島。島の名は「神を斎(いつ)く島に由来する。
中世以来、西国三十三所霊場として多くの参拝客で賑わう。
宝厳寺
Chikubushima Hougonji
長浜市早崎町
真言宗豊山派
本尊:大弁財天女・千手観音
724年に行基が開いたお寺。西国三十三所観音霊場・第三十番札所。
神亀元年(724)聖武天皇が夢枕に立った天照大神のお告げを受け、僧行基により開基させたのが始まりとされる。
行基は大弁財天像をご本尊として本堂に安置。翌年には千手観音像を安置した。
以来、天皇の行幸が続いた。さらに伝教大師や弘法大師なども来島、修行されたと伝えられる。
豊臣秀吉との関係も強く、多くの書状や宝物が寄贈されている。
慶長7年(1602)には太閤の遺命により、秀頼が豊国廟より桃山時代の観音堂や唐門などを移築させている。
宝厳寺へは長浜港から乗船する。所要時間は約30分 琵琶湖は静かである。船上から見る竹生島も美しい。
竹生島遠景—港に近づくと社殿がよく見える。木々の間から見える姿もなかなかのものである。
竹生島港−港に到着。石碑・石塔・常夜灯などが建立されている。
琵琶湖の味覚を並べる売店の前を通り、拝観受付を済ますと階段が待っている。
大鳥居−すぐに竹生島神社の大鳥居となる。
本坊−左側にどっしり構えて建っている。唐門の月定院も建つ。
「瑞祥水」
竹生島は昭和62年(1987)頃よりカワウの異常発生で、木々は枯れ、飲料水の確保もままならない事態になった。
そんな時、両ご本尊の夢枕のお告げにより井戸掘に着手。湖中の小島の困難な工事であったが、深さ230m(湖底下140m)より清浄水「瑞祥水」が出た。(平成14年)ありがたい味である。
「祈りの階段」−いよいよ本堂が建つ最上部まで165段の階段が始まる。かなり急激である。様々な祈りの心が人々を頂上へと導く
鐘楼−祈りの石段の途中、右側のやや奥まったところに建つ。
登りきると広場になっている。
重文の五重石塔−石段を登りきった正面に建つ。
比叡山の小松石で造られた五重塔。初層には4面に仏を配し各屋根には反りを持たせた鎌倉時代の特徴が見られる。
重要文化財指定は全国に7基しかなく、この石塔はそのうちの1基である。全て南北朝から鎌倉時代の作である。
本堂(弁財天堂)−納経所前の一角に建つ。さすが大きな風格ある建物である。
本尊の弁財天は、江ノ島・宮島と並ぶ「日本三弁財天」の一つで、その中でも一番古く、開山時(724年)聖武天皇の勅命を受け僧行基が開眼したもの。
本堂は、昭和17年に再建され、現在本尊の弁財天を安置している。
風と波の造形ー三重塔横の広場からみた湖上
モチの木
豊臣秀頼の命を受け植えられた。樹齢400年を越える。
三重塔−モチノキの前に建つ。
雨宝堂—三重塔の傍に建つ。
宝仏殿−三重塔と並んで建つ、
竹生島現存最古の彫像「不動明王坐像」などが拝観できる。さすが宝物と思える瞬間である。
不動明王坐像は、上の牙歯で下唇をかむ忿怒の様相を示す不動尊。一木造りの構造で造像は平安時代後期頃とされ、竹生島現存最古の彫像である。その他、弁財天像も安置され、なるほど国宝と頷けるものが多い。
観音泰安殿−階段を下りるとすぐ下にある。西国札所の観音像33体が一堂に安置されている。
唐門(国宝)−階段を下り始めるとすぐ眼下に見える。重厚である。
西国第30番の札所。京都東山の豊国廟の極楽門を移築したもので、観音堂に続けて建てられた桃山様式を示す貴重な門である。
観音堂(重要文化財)
本尊は秘仏千手千眼観音立像(原則として60年に1度の開扉)
舟廊下(重要文化財)
この廊下は、観音堂移築と同時に掛けられ」、秀吉の御座船「日本丸」の船櫓を利用してつくられ、急な斜面に掛けられたためその足元は、高い舞台構造(懸造)となっている。
龍神拝所—「竹生島八大竜王拝」碑が建つ。
琵琶湖龍神の石鳥居に向かって、名前と願いことを墨書した2枚の素焼皿を投げる「厄除かわらけ投げが人気である。
願い事を書いた素焼きの小皿を宮崎鳥居に向かって投げ、鳥居をくぐれば願い事が叶うとされる。
都久夫須麻神社(国宝)−観音堂から舟廊下づたいに神社につながっている。
「延喜式」にも載る古社で本殿は国宝。神社名は竹生島の古名で「つくぶすま」と読む。
目下改修工事中である。
参考資料不動明王坐像 木造 像高:54.8cm
最近発見された像である。
桟橋から石段を登り弁財天に向かう途中に護摩堂がある。不動明王立像を本尊とする小堂で、近世作の諸仏に混じってこの不動明王坐像が安置されていた。
像は古色に黒ずんで彩色はあっまり明瞭でない。わずかに目や口、条帛に朱彩が残る程度である。頭部も体部も厚く、どっしりしと安定した姿、太い眉を寄せて大きく両眼を見開いた形は古風で、一木造りの古式な構造と合わせると平安時代でも十世紀頃のものとされる。如意輪観音像
重要文化財 絹本著色 縦120.8cm、横55.9cm
如意輪観音は如意宝珠及び法輪の功徳をもって、一切衆生の苦を救うとともに、財宝を施すことで物心両面にわたって利益を与えてくれる菩薩とされる。
本図は、岩上の蓮華座上に右膝立ちに両足裏を合わせてすわる一面六臂像である。
頭を右に傾けて思惟の相を表す。右手の第一手は頬にあてて、いわゆる思惟のポーズをとり、第二手は胸前で屈曲して宝珠を掌にのせて一切の願い事を満たす。第三手は右膝横に添って垂らし、念珠を持って一切の苦しみをなくす。
左手の第一手は左膝に添って伸ばし、、手先は左側から迫る光明山の端に置く。第三手は左肩に添って上に伸ばし、薬指で金輪を捧げて災いを転ずる相を示す。
画面の上方には紫雲がたなびき、岩山は南海の補陀落山を表し、波は観音菩薩の住む補陀落山の状況を示す。岩上にて伏し拝む人物は善財童子である。法華経序品「竹生島経」
国宝 縦26.1cm、横1000cm
法華経は、最澄が最上の経典として法華経を講説して以来、その需要は貴族社会へ広まっていった。特に平安中期以降末法思想の波及につれて、その作善行為として法華経の写経が盛行した。なかでも平安貴族文化の様相を反映して、装飾をした写経が多くみることが
できる。
この竹生島宝厳寺に伝来している法華経葉、装飾経であるが、「竹生島経」と呼ばれ他と区別される。
竹生島経は、同じ装飾法華経の中でも、紺紙や柴紙に書写、あるいは色紙を継いだものではなく、料紙に金銀泥で装飾されたものをいう。
本文は金界線を引き、表題の「妙法連華経序品第一」で始まり、一行十七字、偈は二十字を端麗な文字で書写して、特に料紙には金銀泥で宝相華・瑞鳥・羊歯などの下絵を構図的に大きく描いているのが特徴的で、他の装飾経と異なる。竹生島祭礼絵図(東京国立博物館蔵)
重要文化財
竹生島には中世以来、弁財天に関連して「蓮華会 れんげえ」という民俗行事があって今は8月15日に行われている。この法会は「妙法蓮華経」を購讃し、神仏に供花として蓮華を献じたことから花の祭礼として名づけられた。
竹生島の蓮華会は、弁財天を本尊とする仏教の雨乞い行事であるが、竹生島に鎮座する島主明神の祭礼でもあり、神仏習合の行事であった。中世や近世初頭の舟御渡の様相である。神輿船一艘、金翅鳥船二艘、先頭・後頭の船各一艘のほか、十三艘の伴船が描かれている。
竹生島弁財天の拝殿では舞楽が奉納されており、まことに豪華で賑わしい祭礼である。」また、先頭・後頭の船には僧侶が五人ずつ乗り込んでおり、この祭りが宝厳寺における神仏習合の行事であったことを物語っている。その他、多数の重要文化財を所蔵している。
スター
おみやげ
宝厳寺−本堂「弁財天堂」
Hougonji Hondo (Benzaitendo) 長浜市早崎町弁財天堂
石段を登りつめた奥の平地に建てられた優美華麗な建築である。
天平10年(738)に行基が弁財天を安置したのが始まりと伝えられる。本尊の弁財天は江ノ島・宮島と並ぶ「日本三弁財天」の一つでその中で一番古いとされる。竹生島では弁財天堂建立が積年の懇願であったが、昭和9年(1934)の観音堂の大修理を機縁に造営が始められ、昭和17年(1942)に落慶した。規模17m四方で、構造は身舎五間五間、四方裳階(もこし)付・一重で、従って外観は裳階の柱間(はしらま)で七間七間、二重屋根・檜皮葺である。身舎正面に大きい千鳥破風があるため、特異な姿でもある。
組物間は二つ斗を置いた板蟇股で、ある。外陣外側は吹寄菱格子、同内陣境は細かい彫刻欄間である。
内陣正面一杯に中世風の須弥壇がもうけられ、中央の厨子には本尊・弁財天がまします。
組物間の小壁には極彩色で雲その他が描かれ、また内法長押(なげし)上の小壁にも荒井寛方画伯の天女が描かれて荘厳である。
こうした内容で、この弁財天堂は、大体を平安時代後期様式に求め、各種細部は鎌倉、室町ごろの様式を用いてまとめられた昭和の大仏堂の代表作とされる。
堂内壁画の「諸天神の図」と「飛天の図」は必見といわれる。
竹生島の一大行事である蓮華会が今日まで綿々と続けられ、その都度新しくつられた弁財天像が奉納され、今も安置されている。
堂内左右に位置するお前立ちの弁財天は、右側が室町時代、左側が桃山時代の作である。
弁財天は七福神の一人で、人の穢れを払い富貴・名誉・福寿・縁結びの徳や子孫を恵む神として信仰を集めてきた。
柔和な表情が参る人たちを和ませてくれる。
堂内に奉納されている弁天だるまは(1個 500円)は、願い事を紙に書いてだるまのお腹に丸めて入れる。
だるまは手作りで一つひとつ表情が異なる。
宝厳寺−唐門 「一部観音堂を含む」
Hougonji Karamon 長浜市早崎町唐門
国宝
唐門とは凹凸の一連曲線からなる唐破風を持つ門で(今場合の「唐」は中国とか唐(とう)の意味でなく「装飾の多い」という程の意と考えられる。
また、唐破風の曲線はどうも日本の発明と想像され、「唐薬医門」などの表現も「装飾の多い薬医門」と考えられる)この唐門に二通りある。
唐破風が前後(正背面)にある向唐門(むかいからもん)と、正面に向かって左右にある平唐門(ひら)とで、後者のほうが古く、平安後期にはすでにあったことが絵巻物でも知れる。
宝厳寺唐門は向唐門で、構造形式は一間一戸向唐門である。屋根は檜皮葺である。慶長8年(1603)京都より移築された。
豪華絢爛といわれる桃山様式の代表的遺構で、もとは京都東山の阿弥陀ケ峰にあった豊国廟−極楽門とされる。
豪華な装飾面について
唐破風の中央には特別大型の精緻な蟇股彫刻をおく。これは京都の豊国神社・西本願寺唐門と共通したやり方で、当社のこの蟇股は正面が牡丹、その裏が桐で、奥の蟇股は松に小鳥を主題にして牡丹が添えられている。
次に蟇股輪郭と上部輪垂木(わたるき 唐破風に用いる曲がった垂木)との間は正面が松と桜らしい花木に阿(向かって右)吽(左)の尾長鳥を空間一杯に入れている。
扉正面やその両脇の羽目板は牡丹一式で装飾されている。牡丹彫刻そのものは都久夫須麻神社本殿と同様、桃山式そのものである。
柱頭には精巧な木鼻彫刻を付ける。牡丹・獅子・菊で、獅子は面相、姿ともに優れ、牡丹・菊も桃山一流の傑作とされる。
「古寺巡礼 近江より引用」観音堂
宝厳寺−観音堂
Hougonji Kannondo 国指定重要文化財
観音堂は唐門がその玄関(車寄)のような形になっているのに続いている御堂で、西国三十三所第三十番の札所である。
構造形式は桁行五間、梁間四間、一重、入母屋造、檜皮葺であるが、その左側面に長い舟廊下が続いている。
これら観音堂と舟廊下は唐門と共に、豊臣秀頼が片桐且元を奉行として移築したもので、当時の棟札が残っている。堂の主体部は円柱で柱頭上桃山様式をよく表している拳鼻(こぶしばな 木鼻)をもつ出組(でぐみ 一手先)の組物を組む。
この辺りは天井などと共に極彩色で装飾文様その他が描かれ、当初は詢に美しかったであろう。
天井は内外陣とも折上格天井(おりあげごうてんじょう)その天井板には華麗な色彩で菊・桐・牡丹が描かれている。なお観音堂はその左に続く舟廊下と共に土地が急斜面をなしているため、床下は高い足代(あししろ)が組まれ、いわゆる舞台造「懸造 かけづくり」をなしている。展示の御輿
宝厳寺−三重塔
Hougonji Sanjutou 長浜市早崎町三重塔
平成12年5月に約350年を経て再建建立された塔である。「浅井郡誌」に基づき再建された。
文明19年(1487)、「阿部権守」という宮大工の棟梁が建立した三重塔があった。しかし、この塔は江戸時代初期、落雷にて焼失。
また、「阿部家」に伝わってきた文書や絵図(設計図)もその後流失。以来、当山三重塔に関する文献が全く発見できず、その再建ができないまま現在まで来た。
しかし、平成7年、偶然に三重塔図面が発見され、それに基づき竹生島宝厳寺三重塔が再建された。
総高:15.5m、一辺3.2mの総ヒノキ造。総和様の本格塔婆建築である。この塔は、古法の工法に基づき、重機などは一切使用せず人の手だけで建築された。
塔本尊の金剛界大日如来を一層目(1階)中央に安置。それを囲む四本柱には32体の天部の神々を、また、四方の壁には真言宗の八人の高祖を配して描いてある。
また、各柱や長押にはうんげん彩色や牡丹唐草模様が描かれている。これらの装飾は、仏の極楽浄土の姿を表しているといわれる。
この彩色は、昔ながらの岩絵の具を膠水で描いているため、耐水性に欠け剥離もしやすく、普段内部公開はされてない。
宝厳寺—舟廊下「渡廊」
Hougonji Funarouka(Watarirou) 国指定重要文化財
舟廊下は観音堂の左に長く連なる幅一間の建築で、渡り切れば都久夫須麻神社本殿の横に出る。
建築の特性上、簡素な造りであるが、両側は竪連子窓(たてれんじまど)、天井は勾配形をなす化粧屋根裏で、垂木配置も粗く、疎垂木木舞裏(まばらたるきこまいうら)である。
簡素ではあるが、細部には桃山様式が読み取れるとされる。
都久夫須麻神社
Tsukubusumajinja 長浜市早崎町
祭神:浅井姫命神社名は「ちくぶすま」。竹生島の古名といわれている。平安時代の延喜式に載る由緒ある神社である。
祭神は湖水を支配する浅井姫命である。本殿
国宝
慶長7年(1602)に豊臣秀頼が建立
本殿建物は、関白秀吉公が時の天皇をお迎えするためにその時の粋を集めてつくった、一名「日暮御殿」という。
伏見城内最高の建物を神殿として寄進されたもので、殿内部は狩野永徳・光信筆の天井絵・襖絵などをはじめ、高台寺蒔絵の柱絵・長押など建物すべてが極彩色に飾られており、桃山文化の代表的な国宝建築物である。現在改修中である。
事業費:1億3千万円で檜皮葺屋根全面葺き替えが行なわれる。22年3月の完成が目標。 1899年に特別保護建造物に指定され、1953年に国宝に指定された。
前回の修理から40年が過ぎ、檜皮の痛みが激しく、修理が決まった。お花
本殿天井絵
本殿内部の折上格子天井には、四季の花卉・草木が華麗に描かれ、狩野永徳・光信筆と伝わる。
竹生島
長浜市早崎町竹生島
国指定史跡名勝長浜港から船で30分ほどの乗船時間で到着する。(今津港からも出航している)
今回は竹生島全島を航路に従って記録に収めた。
竹生島は琵琶湖では沖の島に次ぐ大きい島で、周囲2km、面積0.14k㎡である。
この島には2ツの峰があって、高い方の北峰は標高197.6mである。
全島花崗岩でからなり、周囲は切り立った断崖層で、南東に唯一の港がある。
この付近は湖中でももっとも深く、水深120mに達する。
巨岩の上に繁茂する緑樹が紺碧の湖面に映える景観は「竹生島の沈影」として、琵琶湖八景の一つに数えられ、島とその周囲8万9347㎡が国の史跡名勝に指定されている。
最近はカワウの繁殖で、糞害が大きな問題になっている。「日本紀略」・「平家物語」・謡曲「竹生島」・長唄「今様竹生島」など、文学にも多く取り入れられている。
都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)・宝巌寺(ほうがんじ)が所在している。
長浜港
Nagahama port Apr.2010 撮影/文:中山辰夫
長浜市港町長浜湊は松原湊(彦根市)、米原湊とともに彦根藩の保護を受ける「彦根三湊」のひとつとして繁栄した。
古くは秀吉の城下町建設に伴い外遊として整備されていたといわれ、廃城後も北国街道と琵琶湖水運をつなぐ湊であった。
江戸中期ごろまで発展を続けた長浜湊は、以後次第に衰微していった。
再び賑わいを見せたのは、鉄道と湖上交通の接点となる明治前期であった。
鉄道の開業(長浜・敦賀間)に合わせて太湖汽船株式会社が設立され、大津・長浜間の鉄道が開通するまでの代用として蒸気船の運行が始まった。
その後、東海道線の全通による鉄道連絡線(明治22年1889)以降になると、長浜港は、琵琶湖観光の遊覧船の発着港として、あるいは湖北・湖西一帯からの丸子船などによる物資輸送の集散港として存続することになった。
現在の長浜港は昭和38年(1963)に場所を移して開港され、豊公園の南西側を埋め立てて、大型船の係留施設が造られ、新しい港として現在に至る。
竹生島への遊覧船などが発着するほか、付近には観光ホテルやヨットハーバーがあり、奥琵琶湖観光の拠点となっている。
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