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滋賀県大津市 円満院

Enmanin,Otsu city,Shiga

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大津市園城寺町33 圓満院宸殿 重文 近世以前/住宅 江戸前期 元和5(1619) 桁行19.7m、梁間15.8m、一重、入母屋造、こけら葺玄関1棟、獅子口2個 19020731


January 12, 2019 野崎順次 source movie

滋賀県大津市園城寺町33番地

圓満院門跡

圓満院は寛和三年(987年)に、村上天皇の第三皇子悟円親王により創立された天台宗の寺院です。三井三門跡の一つであり、開基当時は平等院と呼ばれていました。

藤原道長が宇治に建てた別荘をその子藤原頼道の時代に寺院にするよう命令が下され、平等院(後の圓満院)の明尊大僧正によって完成しました。

悟円親王の子永円親王が初代院主となり、三井平等院の名前を宇治に譲り、現在の宇治平等院の初めとなっています。

一方三井平等院は明尊大僧正によって圓満院と命名され、悟円親王をはじめとして歴代皇族の入室する門跡寺院となりました。

しかし室町時代後期までは、通称三井平等院と呼ばれていました。

明治11年に明治天皇、明治13年と45年に当時東宮でいらっしゃった大正天皇が行幸された由緒ある門跡寺院です。

(圓満院ウェブサイトより)

2009年5月、重要文化財に指定されている宸殿など建物9棟と庭園など土地約1万4000平方メートルが大津地方裁判所によって競売にかけられ、約10億6700万円で滋賀県甲賀市内の宗教法人に落札されていたことが判明した。この競売にともない、同年8月20日には圓満院の所有権をこの宗教法人に移転する法的な手続きが完了した。文化庁は「異例の事態」とコメントしている。

(ウィキペディア「円満院」より)

入口から庫裡に入り、奥へ進むと、ちょっとした中庭がある。所有権がとある宗教本陣に移ったので、コンサートの楽器を運ぶ若者が多くいたりして、少し違和感がある。

                  

国重文 宸殿 江戸前期 元和五年(1619)

桁行19.7m、梁間15.8m、一重、入母屋造、こけら葺

附 玄関1棟、獅子口2個

       

襖絵は全てレプリカである。原本の障壁画は京都国立博物館に収蔵されている。

                  

国名勝史跡 圓満院庭園

本庭はこの宸殿の前庭で、面積六百二十坪を有し、池泉鑑賞式の立派な庭園である。池中に向かって右に亀島を設け、左方石橋の架けられているのが鶴島であり、対岸には蓬莱山の巨石を立て、さらに向かって右方の山畔上部から、奥深く滝を落としてある。

(中略)

前述したように、この池庭には鶴亀二島を配してあるが、これは本庭が蓬莱山水としての池庭であることによるのである。したがってこの鶴亀二島は、本庭の眼目であり、庭園景到ととしても傑出している。特に鶴島の石組は豪快であり、よく寛政期の作庭を見せている。

(中略)

鶴島が宸殿建築よりも東部にはみ出ていて、亀島が中心になっていることは、神殿が西に寄り過ぎていることを立証している。しかしこの亀島の石組もなかなか立派に石組されていて、この時代の石組手法を如実によく表現している。

(重森三玲「日本庭園歴覧辞典、昭和49年」円満院庭園より)

さらに左手の七重塔(南北朝)や右手の宝塔(鎌倉末期)も寄せ集めながら美しいと述べている。

                                        

帰途、琵琶湖疎水の取水口が近い。

       


Mar.13,2017 瀧山幸伸

Edited Movie Download YouTube (三井寺と円満院のmovie)

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以下、wikipediaより抜粋

円満院は、滋賀県大津市園城寺町33にある天台宗系の単立寺院(元天台宗寺門派)。門跡寺院。近畿三十六不動尊第二十五番。円満院では自らを圓満院門跡(えんまんいんもんぜき)と表すことも多い。

寺内には本堂や宸殿のほか、宿坊・三密殿と大津絵美術館を併設している。

寛和3年(987年)に村上天皇の皇子悟円法親王により創建されたと伝わるが、平安時代中期の参議・藤原資房の日記『春記』には、園城寺の明尊が長久元年(1040年)に後朱雀天皇の支援を受けてこの地に新しい寺を創建し「円満院」と命名したという消息が記されている。

宸殿(重要文化財)

入母屋造、こけら葺。当初は元和5年(1619年)に2代将軍徳川秀忠と御台所江姫の五女・和子(東福門院)が後水尾天皇に入内した際に禁裏に造営されたものと伝わる。その後正保4年(1647年)になって和子所生の明正天皇によりこれが円満院に下賜されて同地に移築されたもので、明治35年(1902年)には国の重要文化財に指定された。間取りは南北2列の計6室からなり、北西に位置する一の間には後水尾天皇が座ったと伝わる御座もある。各室には狩野派による障壁画が描かれていたが、今日見られるものは複製で、原本の障壁画は京都国立博物館に収蔵されている。

庭園(名勝・史跡)

宸殿の南側にある庭園は、国の名勝及び史跡に指定され、室町時代の造園家・相阿弥の作と伝えられる池泉観賞式庭園である。中央に細長く池を掘り、建物と池の空き地には白砂が一面に敷きつめられ、池の背後には自然の地形を生かした築山があり、池の中には鶴島・亀島が浮かび、高く巨大な石橋が架けられ、池泉観賞式の「鶴亀の蓬莱庭(ほうらいてい)」として不老長寿を願い、慶祝を表す庭となっている。

        

宸殿、庭園 

                                                               

本堂

                

大津絵美術館

                           


June 2011 中山辰夫

撮影 May 27,2011 円満院庭園大津市園城寺町33

国指定名勝・史跡円満院は、運慶作の仁王像を安置する園城寺の大門(仁王門 国重文)のすぐ北、白壁の土塀に囲まれて、堂々とした宸殿(しんでん 国重文)を構える大寺院で、三井三門跡の一つに数えられる名刹である。

    

境内に入ると格式を誇る円満院の玄関と宸殿(しんでん)の入母屋の屋根が見える。

 

入って直ぐの境内左側に新築の金色不動堂がある。

    

    

本館にて受付を終えると、宸殿、庭園、本堂、近江郷芸美術館などへ案内される。すべて廊下でつながっている。宸殿(国重要文化財)

京都御所を下賜されて、正保4年(1647)に移築されたもの。この宸殿は桃山建築の中でも頂点に達した書院造りの典型とされる。

    

部屋は6室にわかれ、金箔画、風俗画(ともに国重文)の襖、いずれも桃山時代の岩佐又兵衛筆と伝える。

    

部屋内部の装飾

    

廊下部分の装飾

    

五十四代門跡が藤原家出身の優れた教養人であった。明和2年(1765)に七難七福図(国重文)の製作のため円山応挙を招き、3年後に完成させている。応挙はその後も来津した。応挙には、この円満院時代が画業の集大成に好影響した。

明治2年(1869)1月当院・宸殿に県庁が置かれた。

5月の庭園

欄干のついた宸殿の縁先から眺めるこの庭は、四季折々に目を楽しませてくれる。

5月半ばの新緑の情景であるが、目にまばゆい新緑が芽吹き、皐月・アヤメの花が頭をあげて緑と鮮やかさを競っていた。

春は桜、成夏には蝉時雨、秋には真っ赤な紅葉、冬は雪景色と見ごたえのある景色が年中見ることができる。

    

   

庭園は正保4年(1647)明正天皇の旧御殿を譲り受けて移建の際に造営されたとされる。

山裾斜面を巧みに活かした池泉鑑賞式庭園が静かな佇まいを呈している。

宸殿の縁先は庭を鑑賞するための舞台となり、建物と池の間には一面に白砂が敷かれている。

    

宸殿に対して横長に大きな池をめぐらし、蓬莱山、鶴亀島を置き、巨大な自然石の橋を架けている。

    

刈込みと石組を配し後方に築山を置く

皐月、さくら、椎、ヒノキ、杉、など低木から大木までが植わる。

    

江戸時代前期の華やかな気分をよく現した庭とされる。

本堂

   

本院の庫裏を利用した大津絵美術館では、大津絵の初期から現代までの作品が展示されている。(湿度管理が重要です)

     

円山応挙

筆滝図(引用)

 

筆滝図(引用)

 

住吉社頭図

 


Mar. 2006 瀧山幸伸 source movie

  

                          

             


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