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滋賀県東近江市 後藤氏館跡

Goto yakata ato, Higashiomi city, Shiga

 
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March 1,2020 大野木康夫 source movie

後藤氏館

所在地 滋賀県東近江市中羽田町

佐生城を築いた後藤氏の本館です。
門跡の石垣が立派です。

土塁
           


ヒノキ
  


門跡の石垣
                           


その他
 


Jul.6.2014 中山辰夫

東近江市八日市中羽田町滋賀県指定史跡位置

今日でも「後藤堀」の小字名がある。

雪野山北裾部にあって、八幡社古墳群も近くである。

   

案内

1563(永禄6)年の後藤賢豊父子の権勢を恐れた六角義弼が賢豊父子を殺害したいわゆる観音寺騒動ゆかりの遺跡である。

   

佐々木六角氏の重臣後藤氏の在地居館跡とされ、四周を掘と土塁が囲む単郭構造を取る。

圃場整備事業に関連して、1981(昭和56)年館跡内部、同59年門跡と石垣部分の発掘調査が実施され、規模が東辺・南辺が各約100m、西辺約120mの台形を呈することが分かった。

遠景

    

後藤館跡平面図

 

近景

館全体としては、土塁の外側に堀を持つ単郭構造で、西辺の南北長120m、東辺の南北長100m、東西幅100mの台形状である。

    

堀跡

土塁の外側に幅10m、深さ4mの掘跡がある。

  

門跡付近

     

≪参考≫

観音寺騒動

近江における覇を浅井氏と争いつつ、観音寺城を本拠地として対外的には畿内周辺で最も強固で安定した勢力を誇っていたのが佐々木六角家であった。

若干18歳で父承禎(義賢)から佐々木家家督を継いだ義弼が、重臣後藤賢豊とその子二人を計略にかけて殺してしまった。

当時佐々木六角氏を支えていた家臣の中で、特に蒲生郡の中羽田に本拠を構えていた後藤賢豊は家臣団の信望も厚く、権勢を誇っていた。

これに対し、当主の義弼はやがて賢豊が六角家を乗っ取るのでないかと疑念を抱いていた。

義賢は後藤賢豊父子に観音寺城への登城を命じ、観音寺坂で殺害してしまった。義弼が鹿狩りの勢子を出すように命じたが、後藤氏がこれに応じなかったため。叛心ありと考えたのが直接のきっかけであった。

賢豊父子の謀殺を知った重臣たちは、義弼の暴挙に抗議し、観音寺城の自らの屋敷に火を放ちそれぞれの根拠地に引き揚げた。

この事件は日野城主蒲生定秀らの奔走で収まったが、一見強固に見えていた六角家の主従関係に深い亀裂が入った。家臣の利益を無視する大名には、絶対服従はあり得ないという近江の国衆の気骨を示す事件であった。この事件後、家臣の多くが事前に信長に寝返っていたなど、佐々木氏の結束が崩れ、1568(永禄11)年、織田信長に屈した要因の一つとなった。

このように佐々木氏の敗走と織田信長上洛に関わる中世史上に欠くことのできない重要な遺産とされる。雪野山古墳

雪野山周辺には数百の古墳がある。中でも雪野山頂上にある雪野山古墳が重要である。

1989(平成元)年9月に古墳前期の竪穴式石室が、全国的にも数少ない未盗掘の状態で発見された。その内部から邪馬台国の女王卑弥呼が中国からもらったとも思われる三角縁神獣鏡3面のほか、多数の貴重な副葬品が出土した。発見された石室の床面は年度が敷き詰められ,木棺が安置されていた。

古墳時代前期中葉(4世紀中期)の古墳で、古墳の被葬者は大和政権の承認を受けて、この付近を納めていた豪族と考えられ、滋賀県の湖東地方が大和政権と深い関係にあり、かなり高い文化を持っていたとされる。

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