滋賀県東近江市 石塔寺
Ishidoji, Higashiomi city,Shiga
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東近江市石塔町860 石塔寺五輪塔 重文 近世以前/その他 鎌倉後期 嘉元2(1304) 石造五輪塔 嘉元二甲辰九月五日の刻銘がある 19600209
東近江市石塔町860 石塔寺五輪塔 重文 近世以前/その他 室町前期 貞和5(1349) 石造五輪塔 貞和五年己丑八月廿九日の刻銘がある 19600209
東近江市石塔町860 石塔寺三重塔 重文 近世以前/その他 奈良 奈良前期 石造三重塔 19070828
東近江市石塔町860 石塔寺宝塔 重文 近世以前/その他 鎌倉後期 正安4(1302) 石造宝塔 正安四年十月日の刻銘がある 19600209
参道
石塔群
快晴の雪景色
帰路
滋賀県東近江市石塔町860 石塔集落の東方山中にある。阿育王山と号す。
宗派:天台宗 本尊:聖観音(秘仏) 創建:伝・推古天皇在位年間(592〜628年 創建:伝・聖徳太子石塔寺は聖徳太子創建の伝承を持つ寺院である。近江には48カ寺、聖徳太子建立とされる寺院があり、長命寺(近江八幡市)・百済寺(東近江市)も含まれる。この地が早くから仏教文化が栄えた地域であることと、聖徳太子との何らかのつながりがあったと思わせる。本堂裏山には、石造三重塔(国重要文化財)と境内には多数の石塔が建つ。宝塔・五輪塔(国重要文化財)も建つ。
境内案内図
境内へ向かう
山門〜庭
庫裏〜本堂
平安時代(1000年の頃)、一条天皇代に石塔が出土し、石塔寺と改称、一条天皇の勅願寺となら、八十余坊の大伽藍を擁する大寺院として隆盛を極めた。
織田信長の焼討ちですべてを焼失し、寺院は荒廃した。
江戸初期。寛永年中(1624〜44)になって、天海僧都が弟子・行賢に指示して堂宇が再建され、その後も徳川の庇護が続期、整備が進んだ。158段の石段を登れば山頂境内、三重塔が見える。
1834(天保13)年、日野の豪商・中井源左衛門により石段が改修された。ついで、1923(大正12)年に再整備がなされた。山頂境内を1790(寛政2)年に訪れた、司馬江漢は次のように記している、
『そこらあたり、皆石とうの片われなり。寺ラあり。石塔寺と云。本堂の石つ(礎)へ踏段、其外皆石塔の古きを用ゆ。石階を二三十間登る。其石たんも皆石塔なり』三重塔 地元では「石塔寺の宝塔さん」と呼ばれている。
花崗岩製、日本最古の石造三重塔、高さ約7.7m、上層部に行くほど仕上げが良くなっている。
三重塔は、朝鮮半島の百済定林跡塔と類似していることから、鬼室集斯と関連づけた百済系渡来人による造立とする説や高麗時代の長蝦里塔との類似から10世紀以降の創建とする説がある。
使用された原石は愛知川上流から流出した自然石に手を加えたものとされ、三重の本体は4.6mとされ、後期の作とされる相輪と、基盤石を含めると総高早く7.5mである。台石とか笠石までも一個物で仕上げられ、積み上げ方式で組み立てられている。当時のまだ未熟な加工技術の度合いが分かるカ所も多い。
各重の屋根は勾配がゆるく、緩やかな軒反りを示す。
三重塔は土中に埋納されて以来、十一世紀初頭に発掘された。石の変色からも分かる。湿気を含んだ変色度合いから埋められていた深さが分かるとされる。
塔の製作は、基盤石から始められ、順次上部へ進んだと思われる。製作が軌道に乗って、上部程仕上げが良くなっている。
合場(二個の石が合わせてある部分)などに、原石の足りない生(うぶ)なりの所もあってかなりの隙間もある。塔が支えられていることに不気味さを感じる。石仏群
境内から山中一周400mにわたって並べられた数万の石仏群
1926(大正15)年から1932(昭和6)年の間、岡山県の福田 海を大施主として、境内に散乱していた石塔・石仏群が現在に見られるように整備された。
9割以上が15〜17世紀に建立されたものとされ、鎌倉時代後期から南北朝にかけての石塔は追善供養が多い。宝塔と五輪塔 いずれも国重要文化財である。
宝塔
1302(正安4)年の銘がある。
五輪塔—1
1304(嘉元2)年の銘がある
五輪塔—2
1349(貞を5)年の銘がある
石柵
1856(安政3)年、信徒の浄財で、三重石塔の四周に石柵が作られた。柱石一本毎に寄進者の名前が刻まれている。
鐘楼
参考資料≪パンフレット、滋賀県の地理、古代蒲生野と石塔寺阿育王塔、他≫
2012.9.2撮影
参道
三重塔(阿育王塔、重要文化財)奈良前期建造の石造三重塔です。
日本の石塔の中で最も美しいものの一つと思います。
三重塔の東の木立の脇に重文指定の宝塔と五輪塔が並んで立っています。
五輪塔は阿育王塔の発見者野谷光盛と勅使平恒昌の供養塔と伝わっています。
宝塔(重要文化財)正安4(1302)年建造の石造宝塔
宝塔の東に五輪塔が二つ並んでいます。
五輪塔(南塔、重要文化財)貞和5(1349)年建造向かって右の少し細身の塔です。
五輪塔(北塔、重要文化財)嘉元2(1304)年建造向かって左の少し太い感じがする塔です。
撮影日: 1977年12月30日(2011年11月フィルムネガをデジタル化)この時の住所は蒲生郡蒲生町だったと思われる。重文 阿育王塔(奈良時代前期)
滋賀県東近江市石塔町860
阿育王山 石塔寺
(Ashokaozan Ishidoji Temple, Higashi-omicho, Shiga Pref)撮影日: 2010年1月3日滋賀県の蒲生は百済滅亡後に渡来した渡来人を配したところである。
山門に「阿育王山」という額がかかり、阿育王(アショカ王=(前3世紀)インドでシャカが入寂した後、仏教で国を治めた王)が仏法の興隆を願って撒布した塔が埋もれていたという伝説がある。山門から登っていくと山頂が狭い平地となっていて、そこに三層石塔が建つ。
日本最高の三層石塔で、伝説の塔である。
相輪はあとから補われたもののようだが、石塔本体は百済が亡びる直前に建てられた定林寺の三層石塔によく似た百済形式で作られている。
屋根が薄い板で隅が少し厚くなること。屋根裏の持ち送りがはっきりしないところなどである。奈良時代前半の作品とされる。蒲生一帯は百済系の人々が多く住んだ場所である。
日本書紀には天智天皇8年の 669年に鬼室集斯はじめ百済からの渡来人700名をここに住まわせたという記録がある。
そのためこの近くには鬼室神社はじめ、オンドルの遺構など渡来人の生活を思わせる遺跡がある。
おそらくその百済からの渡来人が郷愁の念からこの百済式の石塔を建てたのであろうと考えられている。パンフレットとアプローチ
JR大阪から近江八幡へ、近江鉄道に乗り換え、八日市経由で桜川で降りる。
桜川駅から東へ約2.2km歩く。畑の中の真直ぐな道で気持ちがいい。
石塔寺に着につく。まず、本堂と庭をみる。
急な石段を上る。周りは五輪塔と石仏。
重文 阿育王塔(奈良時代前期)
さながら、シマチョゴリ(朝鮮の伝統的女性衣装)で舞う朝鮮娘を彷彿させる。 ・高さは約8メートル
・笠の厚みは3層とも70センチ
・笠の横幅は角度20度の四角錐に沿っている
・軸石の幅は上の笠の幅の2分の1の正方体
石造宝塔(重要文化財、鎌倉時代後期 正安四年 1302年、花崗岩、高さ 164Cm)
五輪塔二基(重要文化財、向かって左:鎌倉時代後期、右:南北朝時代)
周囲は累々たる五輪塔と石仏である。
真直ぐに道をたどり、桜川駅に戻り、JR貴生川に向かう。
参考資料
日本の中の朝鮮文化HP
河合 哲雄氏HP
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