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滋賀県東近江市 鬼室神社

KIshitsujinja,Higashiomi city,Shiga

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Aug. 2013 中山辰夫 

東近江市日野町小野304 日野の街から北東約4km

鬼室神社の建つ小野集落は、小高い丘に挟まれた農村で、過疎化も進み僅か三十数戸の小さな集落である。

この集落の中間南側の田んぼの中に佇んでいる。最近建てられた休憩所が目につく。

社名の由来は本殿裏の石祠の八角形の宝珠状柱石が祀られ、これが百済からの渡来人鬼室集斯の墓であると文化3年(1806)に西生懐忠らが発表したことによる。 神社には鳥居と質素な本殿、石灯籠があるのみで、江戸時代までは不動明王を安置する不動堂であった。

『社殿は瓦葺で、社殿というより神楽をあげる舞台らしい。

その背後に神殿が小さく苔の上に置かれている。置かれているとしか言いようのないほどの小さな神殿で、石造である。高さは1m強で、そのそばに樹齢四百年ばかりの杉が聳えているため、その根方の花崗岩の神殿は肌に湿気をふくみ、青ざめて見えた。・・・』「街道をゆくより」

高さ1mの石造の祠の中に、高さ48cmの八角形の墓石があり、一面に「鬼室集斯之墓」と刻まれている。

さらに、左面には「朱鳥三(688)戌子十一月八日没」、右面には「庶孫美成造」と彫られている。孫の美成なる人物によって建碑されたとされる。

しかしこの墓については非常に信憑性が薄く、古来から疑問視されている。と刻まれている。 現在も地元の人々に手厚く守られており、鬼室集斯はむろん、古代近江における渡来人・渡来文化の歴史と文化を身近に思い起ことができる。

毎年11月8日には小野の人達で祭礼が行われる。 集斯は660年の百済滅亡後、倭国の援助を得て、その復興運動の中心となった、鬼室福信の親族とみられ、日本書紀の天智8年(669)に有名な一節に、「この年、佐平(さへい)余自信(よじしん)・佐平鬼室集斯ら男女700余人を近江国の蒲生郡に移住させた」とある。これより先、天智4年(665)に「百済の百姓男女四百余人を以って、近江国の神崎郡に居く」とあることから、集斯らの遷住は蒲生・神崎両郡の百済系遺民を統括する意味もあったとされる。

彼らは、当時劣悪な未開の原野であった蒲生野を開拓し、その地で水田を開発した。 現在の広大な水田地帯の礎をつくったのである。彼らがなめた辛酸の日々に思いを興さなければと思う。渡来人たちが近江の国の発展に寄与した歴史的意義は計り知れない。 鬼室集斯は、渡来人の首長の一人で、鬼室王ともいわれた。高官ということもあり、大和朝廷に仕えて天智天皇の信任を得、学頭職(ふみやつかさのかみ)として官吏の養成に活躍した。『日本最初の大学総長が百済人であったという歴史が出発した。』と司馬遼太郎が 「街道をゆく」に記している。

鬼室集斯は晩年、職を辞して、この地で没したとされる。 父の鬼室福信が韓国の扶余郡恩山面にある恩山別神堂に祀られていることから、日野町と恩山面との姉妹都市交流が盛んに行われており、案内板などは韓国語が併記されている。最近建てられた休憩所『集斯亭』

参考資料≪近江学、街道をゆく、他≫

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