滋賀県東近江市 高木神社
Takagijinja,Higashiomi,Shiga
Category
|
Rating
|
Comment
|
General
|
|
|
Nature
|
||
Water | ||
Flower | ||
Culture |
|
|
Facility | ||
Food |
東近江市蒲生岡本町709 高木神社 本殿 重文 近世以前/神社 室町後期 永正9(1512)頃 三間社流造、向拝三間、檜皮葺 棟札1枚、棟札2枚 19150326
東近江市蒲生岡本町709 高木神社 境内社日吉神社本殿 重文 近世以前/神社 室町後期 永正9(1512) 三間社流造、向拝一間、檜皮葺 宮殿1基 19150326
July 29,2023 大野木康夫
source movie
拝殿
本殿、境内社日吉神社本殿(重要文化財)
本殿
境内社日吉神社本殿
February 11, 2022 野崎順次 source movie
滋賀県東近江市蒲生岡本町709
御祭神 高御産巣日神
御神紋 左三つ巴
創祀年代不詳。古の麻生荘(上麻生、下麻生、岡本、田井 大森)の総社であった。三代実録貞観7年10月26日の際、授近江国正六位上麻生神従五位下という浅生神は当神社である。境内の日吉神社は建武5年足利尊氏が麻生荘を京都祇園神社の社領として分祀したものと伝えられている。明治9年村社に加列。
(滋賀県神社庁ウェブサイトより)
現地説明板
南の鳥居から境内へ
拝殿
境内社八幡神社
本殿(向かって左)と境内社日吉神社本殿が並ぶ。共に国指定重要文化財である。
国重文 高木神社本殿 室町後期/1512頃
三間社流造、向拝三間、檜皮葺
高木神社の創立は不詳だが、現在の本殿は厨子扉の銘により永正9年(1512)の建立と考えられる。手挟、拳鼻に穏健かつ豊美な意匠で、建築形式は全体に優雅であり室町時代の神社建築の特徴をよく示す。
(文化遺産オンラインより)
国重文 境内社日吉神社本殿 室町後期/1512
三間社流造、向拝一間、檜皮葺
高木神社の創立は不詳だが、境内社日吉神社本殿は高木神社本殿と同じ永正9年(1512)頃の建立と考えられる。高木神社本殿より規模が小さく意匠も略式だが、建築形式は全体に優雅であり室町時代の神社建築の特徴をよく示す。
(文化遺産オンラインより)
国重文 高木神社石燈籠 鎌倉時代後期 正和四年 1315年、花崗岩、高さ 212cm
頂上の宝珠は火焔付で、笠の蕨手(わらびて)は巻込み内を貫通する。中台は側面を二区にし、格狭間内に一茎蓮と宝瓶三茎蓮を刻出する。火袋は、各面上に二連の連子窓、下に格狭間を刻む。中央部は、円窓と散蓮華一片の窓を透かす。火袋の一面、中央部に三行にわたり
「奉造立燈炉、正和口乙口三月三日、大勧進盛口」の刻銘がある。正和の干支で乙がつくのは四年のみで正和四年(1315)乙卯の造立と考えられる
(河合哲雄「石仏と石塔!」ウェブサイトより)
奥の石燈籠(写真では手前)は、重文の石燈籠を模刻した江戸時代後期 天保九年(1838)の作
(河合哲雄「石仏と石塔!」ウェブサイトより)
その他境内
2012.9.2撮影
岡本村
上麻生の東に位置し、東半分は丘陵地、集落をほぼ南北に御代参街道が通り、江戸時代には宿駅がおかれた。
集落はかつて丘陵近くにあったが、のち街道沿いに移転したという。
日野大窪町(現日野市)のうち岡本町は当地出身者により形成されたといわれる。
天明年間(1781〜89)には村の大半を焼く大火に見舞われている。
当地出身の堀井新治郎は明治26年(1893)シカゴ万博を見学、帰国後謄写版印刷法を開発、のち輪転謄写機も発明している。
これについては別途、「ガリバン伝承館」の項にまとめる。高木神社東近江市蒲生岡本町祭神:高皇産霊神・大己高命
祭礼:四月十五日岡本集落内にあって、旧村社。境内に日吉神社がある。
落ち着いた境内である。本殿と日吉神社本殿が国重要文化財である。また、本殿前に建つ(右側)六角石灯籠も国重要文化財である。
本殿で行なわれるケンケト祭は国の無形民俗文化財に指定されている。
行基が麻生庄にきて一院を建て高木神社の守護寺としたが、兵火でやかれたため、今から400年前に、現在の位置に再建された。
社伝によれば、天智天皇の第ニ皇子梵天王は、お付のもの2〜3人を連れて岡本へ移住し高岡宮を建て、この地で暮らしていたが、28歳の若さで亡くなり残りの付き人に麻生庄を譲られた。
高木神社は神亀元年(724)に創建され、高皇産霊神・大己高命が祀られている。
「古事記」神代記に「高木神は、高御産巣日神の別の名ぞ」とあることから、のち高木と改めたとする説もある。
貞観7年(865)に、麻生神に従五位下の神階が授けられているが、この麻生神は当社に比定される。文明17年(1485)の山部神社文書に、「惣社 高木大明神」とあり、中世には麻生庄の総社とされていた。拝殿
入母屋造 間口四間 奥行四間
中野村出身の画家林東渓が慶応元年(1865)に描いた鶏図絵馬が掲げられている。
本殿
国指定重要文化財
三間社流造 間口三間三尺 奥行三間三尺、檜皮葺、厨子扉に永世9年(1512)の銘あり。
境
内社
日吉神社本殿
国重要文化財
三間社流造 檜皮葺、本社本殿と同時期の造立とされる。
本殿と並んで建つ。
六角石灯龍
国重要文化財
本社本殿前右手に建つ。正和4年(1315)の造立。
六角形灯籠で、高さ2.2mあり。各部全体が揃っている。
火袋に正和4年(1315)の刻銘があって、鎌倉時代の造立とされる。
この石灯籠は各部も揃い調和がとれており、県内の鎌倉時代に造立された石灯籠の中でも代表する一例である。
石造七重塔
市文化財
近江のケンケト祭り・長刀振り祭り
国選定無形民俗文化財上麻生旭野神社、下麻生山部神社と合同で執行される春の祭礼において、奉納される踊りである。田楽の系譜を引く。
神輿渡御の行列には丸帯を七振り掛けた大太刀を持つ者が加わり、帯掛祭りの別称でも知られる。
岡村宿
岡本村に置かれた御代参街道の宿駅。
石原宿(現日野町)と合宿で、下りが当宿、上りは石原宿を利用した。
当地では常楽寺(現安土町)方面へ向かう通称安土越えの道や上麻生から日野川沿いに北西に向かい中山道へ通じる通称京道などが分岐していた。
宿には問屋も置かれ茶屋などもあり、現在も川口屋・高砂屋・桝屋・山形屋。丸屋・鍛冶屋・中井屋・箒屋・和泉屋・綿屋・煙草屋 角屋などの屋号も残っている。
御代参街道
旧東海道土山宿から、日野・八日市を経て旧中山道小幡(五個荘町)を結ぶ。
距離は約36kmで東海道と中山道を結ぶバイパス的な形態をとっていた。
御代参街道は、全国的にもめずらしいその名称の起こりは代参(名代)による。即ち、江戸時代の中期に禁裏御所・仙洞御所などから毎年正月・五月・九月の三回、伊勢と多賀に祈願するために公卿以下が名代として参詣したときに通行した街道に由来するとされる。
伊勢と多賀には多くの人が参詣した。
寛永17年(1640)三代将軍徳川家光の乳母春日局が代参に参詣し、街道が整備されたといわれる。
この街道は参詣の道・信仰の道であるとともに商人の道でもあった。街道筋には日野・八幡・小幡・五個荘・愛知川といった近江商人の輩出地が連なり商人たちの重要な道として利用された。また、北国への一でもあった。
今はこの道に沿って近江鉄道が走っている。参考資料《近江蒲生郡誌、神崎郡誌、滋賀県の近世社寺建築、滋賀県の歴史、滋賀県の地名、他》
All rights reserved 無断転用禁止 登録ユーザ募集中