滋賀県東近江市 竹田神社
Takedajinja ,Higashiomi,Shiga
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Sep. 2010 撮影: 中山辰夫
鋳物師村(いもじ)は岡本村の南に位置し、現蒲生町の南東端にあたる。
東半は丘陵地で、中央を御代参街道が通る。集落は街道沿いの本村日野川西岸の新田にわかれる。
かつては鋳物師業を生業としていた家があったという。
天正年中(1573〜92)に当地住人に名が文書に散見する。寛永2年(1625)仁正寺藩領となり、幕末を迎える。
鋳物師には西誓寺、涌泉寺、竹田神社などがある。東近江市蒲生町鋳物師1020 (いもじまち)祭 神:天津彦根命(あまつひこねのみこと) 天目一箇命(あめのまひとつのみこと)
配祀神:大己貴命(おおなむちのみこと) 石凝姥命(いしこりどめのみこと) 大屋彦命(おおやひこのみこと) 近江鉄道朝日野駅から見える。歩いて7分の距離にある。訪れた日は末社・抒原神社例祭の日で、本殿をゆっくりと拝観できた。
本殿は京都の宮大工の手でなされたため、当時の近江の社寺建築の先を行く諸工法が採用されているとされる。
静かな神域の中に佇んでいる。
この地を開拓したとされる木造夫婦像(国重文)がある。
なお、地名の鋳物師(いもじ)は、この辺り鋳物を造る工人達の住居地であったとされる。天目一箇命は日本鍛冶の祖神である。
隣町の日野は鉄砲鍛冶の栄えた町であり、関連が考えられる。
社伝によれば、崇神天皇の御代明神森の地に創祀し、延暦6年(787)坂上田村麿が社殿を再造した。
延喜式内の菅田神社は当社であるとし、寛仁元年(1017)今の地に移し地名竹田により竹田神社と改める。
天目一箇命を奉斎するのは古へ毎年9月19日の祭目に稲60穂を伊勢の多度神社に送るならわしがあり、同神の分祀であることを語る古例である。
境内に古い石燈籠一基あり康永3年(1344)足利尊氏の寄進と伝へている。
文亀3年(1863)の乱、兵燹に罹り社頭炎上し蒲生賢秀が再建をする。爾来蒲生家代々の崇敬厚く、天正2年(1574)蒲生賢秀は神田及び狛犬一対を奉納する。
豊臣秀吉の時、神能を奉献し「竹田の神能」と称し爾来相伝する。
慶長6年(1601)豊前小倉の藩士伴治左衛門が当社の祭礼の衰退するのをおしみ金一両を寄進する。祭供料と爾後例年奉納する。
宝永2年(1705)2月吉田の卜部家より正一位の宗源宣旨を受けた。本殿は社蔵棟札により享保16年(1731)に再建されたもので、京都四条の大番匠谷口五兵衛重治の手になる。
手水舎
西出仕屋
平成三年改築
能舞台
豊秀吉奉納の神能と伝わる神能(菅田)は観世織部の代より中絶していたのを、明治32年(1899)観世清廉が再興した。
竹田神社には、東近江市指定文化財の能舞台がある。鋳物師村から関東へ出店し近江商人として成功を収め、商売の傍ら趣味である能楽の稽古に励んでいた竹村太左衛門氏と竹村猪八郎氏が、費用の大半を出して明治27年(1894)に完成したもの。
豊臣秀吉奉納と伝えられる謡曲「竹田の神能」を舞うことが出来るようにと建造された。
豊秀吉奉納の神能と伝わる神能「菅田」は観世織部の代より中絶していたのを、明治32年(1899)観世清廉が再興した。
この舞台では明治から大正にかけてよく能が上演されたといわれる。
最近、町民有志で構成する"能舞台を活かす会"が結成され、この能舞台で「狂言を観る会」を催している。
拝殿
入母屋造 間口二間三尺 奥行二間三尺
幣殿
本殿
日吉造 間口二間三尺 奥行二間三尺
本殿は高覧欄や脇障子を除くと方三間仏堂の造りをもち、柱上端の粽(ちまき)や台輪、火頭窓、肘木曲線に禅宗様式を採用している。
平面的には身舎前二間を外陣、後一間を内陣にとり、内外陣境を幣軸付板扉構として、広い外陣空間をつくり、外陣床畳敷、鏡天井 内陣床畳敷、格天井として、外陣には燈明、祭壇をしつらえる。
保存度の極めてよい建物で、木柄は太くしっかりした造りをもち、蟇股をはじめ絵様繰形は享保の建立にしてはやや進んだ感じを受けるが、これは京都大工によるからかも知れない。
社務所
樺 桜
北条時頼諸国行脚の際、当社に参拝し “近江なる桧物の里の樺桜 折る人もなき秋の夕暮“と詠んだ古木である。
境内社
呉姫神社
呉姫を祀る。古来、綿、綾製織の人のところの神にして、女子の手芸を祈り灯を献じ果物を供したり。その傍らに小姫川ありまた、服部の地名存す。古へ錦綾製織の工人祀る所なりと伝う。経緯紋と称する古池あり。織物を染めるにこの水にて練れば糸痩せずと。
抒原神社
俗称山王さんと云い、猿田彦命、天宇受売命を祀る。昔栩原郷の産土神として栩原丘上に鎮座ありしを、天文年間当社に祀る。
伊佐雄志神社
昭和27年創建、明治10年以降旧朝日野、北比都佐村より出で国難に殉じたる英霊を祀る。
木造男神坐像 二躯
国重要文化財:鎌倉時代作
古代に、蒲生地区を開拓した地元の豪族、蒲生稲寸三麻呂(がもういなすみまろ)夫婦の像といわれている。
神像とは、仏像彫刻の影響を受けて生まれたもので、男女を端坐する姿に表すことが多く、本像もその一例である。
像高は30cm以下の小像で、一木彫りと思われ、鎌倉時代の作とされる。
石造鳥居
鋳物師集落を通る御代参街道に建立されている鳥居である。ここから参道となって神社に続いている。
六角形石燈籠
康永3年(1344)の作
木造の狛犬
江戸時代の後期に不思議な遊行僧で全国を行脚した「木喰上人」が彫ったと伝わる木造の狛犬が伝わる。
鋳物師村
鋳物師村にある菅田神社(現竹田神社)に奉納された神能菅田の間詞には
「当社の野間勘六と申すは、後冷泉院御宇天長4年(1056)6月大日本鋳物師頭領を承りて候が、其御仁平3年(1153)内裏に怪鳥あらわれしを、源三位頼政が一矢に射落し給う。
其御時に御殿の燈皆消えて候。中に勘六が鋳たりと申す当社より献上の燈籠ばかり、ただ一つ消え残りたればとて、此その名鋳物師と下し給ひて候。」
とある。古い関わりが残されている。
百足山は、近江富士で知られた三上山のことであるが、ムカデと鉱脈との関連も研究されているようで、鋳物師の歴史も深いようだ。
御祭神の説明天津彦根命(あまつひこねのみこと)
天照皇大神の御子にあらせられ、国土を開拓し、農具を造り、農耕を教え給ひし神にましまして、蒲生稲置の祖神と崇め奉る。天目一個命(あめのまひとつのみこと)天津彦根命の御子にあらせられ、草薙の御剣を製造し給ひし神にましまして、日本鍛冶の祖神と崇め奉る。石凝姥命(いしこりどめのみこと)
神鏡、八咫鏡を鋳造し給ひし神にましまして、鋳物師の祖神と崇め奉る。大巳貴命(おおなむちのみこと)
世に大黒、恵比寿と並び称得て、福の神と仰ぐ神にましまして、国土開発、産業振興、諸病を治め給ひ、また縁結びの神として崇め奉る。大屋彦命(おやひこのみこと)
樹種を分播し、植樹し給ひし神にましまして、木材を扱い、家宅を建つる工匠等の崇め奉る神にまします。
参考資料《滋賀県の近世社寺建築、近江蒲生郡志、パンフレット、他》
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