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滋賀県彦根市 彦根城

Hikone castle,Hikone,Shiga


June 2011 酒井英樹

撮影:2007年3月〜2008年11月

 琵琶湖に近隣の山が迫った平地に立地し、交通の要所(中山道と北国街道の分岐点、現在でも隣市である米原市は名神道と北陸道、東海道本線[バイパス:東海道新幹線]と北陸本線の分岐点)として知られる湖東地域の中心地に建つ。速ければ京へ1日程度で移動できることなど戦略的拠点として重要であった。徳に戦国末期には天下情勢の趨勢を期する合戦(姉川の役・賤ヶ岳の役・関ヶ原の役)が繰り広げられている。

 豊臣時代は譜代の五奉行筆頭の石田三成が佐和山城[現在の彦根城の南に位置し、長寿院などが残る]に配置された。関ヶ原の役後、大坂には豊臣秀頼が存在し、西国には豊臣恩顧の諸大名が控える中、徳川政権の最前線となるこの地に徳川四天王(徳川四天王:酒井忠次[筆頭]・榊原康政・本多忠勝・井伊直政)の一人である井伊直政が譜代大名で最高禄高の18万石で配された。大坂の役後に徳川譜代は姫路[藩主:本多・榊原・酒井(雅楽頭宗家)]、福山[藩主:水野]を領するようになり最前線は西進するが、政権発足直後の不安定な時期に最前線を任されたのは関ヶ原の役で先陣の功を得た徳川精鋭軍[井伊の赤備え]を持つ井伊家が担った。

 井伊直政は慶長6年に佐和山城に入ったが、佐和山城は関ヶ原の役後の籠城戦で荒廃していたため、新城の計画がたてられた。

 直政は関ヶ原の役の戦傷が癒えずに慶長7年(1602)に死去したため、跡を継いだ井伊直継が湖岸に近い彦根城を築城した。工事は3期にわたり、政局不安な情勢下急ピッチで進められた。1期及び2期(慶長8年から慶長11年(1603-1606))は天下普請で施工した。しかし、後の大坂城などの天下普請とは異なり親藩・譜代大名(尾張藩[藩主:家康の4男松平忠吉]、越前藩[藩主:家康の次男結城(松平)秀康]など)を中心に12家が助役となった。第3期は井伊直孝が独自で御殿などを築き大坂の役直後の元和2年(1622)に彦根城は完成した。

 政情不安定な時期における最前線の城として短期間で築城する必要性や身内の助役のため工事費のコスト縮減の観点から佐和山城を初めとする近隣の城からの移築した建造物が多くなった。

 江戸期を通じて井伊家が城主を務め、禄高は加増を繰り返した結果、ほぼ倍増の35万石まで達した。(飛び地として遠くは現在の東京都大田区にも領地があり代官所(建造物は現存)が置かれていた。)大きな被災もなく幾度かの修理を経て創建時の建造物を伝えてきた。

 しかし、明治期になると不要な建造物は壊されたが、天守等は大隈重信の功により取り壊しを免れた。第二次世界大戦末期の空襲にも遭うことなく創建時の建造物5棟を現存し合計7棟の建造物が重要文化財(天守は国宝)、石垣等の保存状況もよく城跡が特別史跡に指定されている。

 また昭和62年(1987)に御殿(表向:外観のみ復元、奥向:復元)を再建し彦根城博物館を開館させている。

<天守>  天守の部材に残る墨書によって慶長11年(1606)に完成したことが明らかになっている。独立天守で北西隅に附櫓が付き、これから東へ長い多聞櫓が連なる。北面の東寄りには玄関があって、石垣内の地下入口に通じる。外観は4面ともに唐破風や千鳥破風が多用され、複雑な様相を見せるが、構造的には入母屋造の上に二重の楼を載せた形で、これを軒先の変化で華やかに造形している。特に三重の軒に唐破風を使う意匠は現存最古の例である。また石垣上に土台を回らして水切板を伏せ、柱は太さの半分だけ内転びに立て、柱頂に桁と梁を組み回らして順次上層の柱を受ける方法がとられ、通柱を用いない。壁は大壁で軒まで塗籠めるが、腰回りを羽目板で覆い、外壁には栗石を詰めた。各階とも側回りに武者走りがあり、長押・建具で仕切られた2室が設けられている。窓は一重が突揚戸、二重と三重は花頭窓で、三重には高欄付きの縁があるが、これも各面中央部は軒破風の棟で切られているので装飾的なものである。外部の装飾も華麗で、鯱や棟紋瓦は金箔を押し、軒唐破風は黒漆喰に金箔金具を用い、花頭窓や高欄も漆喰を塗る。狭間は全て隠狭間として、石落しは設けていない。

 井伊家の記録によると大津城の天守を移築したとされるが、昭和30年(1955)の修理の際に柱・梁・桁等に前身建築物を移築した形跡が認められた。前身の建造物は4重5階で1階と2階、4階と5階に通柱を持つ真壁造の天守であったことが推定される。大津城天守は京極高次の居城で関ヶ原の役の前哨戦で西軍に攻められ、相当な破壊を被ったと伝えられる。京極氏の跡を継いだ戸田一西は直ちに膳所城を築いて移っていることから大津城は荒廃していたと想定されるため、部材の再利用に過ぎないと考えられる。 三重三階、地下階段室玄関付、本瓦葺、塗籠、一重腰羽目板張、縁高欄、花頭窓

 桃山時代[慶長11年(1606)]  

[2007年3月撮影]

        

 [2007年11月撮影]

  

 [2008年8月撮影]

  

 [2008年11月撮影]

  

<天守附櫓及び多聞櫓>  附櫓は天守東台地を固め、多聞櫓はその南方に連なる。独立天主に属する附櫓と多聞櫓の組み合わせの一例、多聞櫓は床高が高く外壁を塗下げる。 各一重櫓、本瓦葺、塗籠、附櫓腰羽目板張

 桃山時代[慶長11年(1606)]

 [2007年3月撮影]

 

 [2008年11月撮影]

  

<太鼓門及び続櫓>

 太鼓門は天守入り口に構えられ、南面した渡櫓門に続櫓が東側に付く。櫓部分の床天守台地面にほぼ等しく、門は天守台石垣の内側から造られた石階段で降りる構造になっている。この門は登城時に鳴らす太鼓が置かれていたと伝えられ、格子建の窓以外は狭間も石落しは設けない。

 慶長時代の築城時に移築したと伝えられるが、その前身建造物は明らかでない。昭和31年 (1956)の修理で太鼓門の移築が確認され、前身の建造物が現状より一回り大きかったことがわかった。続櫓からは移築の形跡が確認できなかった。 太鼓門:脇戸付櫓門、西端切妻造、東端続櫓に接続、本瓦葺、大壁造、軒塗籠

 続 櫓:一重櫓、入母屋造、本瓦葺、塗籠

 桃山時代[慶長年間(1596〜1615)頃]  

[2007年3月撮影]

 

 [2008年11月撮影]

  

<天秤櫓>

 天秤櫓は太鼓門から一段下った位置に東面して建ち、本丸への正面入り口を扼す。櫓の外側は高い石垣で、東方の鐘之丸と相対し、その間を石垣途中から頬杖柱支えられた木橋が架けられている。非常時にはこの橋を落とすことで本丸を守る要衝であった。

その独特の形状から天秤櫓と呼ばれている。櫓は石垣上に建つが、門は石垣を切り下げて構えられている。櫓の両端が後方に折れ曲がるコの字型平面で、両隅に各2重2階の櫓を載せる。隅櫓はともに方形で、一見左右対称に見えるが、北隅櫓が棟を南北に、南隅櫓が東西に置くため左右非対称の意匠を持つ。

 井伊家の記録では長浜城の大手門を移したと伝え、部材の一部に痕跡が認められる。瓦に長浜城主であった内藤氏の家紋を示すものが混在していた。嘉永7年で大規模な修理が施され、移築した部材がほとんど残っていない。また、石積みが積み直されたため、形式の異なる石垣が混在する(向かって右側が江戸初期の石垣、左側が江戸末期の石垣)。 中央部一重櫓門、両端二重二階隅櫓、両隅櫓背面続櫓、各本瓦葺、塗籠

 桃山時代[慶長年間(1596〜1615)頃]  

[2007年3月撮影]

        

 [2007年11月撮影]

    

 [2008年11月撮影]

     

<西の丸三重櫓及び続櫓>

 西の丸三重櫓は西の丸の南西隅に建つ。三重の隅櫓の北と東に多聞櫓が取り付けた形で、三重櫓の三重四方と二重及び続櫓の外面のみに格子建の窓がつき、続櫓の内面に4戸の出入り口があって土戸を建て、隅櫓へはこの続櫓から板戸戸口を経て出入りする。隅櫓1階は入側柱と中央に中柱が立ち、2階は中柱のみ、3階は中柱もなく、各1室である。続櫓は棟通りに中柱が並び、大梁と束踏梁を受ける。ともに大壁塗籠で、外回りの建具は土戸を用い、三重櫓の一重と続櫓の外面に狭間が露わになっている点では、天守や天秤櫓と異なる。意匠は簡素で、実用的な建物である。小谷城から移築したと伝わるが、小谷城落城から時間が経過しており、この間近江の旧城は織田信長によって取り壊されていることから伝説の域を脱していない。また昭和35年(1960)の修理の祭にも転用材の痕跡が見つかっていない。筆頭家老の木俣家預かりで、陪臣(大名の家来)でありながら1万石の領地を所領する木俣家の政務場所として使用された。 三重三階櫓、北東及び南東続櫓各一重、総本瓦葺、総塗籠

 桃山時代[慶長年間(1596〜1615)頃]  

[2007年3月撮影]

      

 [2008年11月撮影]

  

<佐和口多聞櫓>

 佐和口多聞櫓は二の丸の西端部にあり、外堀に面して折曲りに続く櫓である。かつて連なって建っていた佐和口門は明治初年に取り壊されその際に多聞櫓も取りつけ部の約1mが取り壊された。佐和口は搦め手に当たり、城構えとして大手の京橋口とともに重要な部部であった。井伊家の記録から元和8年頃には完成したと考えられている。その後明和4年(1767)には火災に遭い、明和8年(1771)に再建された。平面は稲妻形に屈折した形状で平櫓が連なって建ち、南端に二重櫓が接続する構造となっている。内部にはかつて棚のあった痕跡があり、平常時は倉庫として使用されていた。 矩折一重櫓、東南端二重二階櫓、総本瓦葺、塗籠

 江戸時代[明和8年(1771)]  [2007年3月撮影]

  

 [2007年11月撮影]

 

[2008年11月撮影]

    

佐和口多聞櫓内部 [2008年11月撮影]

     

<馬屋>

 馬屋は佐和口門の内側から西に延び南に折れ曲がる建物である、南端部に門があり、かつてはさらに南に同様の建造物があった。現存部は馬屋として使用され南側は長屋であった。明和4年(1767)に佐和口多聞櫓が焼失した際に罹災したが多聞櫓の復興とともに修理されている。この際在来のこけら葺の上に桟瓦をのせたが、昭和42年修理の際にこけら板が当初のものと判明し、経年変化からみて元禄頃の建立されたと推定される。城郭の附属施設としての馬屋は、唯一の遺構であり貴重である。 東西棟:正面25.2m、側面5.9m、一重、入母屋造、こけら葺

 南北棟:正面31.1m、側面5.9m、一重、南面入母屋造、北面東西棟に接続、こけら葺

 東端に仲間部屋1室、馬20頭を収容

 江戸時代[元禄年間(1688〜1704)頃]  [2007年3月撮影]

   

 [2008年11月撮影]

   

馬屋内部 [2007年11月撮影]

  

[2008年11月撮影]

  

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