滋賀県彦根市 長久寺
Chokyuji,Hikone city,Shiga
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February 23,2024 大野木康夫 source
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境内
本堂(滋賀県指定有形文化財)
Dec.2011 中山辰夫
彦根市後三条町59 宗派:真言宗豊山派
本尊:千手観世音菩薩長久寺は彦根城の南方約1.5kmにある雨壷山(あまつぼやま)の西山麓に所在する。
関が原合戦後の佐和山城攻めの時、家康が本陣を置き、落城の様子を見ていた寺との説もある。
長久3年(1042)高野山の学僧善応僧都が開創という古刹である。創建時の年号を寺名とした。
山麓斜面を利用して、所狭しと諸堂が建っている。
本堂の観音堂は桃山時代末期の様式をもつ均整の取れた建物で、県指定文化財である。
全景
山門
虚空蔵堂 前方左側に見える社屋でまだ新しい。
書院 山門の右側に建つ。
御影堂(みえどう) 書院の奥に建つ。
本堂(観音堂) 石段を上る
滋賀県指定文化財
聖徳太子の作とされる本尊、秘仏・千手観世音菩薩を祀る。
桁裄三間 梁間三間 入母屋造 向拝一間 銅板葺 寛永6年(1629 擬宝珠銘)
円柱 組物出三斗 中備正面蟇股他三面間斗束 二軒繁垂木 向拝角柱 組物連三斗 中備蟇股 手狭 妻飾紅梁大瓶束
三間の小堂ながら柱などの木柄が太く、軒の出を深く取って中世的な雰囲気すら感じられる均整の取れた建物である。
方三間堂で中央間18支、脇間14支。
正面は蔀戸、両側面前方の間に板扉を吊り他は板壁にする。
柱・組物などには当初の彩色手法が残されている。
蟇股は桃山期のなごりを残しているが、輪郭一杯に彫られた図案は寛永の華やかさを表わす。
鐘楼 本堂の左側に位置する。石段を登る。
近世の社寺が井伊家、藩士、民衆との信仰によって維持されてきた。寄進も多く、鐘堂は沢村角右衛門が寄進した。毘沙門堂 鐘楼の上、崖に建っている
由緒
延久年間(1069〜74)に後三条天皇の帰衣厚く皇后の祈願所となり隆昌を極めた。
天正元年(1573)、信長の兵火で本堂や諸伽藍はすべて焼失したが、本尊は池に投げ込まれて難を免れた。
彦根藩時代になって藩の守護寺、祈祷所として復興した。
「福聚の梅」
彦根市指定保存種
源頼朝手植えとされる、樹齢約800年の梅が毎年咲き誇る。
関が原合戦後の佐和山城攻めの時、家康が本陣を置き、落城の様子を見ていた平田山麓にある寺
佐和山城の落城を見届けた家康が、この紅梅を見たことから、この古木が「御覧梅」と呼ばれるようになった。
寺宝木造毘沙門天立像−平安時代 ・木造不動明王立像−平安時代
彦根市指定文化財
「番町皿屋敷」
元禄,1700年頃、彦根藩士「孕石(はらみいし)政之進」は独身の当主で、足軽の娘お菊を侍女に召抱えていた。
いつしか二人は相思相愛の仲となった。ところが亡き父親が取り決めていた許嫁がいた。こころ穏やかでない「お菊」は政之進の気を確かめようと、藩主からもらった家宝の皿をわざと一枚割ってしまった。「わざと割った」と知った政之進は、武士の誠が信じてもらえなかったと、泣く泣くお菊を手打ちにし、残りの9枚の皿をその場で割った。その皿のうち6枚が今も当寺に残っている。家宝の皿は、初代井伊直政公が関が原合戦の戦功により、家康公から拝領したもの。
孕石家は古くから井伊家に仕え、大阪冬の陣で手柄をあげたことで10枚賜った。
皿は、中国古渡りで縁に州浜模様が付いた白磁の洋皿。
お菊の怨念のこもった皿は、母親が供養のため長久寺に奉納した。お菊の法名「江月妙心」、境内無縁塔の仲に墓石が立つ。
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