滋賀県彦根市 龍潭寺
Ryotanji,HIkone City,Shiga
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春−枝垂れ桜・つつじ、6月—あじさい・沙羅、夏—むくげ、秋−紅葉 |
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July 3, 2022 野崎順次 source movie
滋賀県彦根市古沢町1104
臨済宗妙心寺派
弘徳山 龍潭寺
龍潭寺は、天平5年(733年)遠江国引佐郡(現・静岡県浜松市北区引佐町)に行基によって開かれたと伝えられる。平安時代中期一条天皇のころに井伊共保がここで葬られたことから、井伊氏の菩提寺となった。禅宗寺院となったのは室町時代末期井伊直平の代のようである。それが、慶長5年(1600年)に井伊直政が近江国佐和山城に転封となると、龍潭寺の五世昊天宗建禅師を当地に招いて遠江国から分寺して建立したのがこの寺である。
(ウイキペディア「龍潭寺(彦根)」より)
パンフレット
総門から山門へ
子授地蔵尊、仏足石、大洞観音堂など
方丈内部へ、龍潭晩鐘、桜の図(桃山時代)など
方丈南庭 ふだらくの庭 開山昊天和尚作 江戸初期
一面に白砂を敷き、大小四十八石を配して観音菩薩の浄土である補陀落山(ふだらくさん)の一帯をかたどった江戸初期の枯山水の名庭です。平安時代の僧慧萼(えがく)が中国に渡った後、観音様を抱いて帰国する途中に上海沖の舟山列島まできたとき観音菩薩の導きによって、島のひとつに補陀落山寺を建てて観音様を安置されたという故事にちなみ、その霊場を顕わしています。白砂は大海、砂紋はさざ波、庭の向う側の垣根は前が水平線、後方が遥か彼方の雲。中央の島が補陀落山で、中天の大きな立石は観音さまの立ち姿。島右手の石は慧萼の舟で私たちの世界から仏さまのの世界への渡し船となっています。観音様を中心に、石を四方八方に放射線状に並べた作庭は、どこから見ても真ん中に中心があるという安心感と安定感があり、雑念を払い平安をもたらします。
(本寺パンフレットより)
方丈の奥へ
市文 方丈襖絵五十六枚
芭蕉門十哲の一人、森川許六作、狩野派の流れをくむ名宝
創建時の姿を今にとどめる方丈は、彦根藩に仕える武家であり、俳人であり、画人でもあった森川許六(きょりく)の筆になる襖絵で荘厳されています。許六の名は、六芸に通じた多芸の才人だということで松尾芭蕉がつけたとされ、後に芭蕉の門人を代表する蕉門十哲に数えられています。絵は、狩野探幽の弟である安信に学び、芭蕉門下では許六が絵の師とされていました。
本寺の襖絵の特色は、山水・人物・花鳥・走獣など十種に及ぶ画題の多様さ、さらに狩野派の流れをくみつつ居六独自の個性が表現されていることもあり、貴重な作品として彦根市指定文化財となっています。
(本寺パンフレットより)
森川許六筆 下閒 獅子の間
仏間
森川許六筆 上閒 鶴の間
沢山のだるま、だるま祭りで入魂されたとか。
森川許六筆 群仙の間
森川許六筆 七賢人の間
森川許六筆 群馬群禽の間
市名勝 書院東庭 鶴亀蓬莱庭園 江戸初期
開山昊天和尚と小堀遠州合作。佐和山の峰を借景にし、築山は過去現在未来すべての仏さまをまつる浄土の世界。池は龍潭寺の寺号にあやかり、玲龍の池といい、左の岩島が亀島で、右の槙木を中心に鶴を表わしています。さらに亀島の左には、我国でも最高のものといわれる直下型の枯れ滝"龍門灘"があります。この庭の趣を、井伊大老直弼公は、"龍、潭寺なる庭の池をよめる"と題して「世間にすむとにごるのあともなく、この池水のいさぎよきかな」と讃えられました。
(本寺パンフレットより)
塔の礎石を利用した蹲
書院と西庭
その他境内、大久保忠隣公幽居の址、石田三成公像など
帰途、井伊直憲公顕彰碑、井伊家菩提寺清凉寺
Apr.2010 撮影/文:中山辰夫
彦根市古沢町1104 臨済宗妙心寺派龍潭寺は佐和山の西南麓にある臨済宗の巨刹である。
彦根駅から歩いて約20分。
佐和山の麓に建つ。右隣は清涼寺、左隣は井伊神社、大洞弁財天堂の参道にも近い。
参道の片側に続く伊吹の塀が織り成す独特の景観に見とれながら歩くと、清涼寺に次いで龍潭寺である。
前面は東海道線が走る。が境内は静寂そのものである。
整然と並ぶ樹木の中の一直線の石道を進むと山門に至る。
境内後方は佐和山城跡への登り口でもある。
北側には井伊神社、大洞弁天堂が続く。
井伊家発祥の地遠洲井伊谷の菩提寺を移し、元和3年(1617)に諸堂が完成した。
方丈・庫裏などの主な材木は遠州から運び、山門は佐和山城の城門をあて、城内の陣鐘を梵鐘にしたといわれる。
また佐和山城門の古材を使って建てたという茶室果然室がある。
鬱蒼たる樹林に囲まれて、山門・庫裏・方丈・書院・仏堂がある。裏側にある墓地には井伊直弼の恋人里和の文塚もある。
この寺には豊臣秀吉・石田三成および佐和山城を落城させた田中吉政の霊碑が敵味方の差別無く祀られており、境内入口には石田三成の供養等や銅像がある。
この寺には僧侶養成の学寮があり、常在の学僧150人、講師10人を数える臨済宗の大道場でもあった。
特に園頭科(おんずか)、すなわち造園科があり、実習も行なわれた。このためか、境内には池泉鑑賞式の東庭、枯山水の南庭など優れた庭園がある。
特に南庭は一面白砂を敷き、石垣で観音の補陀落山をあらわしている。
晩秋の景観
山門
四脚門・入母屋造・浅瓦葺・左右袖塀付
入母屋造の大規模な四脚門である。親柱礎石は大きな方形切石で、軸摺を兼ねている。
柱上の頭貫木鼻は大きく、半肉彫りの彫刻が目立つ。拳鼻付き出組組物で丸桁を受け、内部は各天井とする。
丸桁は隅の成を増して軒反をつける。両袖に潜戸をもうけ築地塀がとりつく堂々たる構えは、巨刹にふさわしい。
享保18年(1733)〜20年の造営とされる。
大洞観音堂
鐘堂
城中の陣鐘を寺の梵鐘としたが、非常に音が美しく、後世の風流人が彦根十景を選んだときにも「龍潭寺の晩鐘」を加えたという。
方丈
桁行24.9m、梁間15.0m、入母屋造、背面張出付、銅板葺 造営は18世紀後期
通常の方丈6室の他に両側に二室づつ計10室からなっている。
前面には広縁・儒縁をとる。
側・内部とも柱の省略が多い。
縁外側は雨戸とはせず,引違舞良戸及び内側明障子引き分けとする。
仏殿
桁行五間、梁間6間、入母屋造、桟瓦葺、側背面軒下張出付
方五間の平面をもつ中規模の仏殿である。
正面の柱間は、三間裳階付禅宗仏殿を思わせる。
内部には四天柱が立ち、その中を鏡天井、周囲を化粧屋根裏とし、床は土間である。
方丈から床下の高い渡廊が仏壇に通じている。
庭園との重なりが静寂な領域をつくっている。
だるままつり
毎年、4月1〜2日の間、大小交えた約3000体のだるまを並べ、願い事の成就を祈る「だるま祭り」が行なわれる。
祭りは禅宗開祖の達磨大師の縁起にあやかって、江戸時代の元禄年間に住民らがだるまを持ち寄って開運を願ったのが始まりとされ、当寺では1950年ごろから行なわれるようになった。
高さ5cmから80cmほどのだるま、約3000体が一週間かけて本堂に並べられる。
1日、長さ50cm強の長線香の先端をだるまの頭に近づけ入魂の式が行なわれ、2日午後に満願成就の法要が行なわれる。
だるまは一体500円から5万円で販売される。
「だるま祭り」は彦根に春を招く行事とされてきた。
庭園
この寺には僧侶養成の学寮があり、常在の学僧150人、講師10人を数える臨済宗の大道場でもあった。
特に園頭科(おんずか)、すなわち造園科があり、実習も行なわれた。
このためか、境内には池泉鑑賞式の東庭、枯山水の南庭など優れた庭園がある。方丈南庭(ふだらくの庭)
一面白砂を敷き、石組で観音の霊場補陀落山をあらわしている。
書院東庭(鶴亀蓬莱庭園)
佐和山の麓をそのまま庭園に取り入れ、造園学の先賢を奉祀する庭聖殿をはじめ夢窓国師。
小堀遠州公の供養等、庭山に点在する自然石を十六羅漢に見立てて配し、池に沿う回遊式の庭園に春はつつじ、夏は青葉にほととぎす、秋は全山の紅葉も美しく冬また絶佳の雪景色はまさに桃山時代の面影をしのばせてくれるといわれる。
方丈襖絵五十六絵
俳諧彦根風の始祖で、蕉門十哲に数えられた森川許六が描いた襖絵、54帖を保存している。
本堂を中心に四方の襖、ことごとく許六の雄渾な筆のあとである。
許六は明暦2年(1656)、彦根藩士の家に生まれ、四代直興・五代直通に仕えて禄300石を拝領した。
画を狩野安信に学び、山水人物・花鳥を得意とした。
俳句は芭蕉に習い、俳論の著述も多く、風俗文選・俳諧問答・俳諧自讃之論など有名である。
直弼の生母君田富子の墓
愛妾柳村院の文塚
ご本尊・楊柳観世音菩薩(大洞観音堂)
三十三観音の一つで、種々の病難の消除を本誓とされます。
平安初期の作品で、元和年間(1680年代)に琵琶湖中より、ご出現になった。
参考レポート
滋賀県教育委員会配布資料
参考資料《パンフレット、滋賀県近世社寺建築、湖国百選、城と湖のまち彦根、滋賀県の歴史散歩、他》
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