滋賀県彦根市 清涼寺
Hikone Seiryoji
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Apr.2010 撮影/文:中山辰夫
彦根市古沢町1100 曹洞宗市街地の西方佐和山の麓には寺院が多い。東海道本線(JR琵琶湖線)の上り電車が彦根駅を出ると、すぐ車窓の右側に緑に囲まれて並ぶ寺院が目に入る。
進行方向順に清涼寺・龍潭寺・井伊神社そして大洞弁財天の自動車道と続いている。
古誌に記される内容が総てである。
彦根城下に古刹有り、祥寿山と号し清涼寺と称す。井伊家代々の香華院なり。びわ湖に面し、佐和山を背にし、煙帆朝に浮び青嵐暮に起こる。
市街を距ること数丁余、閑静の境、道人愛嬌する所なり。
天下の巨匠、宗門の古徳、世々来り住して其後相つぐ。
道場を興隆し、法道を激揚す。湖東第一の名刹たり
寺院に向かう道路の両側は、美しく刈込みされた伊吹が塀をなして独特の景観を呈している。
門前に松並木があって禅寺らしい静寂な雰囲気を漂わせている。スケールの大きな建屋である。
その昔はJR東海道線のすぐ傍までが松原内湖で船着場があった。
東海道線が開通した明治22年(1889)頃は、すぐ近くまで松原内湖であった。
その後、内湖は干拓が行なわれ住宅地となっている。
境内は、石田三成の重臣嶋左近の屋敷跡で、本堂・客殿・庫裏・座禅場−研修所が居並ぶ。
本堂左のタブの木は嶋左手植えのものと伝えられており、幹周囲5.7m余の古木である。右側の紅梅の立派である。
井伊直政の墓所として始まり、井伊家代々の菩提寺で、後の高台に旧藩主の無縫塔の墓石が6基並んでいる。
開山は旧領である上野国の叢林寺から招かれた愚明正察禅師(ぐみょうしょうさつ)である。
当寺は、歴代諸国から高僧が招かれ住職を務め、厳しし修業道場としても名高が高かった。
井伊直弼も参禅に通った。清涼寺は今も井伊家の菩提寺として、歴代の尊碑を厨子におさめ、住職が日拝を行なっている。
また、直鋤大老の腹臣長野主膳夫妻や御受山鎌太郎の墓が山内の墓地にある。
山門
本殿
山門の真正面に建っている。
寺宝には歴代藩主の画像や狩野元信らの名画がある。(非公開)
客殿
山門の右側に建っている。
座禅所−研修所
井伊家が徳川幕府の重臣としての権勢で、歴代住職には全国から高僧を請じたので、悉くその時代の第一流の和尚ばかりであったため、修業道場として名声があがった。
一般に開放されており希望者は参禅できる。
「白雲会」という参禅の会に加わった参禅会探訪・・・・《Rin》より引用
とても丁寧にご指導頂けるようです。
庫裏
タブの木
左近のお手植えとも言われる。樹齢500年ともいわれる。
紅梅
3月過ぎがみもの。
墓地
井伊家代々の菩提所である。
寺域には文化5年(1808)に建立された「石田群霊碑」がある。
これは、石田三成追善のため土民が秘かに刻んで、人目につかない場所で拝んでいた石田地蔵を集めて、石田氏はじめ佐和山城の戦死者の霊を手厚く弔ったものである。
参考レポート
滋賀県教育委員会配布資料
清涼寺史話
「彦根城下に古刹あり、祥寿山と号し清涼寺と称す。井伊家代々の香華院なり。びわ湖に面し、佐和山を背にし、煙帆朝に浮び青嵐暮におこる。
市街を距てること数丁余、閑静の境、道人愛敬する所なり。天下の巨匠、宗門の古徳、世々来り住して其の後相つぐ、道場を興隆し、法道を激揚す、湖東第一の名籃たり」と古誌に記されているとおり、清涼禅堂は禅門にきこえた道場であった。
禅門の雲水が諸国行脚の途中で、行き逢った衆僧には、それぞれ仁義があったもので、後輩が先輩に対して非礼があったりすると宗義の因縁をつけて後輩をいじめることもあった。
そんな時に傲慢らしい兄弟子に「尊公は清涼寺の沢庵を食ったか」と、問うと相手は大抵非礼を詫びて、清涼寺の雲水を敬ったという。
隆盛期には常住200人位の衆徒が蒔水の修行をしていたと伝えられている。七不思議(パンフレットより)
天下分け目の戦、関が原の合戦の直後、石田三成の居城であった佐和山城は東軍に囲まれ、網攻撃を受けた。
城中のものの助命嘆願が受け入れられていたが、東軍全部に徹底せず、一部軍勢が城内に突入したので城中は大混乱になった。
三成の父正継、兄正澄一族はことごとく自害し、天守閣にも火が放たれ炎上した。
城の女達も相抱いてしろの前の女郎ケ谷に身を投を投じ、折り重なって死んだ。
死に切れない人々たちの苦しみの声が三日三晩続いたという。清涼寺の七不思議の話は、すべてこの佐和山落城に関連するものばかりである。
(1)木娘 本堂前の広い庭にそびえるタブの木は、樹齢数百年といわれ、佐和山の変遷を眼のあたりに見てきた。
その大木が夜な夜な女に化けて参詣人を驚かしたという。
(2)左近の南天 石田三成の家臣、島左近がこよなく愛した南天で、これに触ると腹痛をおこしたという。
(3)壁の月 方丈の間は、島左近の居間を移したものといわれるが、壁に月形の影が現れ、寺側もことあるごとに何度も壁を塗り替えたが一向に消えなかったという。
(4)唸「唸り」門 左近の邸の表門だったもので、大晦日の晩になると風もないのに低く唸り続けたという。なお、この門は安政5年(1776)の大火で焼失した。
(5)洗濯井戸 清涼寺の上方にある井戸で、左近はこの水で茶道を楽しんだという。この清く済んだ井戸水を汲んで汚れ物をつけておくと一夜にして真っ白になってしまうと伝えられる。
(6)地の池 墓域の一隅にある池で、かつては美しい水が溢れていたといわれるが、落城の際、人々の血が山麓に伝わってこの池に流れ込み、それ以来水面に血みどろの女の顔が映るという。
(7)佐和山の黒雲 関が原の役後、井伊家の家臣が戦勝品の虫干しをしていると、突然、黒くもが湧き強風が戦勝品をさらっていった。
滅ぼされた三成の石田家中を思う人々の哀切の思いが、悔恨と共にこのような不思議を生み出したのかもしれない。
参考資料《パンフレット、彦根史話、彦根市史、城下町の記憶、滋賀県の歴史散歩、佐和山物語、その他》
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