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滋賀県彦根市 宗安寺

Souanji,Hikone city,Shiga

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Dec.2011 中山辰夫

彦根市本町二丁目

浄土宗

本尊:阿弥陀如来立像(淀殿の念持仏)

本尊は滋賀県指定文化財夢キャッスルロードに面して山門(赤門)が建つ浄土宗のお寺。

彦根藩で徳川家康をまつる朱塗りの「赤門」の寺で、別名赤門寺とも言われる。

赤門の寺と呼ばれ、佐和山城の大手門を拝領した山門が目立つ。馬に乗っても通れるほどの高さがある。

本堂は井伊直政が旧領の上州より移築し、徳川家康公の尊牌を祀り毎月の命日には藩主自ら参拝したという。

江戸時代の朝鮮通信使の宿館として利用され、正使・副使・従事官の宿舎となった。

表門(赤門)

切妻造り、本瓦葺

朱塗りの表門は赤門と通称され、慶長8年(1603)佐和山城の大手門を移築したもの。

元禄14年(1701)の大火で唯一焼け残った施設である。

馬に乗っても通れる高さがある。

黒門

その南側にある唐人門と称する小さな黒門は朝鮮通信使を通行させた門とされてきたが、食料などを運び込む勝手口用の門とみられる。馳走に欠かせない肉類を仏寺として正門から搬入が出来なかった。

朝鮮通信使は正徳元年(1711)以来11回宗安寺に宿泊し、この門から出入りした。

境内配置と全景

境内は、本堂、庫裏、書院、行者堂、などからなる。

石田三成の千体仏や彦根勝運大黒天を安置し、「彼岸白道の庭」も応えがある。

本堂

入母屋造 三瓦葺 間口十間半 奥行八間半 元禄14年(1701)の大火で焼失。翌年再建

井伊直正が旧領の上州より移築し、徳川家康公の尊牌を祀り毎月の命日には藩主自ら参拝したとされる。

現在の本堂は江戸時代中期に長浜城付属御殿を移築したもの。

間口が広く「十二間」屋根の低いことや欄間・釘隠しなどに桃山建築の遺構がうかがえる。

本尊はもと秀頼の母淀の念持仏で、大坂夏の陣の際に持ち出されたと伝たえられる。

書院

本堂の右にある玄関口より入る。

和室が並び、寺宝の展示がしてある。寺宝は後述する。

家康公位牌堂と権現堂 

縁側伝いで行ける。家康の尊牌を安置して執り行う遠忌法要を宗安寺に命じられた理由として、家康が浄土宗であったこと、東梅院という家康と直接つながる人物に関わる神社であったことからとされる。

権現堂は家康の尊牌を安置するために建立された。本堂の奥、庭園の一隅にある。

彼岸白道の庭

荒廃していた庭を、昭和43年(1968)小川寿一が復元。

手前から広く白砂を敷き、現世と極楽に見たてて作庭したとされる。

 本堂外陣

書院から本堂に通じており、拝観ができた。

本堂内陣

地蔵尊

本堂向かって左側に位置し、彦根藩士の眼病を治したといわれる木之本地蔵尊のご分身及び地廻り地蔵尊の二体が安置される。現在は水子供養のお地蔵様として参拝される。

血染のススキ

行者堂

梵鐘と鐘楼堂

鐘楼は寺が現在地に移されて50年余を経た明歴2年(1656)建立された。梵鐘は宝永4年(1707)の制作。

彦根藩士増田氏の援助で、京都の釜座で近藤藤久が制作したと銘文にある。

鬼瓦保存

書院に展示されている寺宝を順次並べる。

宗安寺由来 

紙本墨書 江戸時代 天和4年(1684)

宗安寺五世縦誉が寺家の老僧の物語るところ、また自らが知るところを末代のために書き留めた記録。

石田地蔵尊・千躰仏

石田三成が母の菩提を弔うために、佐和山城下に建立した瑞岳寺に安置されていたが、今はここに安置されている。

司馬光甕(こうかめ)割図杉戸絵

その他

阿弥陀如来立像

滋賀県指定文化財 鎌倉・文永7年(1270)

阿弥陀如来坐像

朝鮮通信使との関係資料

朝鮮通信使は江戸時代を通じて十二回来日した。江戸に行かなかった二回を除き毎回使節団は彦根に宿泊した。

宗安寺は使節団の中心である上使・福使・従事官の三使の宿泊施設となった。

一階数百人に及ぶ使節団。寛延元年(1748)の造作や見積もりは現在の1億円相当が投入されているとある。

朝鮮高官像・他

木村重成首塚

重成は大坂の陣における豊臣方の名将。夏の陣では城外の若江で、井伊直孝の軍勢と戦い敗れた。

その際、重成は彦根藩士安藤長三郎に首を取られるが、彼の首は長三郎により彦根に持ち帰られて宗安寺の安藤家墓所に手厚く葬られた。

宗安寺の起源と縁起

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