滋賀県彦根市 天寧寺(五百羅漢)
Hikone Tenneiji
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Apr.2010 撮影/文:中山辰夫
彦根市里根町232 曹洞宗城下町を一望できる丘の上にある曹洞宗の寺である。
秋になると萩の花が咲き、別名は萩の寺ともいわれる。
彦根駅から南東へ約800mの位置にある。
バス停天寧寺前で降り、なだらかな石段の参道の先に朱の山門があり、禅寺にふさわしい落ち着いた雰囲気の中にある。
びっしり並んだ527体の羅漢像に圧倒され、丘からの城下の眺めに魅せられる。
井伊直中(なおなか)が、腰元若竹の不義をとがめ罰した。
その後相手が自分の息子とわかり、自分の過失を認め、腰元と初孫を弔うために創建したといわれる。
一体一体入念に彫り上げられた羅漢像が堂内3面にびっしり並んでいる。
一体に9両要したといわれる。
本堂は簡素なつくりだが創建当時の特徴が表れているとされる。境内の十六体の羅漢像は、16ケ国の大名から贈られたものといわれている。
京都の名工駒井朝運(こまいちょううん)に刻ませた木造五百羅漢は「亡き親、子ども、いとしい人に会いたくば、五百羅漢にこもれ」といわれるほど、必ず自分の探し求める人の顔があるといわれる。山門脇に直弼の供養塔がある。桜田門外の先血の土を運んで建立したとされる。ほかに直弼の参謀格だった長野主繕の墓、たか女の碑などがある。
庭園はクローズされていた。仏殿(羅漢堂)
木造五百羅漢は市指定重要文化財五百羅漢とは、信仰の対象である500人の羅漢(阿羅漢)のこと。インドの仏典に、仏に常時付き従った弟子の数としてあるいは仏滅直後の経典編纂の参加者の数として、しばしば「500」の数字があげられる。これに基づいて、中国や日本で500人の羅漢に対する信仰が生じ、五百羅漢像が彫られ、それを安置する五百羅漢寺が建てられるようになった。
布袋尊
羅漢堂の背後にある。
背が1.2mで重さ300kgという木造日本一の大きさで、ご利益も超大型。
そのおへそに触ればヘソクリができ、扇に触れば福来り、袋に触れば病気を封じるという福徳円満な神様とされる。
法堂(本堂)
羅漢堂と本堂の間は石庭になっていて、16余りの石が置かれているが、16羅漢を表すものとされ、これはインドの各仏跡から持ってこられたもので、砂はブッダガヤの尼蓮禅河の砂という。
現代の名造園師中根金作氏が設計造園された。
井伊直弼供養塔
桜田門外の鮮血や土を運んで建立したとされる。
長野主膳義言(よしとき)の墓
井伊直弼の腹臣となって、安政の大獄を献策し、京都の動静を探り、浪士の妄動を防ぐべく、西に東に活躍した。
直弼の埋木舎に蟄居の時代に国学と歌道の師として迎えられたが、直弼の大器と義言の彗眼敏腕は、よく肝胆相照らして全く異体同心の動きをしたと見られている。
天保12年(1841)27歳の主膳は妻多紀を連れて江州に入り、伊吹山麓の志賀谷に居を卜し、国学の道場高尚舘を開いた。
そして次第に近隣に名を知られ、遂に埋木舎の鉄三郎(後の直弼)に識られるに至った。
直弼の死後、捕えられて彦根の獄舎につながれ、二日後の文久2年(1862)8月27日、四十九町の獄舎内で斬首された。
直弼に遅れること2年半、墓は清涼寺および天寧寺に建てられた。
村山たか女
天寧寺庭園
井伊直弼公の好みで作られた石州流庭園。今回はクローズ中であった。
直弼は禅に通じ、茶道の一派を開かれた通人とあって、この庭園は、本堂の背後に同大老の好みにより作られた石州流である。
16カ国の大名から寄進された石造の16羅漢を配置し、背後の山から湧き出る清水を滝に落とし、蓬莱山あるような趣きがある。
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