滋賀県日野町 比都佐神社
Hitsusajinja,Hino Town,Shiga
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蒲生郡日野町十禅師410 比都佐神社宝篋印塔 重文 近世以前/その他 鎌倉後期 嘉元2(1304) 石造宝篋印塔 嘉元二年甲辰十二月二日の刻銘がある 19300523
March 10, 2024 野崎順次 source movie
滋賀県蒲生郡日野町十禅師410
比都佐神社
(Hitsusajinja Shrine, Hino Town, Shiga Pref.)
アプローチ、近江鉄道貴生川から日野
地名「十禅師」の歴史
私達の集落は、昔から十禅師と呼ばれています。この地名は非常に古く、室町時代初め応永29(1422)年の記録に、「十禅寺」と見えるのが最も古い紀録ですが、この地名が生まれたのはもっと古く、次のように、平安時代の中頃までさかのぼります。応和元(961)年、有名な藤原道長の祖父にあたる藤原師輔が死去し、所有地(荘園)の「必佐庄」が息子に譲られました。息子の悠忍は、比叡山延暦寺の境内にあった妙香院の僧でしたが、永作2(990)年に必佐庄の土地が妙香院に寄付されました。この時から必佐庄が比叡山延暦寺の荘園になり、比叡山の守り神の「十禅師社」が、心佐庄内の比都佐神社にまつられたことから、十禅師という地名が生まれました。
十禅師と呼ばれる前の旧地名は、次のような証拠から、「必佐」であったと思われます。古代の法律に、集落名は漢字二字を事要せよとの決まりがあり、十禅師以前には、漢字二字が集落名に便用されていた様子です。十禅師の土地が古くは必佐庄と呼ばれたことや、延長5(927)年の記録に見える比都佐神社が、今も十禅師の土地にあることが最も大きな証拠になりますが、また、必佐地方や南比都佐地方には、かつて必佐という名前の集落が見あたらないことも証拠になります。
大津の郁にいた天智天皇が、西暦670年に都の候補地として視察した土地が「櫃作野」であったと「日本書紀」に記されているのが、必佐という地名の最も古い記録です。「櫃作、必佐、比都佐」は、すべて「久」の当て字で、「遠く」を意味し、開発の早い近江八幡方面から必佐地方を見れば、「遼くの野(久野)であることから名付けられた地方です。
十禅飾地区には、「久野さん」や「久村さん」が昔から多く住んでいるのも、このような過去の歴史があるからです。
近江日野商人館 館長満田良順氏
(現地説明版)
比都佐神社
国重文 比都佐神社宝筐印塔
鎌倉時代後期 高174cm 花崗岩
近江鉄道「日野」駅東南一キロ。森の中の広い境内西寄りに、各部整備、すっきりした姿の塔が立っている。本来の相輪は失っている。基礎四面は輪郭を巻き、格狭間の内二面は華麗な対向孔雀、一面に開蓮、一面は刻銘。塔身は蓮座上の月輪に胎蔵界四仏の種子を薬研彫し、笠の隅飾は輪郭月三孤で大きく、これに相応しく上の段型を七段としている。笠下端と基礎上端は相対して二段とする。基礎上端に江戸時代天和三年(1683)に再建したことを記すが、本来の銘は塔身三面にわたり、「奉造立宝筐印石塔一基、奉造立水精塔婆二基 仏舎利奉安口、奉書写如法如説妙法蓮華経三部石塔内納之、右志者、為奉訪慈父十三廻之忌辰也、然則以弟子等作業之善苗、偏資先考得脱之福田、乃至法界利益□□□□奉造立如件」と刻み、基礎の一面に願主平某、従五位や正六位の位階をもつ人や比丘尼の名を数人連ねるが磨滅が甚しい。最後に「嘉元二年(1304)甲辰十二月二日」の紀年がある。地方の高い地位の人たちの造塔であり、近江の代表的名塔である。
(川勝政太郎「新装版日本石造美術辞典」1998年9月30日)
神楽殿
拝殿
本殿(工事中)
帰途、日野駅にて
Sep.2012 大野木康夫 source movie
2012.9.2撮影
参道
境内
宝篋印塔(重要文化財)嘉元2(1304)年建造の石造宝篋印塔
蒲生郡日野町十禅師440 祭神:日子火々出見尊 天津日子火瓊々杵尊 木花開耶姫尊 武甕槌神 天太玉命 大己貴神 経津主神 天兒屋根神 猿田彦神近江鉄道日野駅の南東約1km。神社は広くて、深い森の中に鎮座している。
日野町村井にある綿向(わたむき)神社同様に古社であり、弥生時代からすでに開けていたという。
比都佐神社は「延喜式神名帳」に掲載された式内社に比定されている由緒ある神社である。
周辺の地域は必佐郷と呼ばれ、比都佐神社はその総社であった。
なお後で日吉七社の十禅師社領となったことから、十禅師之宮とも呼ばれた。
日吉の勢力の保護により隆昌をした。加うるに蒲生家始め武家豪族の尊信を得て必佐郷の総社として栄えて来た。
現在残されている「御官請取日記」によると、応安4年(1371)社殿を造営後150年を経た、文明18年(1483)に再建、江戸時代に入り享保2年(1717)と、文化5年(1808)の両年に社殿を造営、しかし明治17年(1884)社殿焼失、現在の社殿は明治19年(1886)の再建である。拝殿
入母屋造 間口三間 奥行三間
中門—幣殿
本殿
入母屋造 身舎三間×三間 向拝一間付 屋根は銅板葺 軒唐破風
石造宝篋印塔(ほうきょういんとう)
国重要文化財拝殿の西方にあり、木立を背景に基壇上に東面して建つが、基壇は地中に埋まりつまびらかでない。
傘の上に乗る小形五輪塔の空風輪(宝珠。請花が一石彫成されたもの)は後補である。
石材は米石で、相輪を欠く。欠失部を除く現高さは175.2cmで、完全であれば総高275cmの九尺塔と推定される。
規模が大きいこと、銘文が多いことがあげられる。
格挟間(ごうざま)内に2羽の孔雀が向かい合っており、塔身は四方に蓮花上の円輪、その中に各梵字(ぼんじ)が彫られている。
笠の下が2段、上が7段の段型を彫り、全体的に美しく仕上げられている。
ホイノボリの祭り
県無形民俗文化財指定毎年4月14日に祭礼が行なわれる。
佐神社では、個人が奉納する「色ノボリ」と村から奉納される「総ノボリ」の二種類のホイノボリがある。
この総ノボリの先端には「ダシ」が飾られており、ホイノボリのおおよその由来を知る上で手がかりになる。
ホイノボリが風流の練り物を起源とすることを物語っている。
氏子である大字十禅師と大字猫田が輪番で「渡り番」となり、ホイノボリを奉納し、御旅所まで御渡りをする。
御渡所は日野川の河川敷であttが、現在は行動307号線沿いに移設された。
(写真は日野ホイノボリ調査報告書「日野町教育委員会」より引用)
参考資料《近江蒲生郡志、近江日野の歴史、日野のホイノボリ調査報告書、他》
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