滋賀県日野町 金剛定寺
Kongojoji,Hino town,Shiga
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仏像・他工芸品が多く残る |
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Oct.2013 中山辰夫
日野町中山西谷宗派:天台宗 本尊:十一面観音像 開創:752(天平勝宝4年)熊野神社と隣り合っている。 近くの光明院は塔頭であった。 752(天平勝宝4年)創建とされる。聖徳太子が近江国に建立した四十八ケ寺の一つである。
東大寺の別院格として長い年数隆盛を誇ってきたが、織田信長の天台弾圧による兵火に罹り全山堂塔伽藍悉く焼失。
僧侶及び公人下法師総て四散し忽ちにして荒原となった。
1770(明和7年)領主関盛有は当寺産百石寄進し、1805(文化2年)観音堂を再建した(現観音堂)、1984(昭和59年)太子堂再建する。
案内
参道「石段ほか」
庫裏
間口八間、奥行五間半
本堂(観音堂)
間口四間、奥行四間
太子堂(四月堂)
間口五間半、奥行五間
収蔵庫・鐘楼・阿字石・他
柏木神社楼門(甲賀市水口町)
織田信長の兵火で全山焼失したが、ただ二王惣大門だけが焼失を免れ、延宝年間(1673~81)に柏木神社に移転された。(柏木神社文書)
聖観音菩薩立像
国重要文化財
不動明王、二童子立像
国重要文化財
≪参考資料≫
□金剛定神社には当時の栄枯盛衰八百十余年の寺史を記した縁起が残されている。各時代の当寺を取り巻く背景や時代の変化を知ることで、寺院全般を知る一助になると思い、丸写しであるが資料として掲載する。引用:中山史、日野の歴史□ 仏教がわが国に公伝したのは大和時代とされ、仏教の受容を決めたのは時の権力者であった蘇我氏であり、蘇我氏は新羅が国を挙げて仏教に帰依し、皇海寺など立派な寺院を建立して、おおいに栄えているのを知っていた。また、旧来の神祇信仰に代わる、普遍宗教としての仏教が必要であることを、蘇我氏は見抜いていたとも言われている。
仏教興隆の主導権を握った蘇我氏は、大和に法隆寺(飛鳥寺)を建立した。やがて成人された聖徳太子は、仏教を正式のわが国の国是とし、仏法を借りて国の仕組みを変えねばと、四天王寺・法隆寺・中宮寺・橘寺・峰岡寺・池後寺・葛城寺の七大寺を始め、全国に数多くの寺院を建立された。
この時に近江国においても四十八ケ寺が建立されたとされる。
日野に於いても聖徳太子開基とされる寺院が六寺ある。その中で、最も古いとされるのが金剛定寺である。金剛定寺の栄枯盛衰八百十有余年、波乱万丈の歴史の中に生きてきた寺院の縁起と当時の古代仏教の様子を探る。
■■金剛定寺縁起
■縁起一巻
古代、聖徳太子開基を伝えるもので、寺の創建を始め、勅願所となった由緒などとともに、奈良仏教の中心であった東大寺との密接な関係、仏教普及のための交流等が分かる資料である。寺の開基から江戸初期に至る約九百年間の寺の歴史や、又村の様子を克明に綴ったものである。
これは「従五位下平群海石榴真人懐英」という人が記したもので、懐英という人物については残念ながら不詳である。だが寺とは深い関りにあった人物であろう。
■金剛定寺開創の文書と開基の由緒
■定額を賜った由来 「竜護西中山金剛定寺」
奈良時代には稲作が相当普及し、この中山も開田が進み稲が植えられていた。が干ばつの来襲は一大打撃であった。実忠和尚の念仏が天に通じ、降雨は人を歓喜させた。以後金剛寺は竜の寺と呼ばれまた、仏舎利の霊応あらたかなるをもって、干ばつの時には竜池で祈雨の祈願を行なわれた。
この雨乞神事が、一千年後の江戸中期まで続けられ、この仏舎利が竜池に持ち出され雨乞祈願をした記録が残る。
当寺は、勅額を賜り仏法の聖地として崇拝されるようになり、当時の律令制下の勅願寺として野洲郡に三十封戸(三十荘)の寺田が与えられた。
中山は大半が山林で、その谷々は原野で、沼地でもあった。与えられた土地はどこか不明であるが大変な寺産であったとされる。
■四月堂十一面尊記 縦約25cm、長さ約1mの巻物で保存管理は良好。 『お水取り修会』
勅命で東大寺羂索院(俗称二月堂)修二会(しゅうにえ)「お水取り」を当山に移し、四月一日より二十七日間、「修四会」を行い、これを当山の永規(永遠に続けるための行事)としたとあり、これは現在奈良東大寺で行われている二月堂のお水取りの法要を、当金剛定寺では四月堂で、修四会の法要が四月一日より十五日間で毎年行われていた。
(注)お水取りは、752(天平勝宝4)年、僧実忠が始め、平成十三年で千二百四十九回目。2月1日本行入り同十五日まで続く)
四月堂十一面尊記は、1544(天文13)年に修されたものを伝える。天平年間に起こる金剛定寺の修四会の修法が、当山の永規として、東大寺の修二会と共に中世約八百年、室町末期まで永続されていた。四月堂は、「伽藍絵図」に見える「春日社」とされる。
■伽藍
788(延暦7)年に東大寺の僧明一僧都が当山の別当職となり、中山一郷全山に伽藍堂宇の配置を行うと共に、全国から高僧を迎え入れて行う法城の霊地とした。また、東西谷に衆徒並びに交衆を住居させたとされる。その集落の発生を示す貴重な記事である。
823(弘仁14)年、弘法大師(空海)が当山に入山し、晴雨経を念じた時の仏舎利と、当時の仏舎利とを合わせた二粒を三重宝塔に安置したとある。
■炎上と再建
栄枯盛衰は世の常、仏教の聖地と栄えたこの寺も、1160(永暦元)年、諸伽藍坊社など悉く炎上、焼土に帰した。東大寺祐慶僧正が中心となり、上は王公より下は庶民に至るまで勧進し1164(長寛2)年再建できた。
東大寺の強い庇護の下、平安末期から鎌倉期にかけ寺の隆盛はますます高まった。
■東大寺都維那等下知状(東大寺廻状)
平安末期の1169(嘉応元)年9月21日付けの東大寺からの回状
■芋くらべ神事発生の文書 芋くらべ神事は平成3年国指定重要無形文化財に指定される。
金剛定寺の創建者実忠和尚が当山に入山以来すでに四百有余年を過ぎていた。寺が隆昌を究め、ともに村が栄え、寺を中心とした営みには、種々の信仰儀礼が生まれた。今に残る貴重な信仰の習わしがこの時中山で生まれていた。その一つが『芋くらべ』である。
豪族蒲生定秀が中山の芋くらべを見に来て、関心を持ち、その様子を書き残した文である。
■源頼朝
1187(文治3)年鎌倉に幕府を開いた源頼朝は征夷大将軍に任じられた。近江の豪族佐々木氏は平治の乱以来頼朝の味方となり、五人の兄弟は打ち揃って旗下に加わり奮戦、その戦功により佐々木定綱は近江守護職に、他の兄弟4人もそれぞれ国の守護職に任じられた。定綱は由緒ある中山金剛定寺を源氏の武運長久祈願寺とした。頼朝は、当寺に甲賀郡伴の郷を寺産に寄進した。その他佐々木信綱からの寄進もあった。その記録が残る。
■足利尊氏
尊氏は1335(建武2)年鎌倉幕府の滅亡に伴い京都に奉行所を開設した。尊氏は金剛定寺の所領を安堵し新地金田庄参拾貫文を寄付した。
朱印状
■1339(暦応2)年に火災が発生、伽藍・坊舎の数宇が焼失した。当山の北室院住職の興沙門真蓮房阿闍梨賢空(蒲生信俊二男)が再建の志を以て、本山東大寺の助けを受け12年後の1351(観応2)年に再建した。
再建を果たした眞蓮賢空は画僧であったのか、寺の焼けた2年後の1342(康永元年)に立派な絵図を完成した。
縦横2mの画面一杯に、東西両谷に点在する数十に及ぶ伽藍堂宇が並び建つ。当時の金剛定寺の様子や、村の位置や街道、山々など、現代と余り差がない村の様子が分かる貴重な絵図である。中世の動乱期にあって度々焼失した伽藍堂宇の復興に、真っ先に援助したのは蒲生氏である。蒲生氏が奥州から必佐の小谷山に来てから約400年の間、金剛定寺の後ろ盾になって尽くした。「東大寺別院龍護西中山金剛定寺伽藍之絵図」
地形、道路、池地に於いても、現在もほとんど変化なし。なお現在の本堂入口の石段右側に、当時の「下馬石」1基が残されている。伝えによると、この文字は能書三聖と仰がれた小野道風の筆といわれる。
中世においては東大寺と肩を並べる大寺院であり寺院興隆はその頂点に達していた。
■紀州熊野大権現勧請 熊野神社の造立
応安年中(1368〜74)当山住侶浄行法師は、三熊野に参詣すること三十三度におよび、1375(永和元)年村人の発願があって、三熊野権現を勧請奉り、1400(応永7)年仮殿に安置まで23年の歳月を要した。その後、神殿(現在のもの)を造立した。これが現在大字中山の総社として祀られる熊野神社である。
毎年9月16日社前では「柴燈大護摩供」(笈渡しの会)が修せられ、その執行には、中山東西を始め、各地から大勢の参拝者で賑わう。
■■時は移り室町幕府が四管領を軸に足利一門を諸国の守護に任じるなど全国支配の体制を整えていった。北山文化から東山文化へと室町文化の花が開き京都に近い近江もその影響は大きかった。しかし室町幕府も中期過ぎから各地の有力守護大名間の抗争が激化し、ついに1467(応仁元)年応仁の乱がおこった。これにより将軍の権威は失墜し、国一揆や一向一揆が多発し、この混乱は民百姓にも及び、その自衛手段として村人の結束する惣の成立から、郷村制に発展していった。
■仏法の聖地である金剛定寺も、動乱に供えるために僧兵集団に姿を変えていった。霊山と崇められた金剛定寺は僧兵の屯する砦となっていった。
近江国守護佐々木六角軍に対し、伊庭貞隆が離反し、蒲生郡は戦場と化した。この兵火で中山の民家や伽藍の多数が炎上した。1503(文亀3年)
全伽藍坊舎の焼失から再建まで
さすが権力のある大寺、「助力雲の如し」とあり、僅か十八年間にこれだけの伽藍堂宇が次々と再建されたのは、東大寺の援助もさることながら、蒲生氏の援助があってのことである。
蒲生家と金剛定寺の関係は深く、蒲生家の一族が数多く当山に帰依し、当山塔頭所々には仏門を得た蒲生一族が住居し、蔭になり日向になって助力を行った。
■蒲生氏と金剛定寺
蒲生氏が奥州から小谷山に来たのは1144(天養元年)とされ、それから約350余年、その後音羽山に映り、1548(天正12年)氏郷が伊勢の松が島に国替えになるまで、蒲生家と金剛定寺の交流は続いていた。蒲生氏の祖は藤原秀郷と伝えられ、近江に来たのは秀郷から数えて7代目惟俊とも八代目惟賢とも伝えられるが定かでない。
系図
交流は4代目惟俊からはじまり、四代目能俊の子浄祐は、大進阿闍梨となって当山の座主に、ほか代々関わっている。
1169(嘉応元年)蒲生氏郷より4代先の祖貞秀が中山の芋くらべ祭を見に来て交流を深めている。1342(康永元年)重俊の弟信俊の子蓮賢空が、荘厳なる金剛定寺の伽藍堂塔を後世に伝えようと自ら筆をとって「金剛定寺伽藍絵図」を画き、中世の寺院の実態を知る貴重な資料を残した。
秀吉に仕えた氏郷は1590(天正18年)会津若松に転封となり、会津若松城九十二万石の大大名と破格の出世をするが、(1595)文禄4年2月病没、氏郷の子秀行−忠郷—忠知と続いたが1634(寛永11年)京都で病気のため死去、こうして蒲生家は断絶した。
■織田信長
1560(永禄3年)織田信長は天下制覇を目指して上洛、今川軍、浅井・朝倉軍を姉川で破り、近江の湖東地方は戦乱渦巻く巷と化した。一向一揆を恐れた信長は、天台宗弾圧の暴挙を容赦なく行い、1571(元亀2年)比叡山延暦寺を襲い、全山猛火の中を逃げ惑う僧侶、衆徒一人残らず焼き殺し、根本中堂、山王二十一社等が灰燼となった。湖東の寺院にも焼討がかけられ、日野谷近辺に及んだ。
信長の非道な仕打ちは中山にも伝わり、村人は一心に神仏にその加護を祈りながら、天台密教の霊地を守ろうと、僧兵と一体になっての防戦準備が固められた。しかしこの一るの望みもむなしく、1571(元亀2年)12月20日未明、六角左京太夫義賢の率いる軍勢が中山になだれ込み、全山猛火に包まれた。
1571(元亀2年)12月20日天平以来の霊地金剛定寺の由緒ある伽藍堂塔すべて焼失し、再びその復興は不可能になった。
■■縁起書のおわり
寺野焼失に僧侶や下法たちは四散した焼け跡に、村人が必死に守った仏像を安置する粗末な仮堂が建ち、新たな村の生活が始まった。しかしながら山間部の土地柄だけに満足な収穫物も得られず、村人の生活は苦難の連続であった。
時は変転し伽藍が消えて47年後の1618(元和4年)徳川幕府旗本関氏の領地となり、村人の生活に落ち着きが出始めた1654(承応3年)永源寺一絲禅師が霊地復興を志し、村人と観音宝殿の修復に勧進を勧めたが、惜しくも27年後の1681(延宝9年)死去され、その志を継いだ阿闍梨法印順海が、本殿・鎮守社鐘楼・坊舎・護摩堂を再建した。そして、この一千有余年の由緒ある金剛定寺の歴史を書き綴った縁起書が終わり、最後に歌一首を添えて、当寺の歴史を永遠に伝えようとしている。
1993(平成5年)は大仏殿建立を発願した年から二千百五十年目に当たり、その廬舎那仏発願千二百五十年慶讃法要が東大寺大仏殿前で盛大に行われた。
以来幾星霜を過ぎた今日、東大寺と金剛定寺との特別な関係はなく、往時の関係を知る人も少なくなった。今後、当時の関係を示す遺跡や遺物の発見で、両社の関わりが新たに見直されることを期待したい。
所蔵仏像
参考資料≪日野町の歴史、中山史、他≫
蒲生郡日野町中山天台宗近江鉄道費の駅の西約2.2kmにある天台宗寺院。
熊野神社と隣り合わせである。熊野神社を守護社としている。
日野町内で最も古く、文化財が多い寺である。中山のほぼ中央に位置し、中山寺ともいわれる。
度重なる火災を経て、元禄年中(1688〜)東西両谷の人々が観音堂を再建した。これが現在の本堂とされる。
聖徳太子が建立し、奈良時代にはすでに相当の勢力を持つ寺だった。
境内は、本堂である大悲閣と茅葺の庫裏、1つの鐘楼を残す小ぢんまりとしているが、約400年前までは、現在地を中心にして東谷西谷のすべての地内にぎっしりと堂塔が蘭や僧坊が建ち並び、多くの学僧たちが、修行や勉学にいそしむ大法城を形成していたと伝わる。
庫裏
大悲閣
鐘楼
境内社
塔
本堂の右奥に三重の石の宝塔がたっている。これは鎌倉時代の遺品である。又宝筐印塔の残欠等が並べられている。
鐘池
境内にある古池
寺伝によると東大寺の実忠という和尚が鑑真和尚将来の仏舎利を当山に納めて降雨祈願のため十一面千手悔過の秘法を修めた処この池から竜神が現れて盆を傾けたような大雨が降ったので民衆は大喜び、爾来降雨祈願には鐘池と称せられる此の池辺で修法を行なうようになったと伝えられる。
寺宝
本堂大悲閣(たいひかく)の中には、国の重要文化財に指定されている平安時代の木造聖観音立像・木造不動明王及二童子立像をはじめ、各時代にわたる文化的価値の高い仏像が安置されています。
本尊
十一面観世音坐像
国重要文化財 室町時代
一躯、木造・素地、玉眼多くの古像を伝える金剛定寺の本尊である。十一面観音の坐像は、櫟野寺(甲賀市)本尊像や知善院(長浜市)本尊像など圧倒的少数派である。
大日如来坐像
国重要文化財 室町時代
木造・漆箔、玉眼、像高:77cm大永5年(1525)、法眼位をもつ藤原長清仏師の作
木造聖観音立像
国重要文化財:平安時代
一躯、木造・彩色、像高:143.6cm日野町最古の彫像である。
平安前期の特色を多く備えている。特に頭部に比較して大きい髻、無文の天冠台、そして背面も横切る天衣の自由なかかり方など九世紀の形式が顕著とされる。
不動明王及び二童子立像
国重要文化財:平安時代
三躯、木造・彩色、像高:《不動明王169.4cm》《左脇侍93.9cm》《右脇侍99.1cm》観音像の横に安置されている。不動明王は、威力絶大の怒れる仏で、特に加持祈祷など密教の修法に際して篤く信仰された。
脇侍は、小心者の矜羯羅(こんがら)に暴悪な制?迦(せいたか)の二童子であるが、その姿勢は大振で比較的自由な形である。
芋くらべ祭礼
国指定無形文化財此の金剛定寺のある中山集落で毎年9月1日に行なわれる奇祭である。
野神山で行なわれる神事で、里芋の葉柄である「ずいき」を竹にしばりつけてその長さを競う。
西が勝った場合は豊作、東が勝った場合は不作であるといわれている。
この祭礼は800年以上の昔から執り行われている神事とされる。この祭礼の起源については、江戸時代後期に書かれた「金剛定寺縁起」のなかに芋競べ祭の起源に関する記述がある。
それによると、起源は嘉応元年(1196)年であるとされるが確証されていない。
確実な資料による記載は、明治15年(1882)の「野神祭り規定書」がある。
参考資料《近江蒲生郡志、近江日野の歴史、他》
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