JAPAN GEOGRAPHIC

滋賀県日野町 信楽院

 Shingyoin,Hino Town,Shiga

 
Category
Rating
Comment
General
 
Nature
 
Water
 
Flower
 
Culture
 
Facility
 
Food
 


February 5, 2022 野崎順次 source movie



              


県文 信楽院本堂 江戸 元文四年
桁行14.3m、梁間15.2m、一重、入母屋造、本瓦葺、背面中央突出、入母屋造、本瓦葺
(滋賀県ウェブサイト)
      


May .2010 撮影/文:中山辰夫

蒲生郡日野町村井1500 浄土宗:本尊 阿弥陀如来信楽院は村井にあって、北東方向数百mには馬見岡綿向神社がある。

同寺は、町道大窪音羽線呉服町から南方向に一筋入った町道に北面して境内が広がる。

松並木の参道を進むと、築地を構えて堂々とした表門に至る。表門に入ると、庫裏・玄関。本堂などが東面して建つ。

前庭を隔ててその東側には手前から基壇上の鐘楼、手水舎、観音菩薩立像や地蔵菩薩立像を祀る四間堂の緒堂・秘仏堂が建ち並ぶ。さらに南側には行者堂。太子堂が並ぶ。

信楽院は18世紀中期から19世紀中期にかけての優れた建築様式で伽藍が構成されている。

表門の彫刻、本堂の天井画は見ものである。

境内には樹齢300年を越える梅の古木がある。

日野城主蒲正貞秀が入道して開いた寺である。

蒲生家は鎌倉期から安土桃山時代にこの地方を統治していた。その蒲生家の菩提寺であった。貞和5年(1349)蒲生高秀が信楽荘内の牧(現滋賀県信楽町)にある「紫香楽寺」の古仏をもらい受け、小御門城(こみかど)の馬場に小堂を建て安置したのが始まりで、明応7年(1498)貞秀がこれを音羽城内に移し阿弥陀寺(栗東市)の宗真を迎えて中興開山した。

貞秀は浄土宗に帰依し、宗真が文明16年(1484)に京都知恩院御影堂の法然上人像を修理したとき、大施主となった。

また貞秀は和歌・連歌にも秀でて多くの歌作が残されている。

天正12年(1584)蒲生氏は伊勢(松阪市)、のち会津黒川(会津若松市)へと転封され、大旦那を失った当院は荒廃を免れなかった。が慶長12年(1606)旧臣が再興した。再興の地は蒲生貞秀隠棲の地にあたる現在地であった。表門一間一戸の四脚門で大型である。柱は円柱、組物は尾垂木付きの二手先(ふたてさき)で、精緻な彫刻で埋め尽くされた18世紀中期頃の建築である。西側に門番所が付く。

庫裏

本堂 県指定文化財

桁行14.4m、梁間15.3m、入母屋造、背面千鳥破風付、本瓦葺、背面張出し切妻造、桟瓦葺日野に多い前土間形式の平面をもつ浄土宗本堂である。

柱は円柱で正面一間、側面二間の内陣を作り外陣は奥行きをやや深くしている。

前より一間通りを細長い土間とする類例の少ない仏堂で、向拝をつけないためやや高さがある。

大工棟梁は近江八幡の高木但馬喜連である。

現本堂は元文2年(1737)に手釿(ちょうな)始め、4年9月に上棟、5年に入仏祈念が行なわれた。

雲龍図などの天井画は、寛保3年(1743)に地元の画家・高田敬輔(たかだけいほ)が描いた。

本堂内部

本堂の須弥壇中央には木造阿弥陀如来坐像が安置されている。

大胆な構図の絵天井を配することで、此の空間を開放的ではるが力強く荘厳な意匠にしている。

天井画天井の雲竜・八大竜王・韋駄天図は日野大窪町出身の絵師高田敬輔(けいほ)の代表作品である。

巨大な竜が荒れ狂う雲竜を中心に韋駄天・八大竜王など5面を合わせた縦・横11mの水墨画の淡彩画である。

天井画は六つの区画に分けられる。

外陣の中央間に雲龍、右間に八大龍王、左間に韋駄天、内陣は中央間に蓮華・蓮弁・楽器・瑞鳥左右間には飛天が書かれてある。

ダイナミイックな墨書も書かれている。

敬輔は「竹林七賢図」も描いた。高田敬輔は日野の薬種業の家に生まれ、やがて狩野山楽系統の永敬の門人となったが、その後、雪舟の画法に惹かれ、82才の長寿を全うするまで多くの水墨画を残した。

日野には多くの作品が伝えられ、梅桃老人や竹隠という号を使っていた。司馬江漢(1747〜1818)は、長崎への往還時に日野に立ち寄り歓待を受けた。

信楽院を訪れて本堂の敬輔筆の天井画に感嘆したり、初代中井源左衛門の肖像や富士山の絵ほかを描いて歓待に応えたことが記録に残っている。

太子堂

 

行者堂・社務所

 

秘仏堂

本尊の阿弥陀如来三尊立像が安置されている。来迎印を結んで立つ阿弥陀如来立像と両脇侍を従えている。

 

梵鐘

一口、全高140.4cm、身高114.cm、口径79.3cm、撞座径12.9cm、制作 貞享3年(1686)

大形で乳の間から池の間にかけてわずかに膨らみ、量感豊かな印象を受ける。

総体として非常に丁寧な作行きをみせており、室町時代からの技術的伝統を継承する八日市金物鋳物師・堤善左衛門藤原勝家の作である。

宝篋印塔本堂背後の墓地東端にある石塔の一部に「延慶元年(1308)」の刻銘がある宝篋印塔の塔身がある。

その下の基礎は寄せ集めだが、鎌倉時代のものとされる。

蒲生貞秀の廟所

石造宝塔基礎信楽院から南西、畑を越えると竹に覆われた丘陵にある。

貞秀は文明16年(1484)、日野町音羽に音羽城を築き、晩年仏門に入って信楽院に陰棲した。

廟所にある五輪塔の基礎に「信楽院殿大弐法眼智閑大徳」とあるのは入道の法名である、

石塔は江戸時代の追造であるが、下に用いられている宝塔の基礎はすばらしく、孔雀や開花運の模様がある。

日野町で、宝塔や宝篋印塔が造立されるようになるのは、鎌倉時代からである。

石材は大蔵で採取される米石で日野で見られる石塔の大半に用いられた。宝塔基礎の二羽の孔雀は精巧なものとされる。

絹本著色仏涅槃図

県指定文化財

一幅 南北朝 縦222.5×195.5cm釈迦の死は入涅槃と称せられ、その情景を「大般涅槃経」に基づき描いたものが仏涅槃図である。涅槃図は釈迦の命日である

2月15日に営まれる涅槃会の本尊として製作された。

県内では、鎌倉時代から南北朝時代にかけて制作された4件の仏涅槃図が重要文化財に指定されている。特に石山寺所蔵品が有名である。

信楽院の涅槃図も秀品で、釈迦は肉身を肌色とし、金泥で文様を描いた朱衣で身体を包み、目を半眼とする。

右手を枕とし、右脇腹を下に、両膝を屈曲して沙羅双樹に囲まれた宝台に横臥する姿は通例のものである。

足首の所にかかる幹以外は沙羅樹の多くを左側に寄せて、釈迦の姿を大きく見せるなどの特長が挙げられる。

 

参考資料《近江日野の歴史、近江蒲生郡志、滋賀県の近世社寺建築、歴史と文化近江、他》  

All rights reserved 無断転用禁止 登録ユーザ募集中