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滋賀県 日野町 正明寺

Shomyoji,Hino Town,Shiga

 
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蒲生郡日野町松尾556 正明寺本堂 重文 近世以前/寺院 江戸前期 正保2(1645) 桁行五間、梁間四間、一重、寄棟造、向拝一間、唐破風造、背面下屋附属、檜皮葺 厨子1基、棟札4枚 19300523 


March 3,2024 大野木康夫 source movie

  

山門

    

山門越しに見た本堂

      

禅堂

 

本堂(重要文化財)

                                                         

経蔵(滋賀県指定有形文化財)

                               

開山堂

 

 


May 2010 撮影/文:中山辰夫

蒲生郡日野町松尾560 黄檗宗本尊 十一面千手観世音菩薩日野市街の北、丘陵の裾にある。日野町の中でも有数の古刹である。

さすが禅宗の寺だと思いつつ山門の石畳に一歩踏み入れと、掃き清められた境内のすがすがしさ、石畳に沿って植わるサツキに心身が清まる思いがする。

戦火で一山悉く灰燼に帰したとき、僅かな仏像が戦火の中から救い出され、村人達たちが質素な仮堂をつくり、そこに安置して長い間守り伝えてきた歴史が境内から感じられる。

       

寺域は約5,600㎡、山門を入ると正面に優雅な屋根の本堂が表れ、右に禅堂、左に庫裏が並び立つ。

いかにも禅寺らしい雰囲気を醸し出している。

石畳の参道から山門に向かう本堂の眺めが素晴らしい。

本堂の屋根は檜皮葺単層で、屋根の線がたまらなく美しい。

この寺にお参りすれば、誰しも静寂の気に包まれ、騒がしい世間、不安やいらだちから開放され、それらを忘れてほっとした気持ちになる。

木立を吹き抜ける風の甘さやその音、木々に調和して建てられた建造物の人工の美。ここならではの清楚な姿を見せてくれる。

              

寺伝では、聖徳太子が開基で、鎌倉時代には子院九十三を数える天台の寺であった。

信長による元亀の兵火で悉く焼きつくされたが、地元の頓宮宗右衛門という篤信者が仏像を持ち出して草堂に安置したという。

江戸時代のはじめ、正保年間(1646〜48)に地元の頓宮長重が再興を企て、永源寺の管長一絲(いつし)和尚の助力により再興された。寛文4年(1664)には黄檗宗の高僧・竜渓を中興開山に迎え、後水尾上皇から内裏の建物と修理料を賜って寺観を整えた。

後水尾上皇から賜った内裏の建物移築したのが現在の本殿と伝える。歴代住職には萬福寺管長となった僧も多く、当寺は近江黄檗宗の中心寺院であった。

国重文の本堂・禅堂・開山堂・経堂・方丈が建ち並ぶ。整然とした境内を呈す。夏季には研修道場として利用されている。

国重文の秘仏も多く所有している。

黄檗宗関係の資料や日野商人との関わりの資料も多く、日野町形成に果たした役割も伺われる。山門緩やかな石段の参道を登ると山門が南面して建つ。18世紀中頃の建立とされる。

規模の大きな一間一戸四脚門で、正面に軒唐破風を付け、大棟両端に鯱、中央には宝珠を載せたいかにも黄檗宗寺院の景観である。

       

鐘楼平成12年(2000)焼失、平成13年再建

     

禅堂桁16.0m、梁間9.9m、入母屋造、草葺、正面庇付、側背面庇付、桟瓦葺:建立 寛文12年(1672)

草葺の簡素な建物で、修行道場として、心身を磨くためのものである。

正面中央間を内開きの桟唐戸、背面中央間を引き分けの戸とする他は壁又は窓で閉塞する。

室内は、4本の太い柱を建て、その背面寄り二本の部分に仏壇を構え全面にたたみを敷く。中央部分は土間であった。

鎌倉時代初期の木造金剛界大日如来像(県重文)を奉安する

    

廻廊

    

経堂

県指定文化財 寛文9年(1669)建立本堂東側の放生池を隔て、開山堂とともに一段高みに建ち西面する。柱間は間口・奥行とも三間である。

屋根は宝形造で、上段を本瓦葺、下段を桟瓦葺とした錣葺(しころぶき)である。有名な僧鉄眼の手になる初版本一切経五千巻を収める。

外観は黄檗洋式の礎盤を採用しているが、和様を基調としたやや高さの高い建物である。

       

開山堂

正面一間、背面三間、側面二間、宝形造、桟瓦葺:建立 延宝7年(1679)雲肘木ともいうべき絵様肘木と、蟇股・頭貫木鼻のみが装飾的であるほかは簡素な建物である。

背面より中央に厨子を造付けし、龍渓禅師像を安置する。

    

放生池

禅堂から本堂の右にかけて、ハスの季節には浄土を思わせるような池がある。

    

本堂

国重要文化財:建造物:建立 正保2年(1645)後水尾天皇から下賜された清涼殿を、正和2年(1313)に建立した重文の建造物である。

本堂は正面の柱間5間、側面4間で、正側面の三方に広縁を巡らし、軒先柱を立てる。山門と同一軸上に建つ。

畳敷きで天井は棹縁(さおぶち)とする。側面の舞良戸および軒の疎垂木小舞内(まばらだるきこまいうち)などの落ち着いた意匠と軒桁や長押に残る痕跡や小屋部材などから、この建物が元は内裏の遺構であったことが偲ばれる。

桃山時代の御所の古木で建てられたというにふさわしく、精選された木材が使われている。

正面に唐破風造の向拝をつけ、ゆるやかな勾配の寄棟屋根と対照の妙を見せる。

高雅な風格が感じられる。

本堂厨子内に安置の、千手観音・不動明王・毘沙門天立像の三尊(いずれも国重文)は秘仏である。鎌倉時代のもの。

     

方丈

     

庫裏

    

庫裏内部

        

斎堂・台所寛文9年(1669)建立

 

指定文化財

  

木造千手観音及び脇侍不動明王・毘沙門天立像

国重要文化財

三躯 木造 玉眼 像高:《千手観音:119.8cm》《不動明王:64.0cm》《毘沙門天69.2cm》鎌倉時代の作

正明寺の三尊形式は延暦寺横川中堂に始まる形式で、天台系の三尊形式が基礎となっている。

千手観音立像は頂上に仏面一面と頭上面十面を置き、化仏を正面に表す通形の像である。

不動明王立像は右手で宝剣、左手で羂索(けんさく)を握り、毘沙門天像も右手で戟を突き、左手に宝塔を載せる。

南北朝時代から室町時代に至る14世紀末あたりの、やや堅実すぎるきらいのある、優れた像として貴重とされる。

     

木造大日如来坐像

県指定文化財

一躯 木造・漆箔 玉眼 像高:101.2cm

禅宗寺院に伝えられた密教最高の尊格である大日如来坐像である。

大日如来は、太陽を神格化したともいわれ、仏法そのものが仏身をもったといわれる観念性の強い尊格で、菩薩の姿で表される。鎌倉時代初期の作とされる。

 

黄檗宗

我が国では比較的新しい宗派である。曹洞宗・臨済宗と共に禅宗三派の一派である。

明時代に中国福建省にあった黄檗山萬福寺の高僧隠元が、承応3年(1654)、招かれて63才のとき来日し、正明寺の中興開山の龍渓禅師らの努力で京都宇治に黄檗山萬福寺という、中国と同名の寺院を建立し、臨済宗の一派として開宗した。

読経は唐音という中国風独特の節回しで唱えるので、他宗派にない雰囲気をかもし出す。

参考資料《近江蒲生郡志、近江日野の歴史滋賀県の近世社寺建築、パンフレット、近江湖東27名刹巡礼、他》


Feb.2009 酒井英樹

 日野市街北方の丘陵地にあり、創建は古く千年ほどの歴史を持つ黄檗宗の古刹。

 聖徳太子の創建と伝えられており、比叡山延暦寺系の地方大寺として栄えたが、戦国時代の戦火を受けて焼失。

 江戸期の再興で一絲文守大和尚の尽力で後水尾天皇の勅建寺となった。

<本堂>

 江戸時代初期の再興の際、後水尾天皇から京都御所の清涼殿を下賜され移築されたもの。

 随所に移築前の桃山時代の様式がみられる。

     

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