滋賀県日野町 近江日野商人舘
Omihino Shoninkan,Hino town,Shiga
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February 5, 2022 野崎順次 source movie
昭和56年に日野商人の一人である山中兵右衛門が自宅の豪邸を町へ寄贈された由緒ある建物です。この建物は昭和11年に新築されたもので、典型的な日野商人の本宅の特徴をそのまま今に残しています。
「八幡表に日野裏」の言葉どおりに家の表側は富を誇示するような建て前ではなく厳格さとつつましい生活態度がよく表われています。館内には行商品や道中具、家訓などが展示されており、400年におよぶ近江日野商人の歴史と商法を紹介している貴重な資料館です。
(日野観光協会ウェブサイトより)
パンフレット、現地説明板と外塀
国登文 近江日野商人館(旧山中兵右衛門家住宅)表門 昭和前/1936頃
木造棟門,瓦葺,石橋附属,左右屋根塀延長47m附属
主屋主体部の正面西寄りにある式台の南方にあり,道路からわずかに奥に引き込んで建つ。正面に小規模な石橋,左右に板塀が附属する棟門で,主体部の1階屋根より高さを低く押さえて,視覚的な効果を出す。商人の邸宅の屋敷構えを構成する一要素である。
国登文 近江日野商人館(旧山中兵右衛門家住宅) 主屋 昭和前/1936頃
木造2階建,瓦葺,建築面積280㎡
酒の醸造,鉛の販売等で栄えた山中家の邸宅を資料館にしたもの。入母屋造,2階建の主体部の両脇に平屋建の座敷と釜屋がついた構成になる。中廊下で和室と洋室を区切る主体部1階の平面形式に,昭和初期の和風邸宅の特徴がよくあらわれている。
主屋内部の部屋とおびただしい展示
庭園
国登文 近江日野商人館(旧山中兵右衛門家住宅)東蔵 昭和前/1936頃
土蔵造2階建,瓦葺,建築面積32㎡
主屋主体部の西に取り付く釜屋の北方に東西に棟を向けて建つ2階建,平入の土蔵。比較的に小規模で簡略な形式になるが,邸宅の屋敷構えを構成する一要素となっており,日野商人の生活の様子を伝える建物のひとつである。
(文化遺産オンラインより)
国登文 近江日野商人館(旧山中兵右衛門家住宅)西蔵 昭和前/1936頃
土蔵造2階建,瓦葺,建築面積58㎡
東蔵の西に建つ2階建,平入の土蔵。腰に水切りを付けその下を縦板で覆い,軒に鉢巻をまわすなど,東蔵と比較して本格的なつくりになる。もとは,東西蔵の他にも蔵があったという。日野商人の往時の繁栄の様子を伝える建物のひとつである。
(文化遺産オンラインより)
Sep.17.2014 中山辰夫
日野まちかど感応館 (旧山中兵右衛門)
蒲生郡日野町大窪1011 初代兵右衛門が1704(宝永元)年に日野椀二駄を借り受け関東へ行商に出かけたのが始まりである。
道端の大根を飯がわりにし野宿を重ね、勤勉と倹約の苦労重ねた結果が御殿場で花が咲いた。
遅きに始めた酒造業(1800・寛政12年)は現在も、静岡清水町で『株式会社山中兵右衛門商店』として300年の歴史をバックに継続されている。
初代から歴代、天保の大飢饉をはじめ社会事業に多大の貢献を行った。
国登録有形文化財に指定された本宅は、典型的な日野商人本宅の特徴を今に残す建物で、1936(昭和11)年に「お助け普請」として新築されたものである。
六代目兵右衛門が自ら設計したもので、座敷の内部造作に驚かされる。よくぞここまで集まったと唸りたくなる材料が使われている。今回は外観と庭園が主である。
大窪〜清水町付近近江商人のふるさと日野を偲ぶことが出来る町並み。上品で奥ゆかしさが漂う家の構えが見られる。
当初は紺屋等の職人が多く住んでいたとされる。東端には陣屋もおかれた。この地域からも大成した近江商人が生まれた。
その一人である岡伊右衛門は当町の出身で、1772(明和9)年から信濃国を中心に菊屋・山屋・日野屋等の出店をもち、味噌・酒・醤油醸造業を営んだ。
清水町が所有する二層露天式の曳山「六徳」に飾られている二十四孝像は、岡伊右衛門が寄付したもので、信州諏訪の立川内匠和四郎が彫刻したもの。
町並み
近江商人の邸宅がまだまだ多く残っているようだ。
蒲生郡日野町大窪1011 旧山中兵右絵門家本宅で、現在は日野町町立歴史民俗資料館として公開されている。
建屋は国登録有形文化財建造物に指定されている。
典型的な日野商人本宅の特徴をそのまま今に残す建物で、館内には行商品や道中具・家訓などが展示されており、日野商人の歴史や生きざまなどを肌で感じることが出来る。 敷地の中央前面に主屋が建つ。主屋の東側に座敷棟、西側に釜屋(台所と女中部屋)と便所などが附属する。敷地の北面に土蔵が二棟建つ。 主屋は入母屋造、桟瓦葺、二階建である。平面構成は中廊下型で、土間部分と床部分からなる。
床部分の中央に廊下を通して、南北に二室ずつ部屋をとる。北側の二室は「応接室」で、一方にマントルピースが付く。
二階も中廊下を通し、南北に二室ずつ四室と西寄りに一室であったが、現在は改造されている。
座敷棟は十畳二室で、コの字に縁を廻す。「座敷」は床の間・棚・付書院を備え、長押を廻し、格式高い書院造である。
六代目当主が自ら図面を引き、昭和11年(1936)に新築した。主屋・表門・東蔵・西蔵・井戸屋形・物置の計六棟が平成11年1月16日付けで国登録有形文化財建造物になった。
お助け普請部屋の説明を受けてなるほどと感心した。
展示コーナー《一部です》社会還元(一例)
瀬田唐橋・車石の寄進・・・中井源左衛門 日野売薬コーナー日野商人の行商の取扱品の中に合薬がある。
もともと、日野商人は漆器や呉服を中心に行商を行なっていたが、初代正野玄三が元禄14年(1701)「神慶丸」を始めて製造し、正徳4年(1714)に「神農感慶丸」の製造販売を開始してからは、合薬が日野商人の持ち下り品の主力となった。このため日野では江戸時代から多くの人々が合薬の製造販売に従事してきた。
日野の売薬業者が、所謂日野商人と違うのは、自身は他国に出店を持たず、自家製薬を日野商人を通じて全国に販売していた点である。
寛保3年(1734)には、日野で「合薬仲間(同業組合)」が組織され、109名の「合薬屋」の名が挙げられており、その盛況振りがうかがわれる。
日野椀コーナー日野椀は古くから日野の名産とされているが、今日その実態は謎に包まれた状態にあるとされる。
日野の椀生産は江戸時代前期に産業化したもので、主力製品は無地の揃椀であった。
これを日野椀と呼ぶようになったのは、江戸時代中期であり、近江の名物に数えられるようになったのは、日野が木地師の根元地に近く、日野商人の故郷であったことに負うところが大きい。
所謂秀衝椀と呼ばれる東北地方の古椀は、そこで活躍した日野商人が江戸中期に日野にもたらした可能性が高い。
江戸時代後期以降、圧倒的に多かったのは、宗和形の無地の揃椀であった。蒲生氏郷が会津転封に伴って、日野の木地師や塗師を連れて行ったのは事実か。
南部椀をまねて氏郷が作らせたとの説も伝えられる会津の古椀とは、どのような椀であったのか・・・・今後の調査を待つこことなる。
日野鉄砲コーナー日野はかつて国友(長浜)、堺(大阪)とともに火縄銃の生産地として知られ、鉄砲鍛冶職人が住む鍛冶町(現在の大窪上鍛冶町・下鍛治町など)があった。
その製作技術は国友や堺と遜色がなく、飾金具や象篏など装飾性に富む優品も多い。
しかし、量産されなかったため伝世品が少なく「幻の日野鉄砲」ともいわれる。日野町における鉄砲の始まりについては定かでないが、日野城主蒲生賢秀や子の氏郷が活躍した1560〜80年代には、日野鉄砲鍛冶も稼動した可能性が十分にあるとされる。
以下、日野町のHPを引用掲載する。
日野商人組合および定宿
ワインコーナー
福助サミット
ひなまつり
参考資料《近江蒲生郡志、近江日野の歴史、パンフレット、近江の曳山祭、他》
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