滋賀県甲賀市 油日神社
Aburahijinja, Koka city,Shiga
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甲賀市甲賀町油日1042 油日神社拝殿 重文 近世以前/神社 桃山 慶長(1596-1614)頃 桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、妻入、正面及び背面軒唐破風付、檜皮葺 19580514
甲賀市甲賀町油日1042 油日神社本殿 重文 近世以前/神社 室町後期 明応2(1493) 三間社流造、向拝一間、檜皮葺 棟札1枚、棟札14枚 19010327
甲賀市甲賀町油日1042 油日神社楼門及び左右廻廊 楼門 重文 近世以前/神社 室町後期 永禄9(1566) 三間一戸楼門、入母屋造、檜皮葺棟札3枚 19060414
甲賀市甲賀町油日1042 油日神社楼門及び左右廻廊 左廻廊 重文 近世以前/神社 室町後期 永禄9(1566) 桁行九間、梁間一間、一重、切妻造、檜皮葺 19060414
甲賀市甲賀町油日1042 油日神社楼門及び左右廻廊 右廻廊 重文 近世以前/神社 室町後期 永禄9(1566) 桁行十間、梁間一間、一重、切妻造、檜皮葺 19060414
雪景色を撮影しようと思いましたが、晴天で雪が融けてしまっていました。
参道
楼門及び回廊(重要文化財)
拝殿(重要文化財)
拝殿と本殿
本殿(重要文化財)
油日神社
滋賀県甲賀市甲賀町
油日集落付近から当方の鈴鹿山地を眺めると、天空に向かって三角状に聳え、いかにも霊山と思える頂きが見える。油日岳(標高694m)である。
社伝によると、主神の油日命は、太古、油日山頂に始めて素の姿を顕わしたが、そのとき、山頂に大高明を発したので、油日の名を生じたという。
社殿は深いヒノキの木立に包まれている。
正面に立つと楼門、回廊の奥に拝殿、本殿が見える。いずれも国重文で、拝殿は桃山時代、その他は室町時代の建立である。
社殿相互の配置や背後の自然との調和も見事で、閑寂・優雅な聖域を作り上げており、一級品の建築をさらに盛り上げている。
油日神社鳥居前の住宅
5年目毎に行われる祭礼の始まりをまつ境内
鳥居〜社務所
楼門
回廊 「神事中もふくむ」
拝殿周辺
本殿周辺
鐘楼
コウヤマキ
油日まつり
油日神社の祭礼には五年目毎に頭殿(とうどの)行列が出る。この行列は一般には「奴振り やっこふり」の名で知られる。道中歌や迫力ある動作とともに、総数250人の行列が町内を練り歩いた。
神社の記録では、十世紀の後半、円融天皇の勅命を受けた甲賀郡中の豪族、高野・相模・岩室・佐治・上野の五家が毎年交代して頭殿(祭主)となり、祭事を行うようになったと伝えている。五頭殿交代奉仕による頭殿行列は天正年間(1573~92)に既に存在した。
江戸中期には佐治頭の参向が絶えて、瀬古神主家が代行するようになったが、江戸末期には高野・相模・岩室の三姓も単身参向するだけとなり、頭殿行列を廃止した。現在は上野頭のみがそのあたり年に古式に則り祭礼を行う。五年に一度頭殿行列が見られる所以である。
この上野頭の頭仲間は古い宮座の姿を留めており、かつての上野姓が分かれたものとされる瀬古・曽和・光前の三姓合わせて現在六十六戸のからなる。
神社手前の邸宅
祭礼は、4月14日の志史の出初式から始まる。獅子・笛吹・太鼓の三役8人が、昔の氏子範囲とされる甲賀町東半と土山町の一部に及ぶ広い範囲を祭日前に巡行する。各集落では一行を饗応する。
祭礼当日、頭殿は衣冠・黒袍・紫袴・乗馬姿で奉仕するが、その御供は60余人からなる。拍子木の合図で行列は指揮される。挟箱奴と 毛槍奴の合計6人は地元の青年であるが、他はすべて上野頭の株内の人ばかりである。
祭りが始まる10時半ころには大勢の人が集まっている。
宮入
列次を整えた一行が神社前に到着 鳥居と楼門の間の馬場先で振りこみがおこなわれる。
長持奴が先頭である。奴振りは斯波家無形民俗文化財に指定されており、室町時代にはじまったとされる。
長持を担いだまま杖で面白く拍子を取り、歌いながら練り歩き楼門に達する
「奴が社に振りこんで祭を祝うめでたさよ」などの道中歌に合わせて、続く長持奴が手足を大きく動かす動作を見せ行列を進める。
頭殿行列は、先ず警固・オカタ・その付添・露払・奴などを先にして頭殿はその後方を進み楼門に入る。
次に、挟箱奴・毛槍奴が馬場先で舞う。
舞が終わると、奴は袴一文字笠の22名の徒歩衆と共に馬場先の左右に分かれて土下座する
その中央を頭殿が乗馬のまま御傍(おそば)の4人以下の各役を従え楼門に入る
行列が境内へ入った所でしばし休憩。境内では神事が行われる。
宮立
正午から宮立の儀式がある。
拝殿を三周した後神輿の渡御が始まる
獅子が子たちを追っかける
奉加風景
頭殿以下奴振りの一行がこれに供奉して、神社から4㎞先の相模の列結野(れつけつの)と呼ばれる旅所に出向く。
目を惹いた見学の景色
御旅所では、神社参進の際と同様振りこみの儀式がある。
それが終わると、頭殿・宮司・御方・獅子だけが旅所裏山に入り、ニンニク・干鱈を供して山の舞と呼ぶ獅子舞がある。この間、旅所では祭典が行われる。
この神事の間に祭庭の一隅では八畳張りの蚊帳一張を張り、祭参加の馬方にニンニク・干鱈・鏡餅・神酒の饗応がある。厄除寿福のためとされ、油日の蚊帳祭の異名がある。
午后4時頃還幸に移り、獅子の拝殿・神輿の三周、頭殿・宮司に対する舞があって、頭殿の行列は退出する。
行列は頭殿家の門前で振りこみを行い、古式豊かな祭を閉じる。
油日祭には他に大踊・小踊が行われる。もとは油日神社の氏子が雨乞をした時の返礼おどりであった。大踊・小踊は奴振りと共に1958(昭和33)年滋賀県無形民俗文化財に選ばれた。
参考
1966(昭和41)年の挟箱奴の宮入と長持奴の宮立
早春、早朝の油日神社
前回投稿時から機材を更新して撮影
楼門
楼門細部
左右回廊
拝殿
拝殿細部
本殿
本殿細部
油日神社は甲賀市の旧甲賀町油日にあり、本殿、拝殿、楼門及び廻廊と社殿のほとんどが重要文化財に指定されています。
JR草津線の油日駅付近に朱塗りの一ノ鳥居がありますが、社殿はそこから北へ2㎞ほど離れています。
楼門(重要文化財)
永禄9(1566)年の建築
左廻廊(重要文化財)
永禄9(1566)年の建築
桁行九間、梁間一間、一重、切妻造、檜皮葺
右廻廊(重要文化財)
永禄9(1566)年の建築
桁行十間、梁間一間、一重、切妻造、檜皮葺
拝殿(重要文化財)
慶長年間(1596-1614)の建築
桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、妻入、正面及び背面軒唐破風付、檜皮葺
本殿(重要文化財)
明応2(1493)年の建築
三間社流造、向拝一間、檜皮葺
甲賀市甲賀町油日1042 主祭神:油日神 猿田彦命(さるたびこのみこと)罔象女命(みずはのめのみこと) 例祭:5月1日油日駅から県道を行くと左手に大きな赤鳥居があらわれる。その正面には油日岳が見える。この赤鳥居は神社参拝の入口である。
神事において、神社へ戻る際には必ずこの鳥居をくぐって戻るのが慣わしである。
ここから神社までは約2km、途中に白鬚神社・神宮寺がある。
神宮寺を過ぎて村道を進むと神社の入口となる。近くの県道の交差点は杣川橋、ここから油日岳が美しく見える。県道に沿って灯篭が並び立つ。夕刻になると点火され神域の雰囲気に溢れる。
神域は約5万9000㎡もある。
境内は見事な檜の森に囲まれ、檜皮葺の回廊を左右にした楼門、拝殿および本殿が一直線上に並んだ佇まいは素晴らしい。
廻廊の周りには水路があり、山の清い水が流れる。春は参道にみごとなボタンが咲き、ひととき森厳な境域が華やぐ景色である。
国指定の重要文化財である社殿がズラリと居並ぶ姿に圧倒される。
拝殿、本殿以外の建築物:楼門、廻廊、中門、神せん殿、神楽殿、宝蔵庫、神輿庫、鐘楼、参集殿、手水舎、資料館、社務所 境内社:8社甲良大工が残した見事な神殿建築とともに、山岳信仰、民間行事も見落とすことができない神社である。
毎年5月1日に行われる油日神社の祭礼に奉納される「太鼓踊り」は、国の重要無形文化財に指定されており、祭りのハイライトである「奴振り」は5年に一度行われ、県の無形文化財である。 9月の大宮ごもり(油の祖神参篭日)は9月11日より始まり、油日岳頂上で夜を徹して神火を焚き、13日に油日神社に1000個の灯明をあげて油の祖神に捧げるというものである。社宝としては、神仏習合時代の聖徳太子絵殿4幅や大般若経600巻、五穀豊穣を祈る“田まつり”、いわゆる田楽に使われた永世5年(1508)在銘の福太夫面(県重要文化財)、巨大な男根を付けた“ずずいこさま”と呼ぶ珍しい木彫人形などが所蔵されている。森閑とした境内に立ち、古社の社殿に抱かれていると、この地の豊かさと人々の信仰の篤さを感じずにいられない。
標高694mの油日岳の山麓に位置する。甲賀郡総社とされ、祭神は油日神を主神として猿田彦命。罔象女命を配する。旧県社神社の東に聳える油日岳(699m)を神体とし、頂上に奥宮(岳大明神)があり、水の神が祀られている。当社は里宮で、油の神を祀っており、全国の油を扱う企業から油缶が奉納されている。社伝によると、昔この山の山頂に油日大明神が降臨され、油の火のような大光明を発したので(油日)という名が付けられたとある。
油日岳の頂上には、岳(だけ)大明神「油日大明神・通山大明神」と呼ばれる奥宮が祀られている。
毎年8月11日の夕方から旧油日谷七郷(油日谷七カ村、油日、櫟野・上野・栖山・毛牧・田賭野・野の各集落)の氏子代表が、神南備山にあたる油日岳に登って参篭し、翌日山神の荒魂を山麓の里宮である油日神社に迎える伝統行事が続けられている。
神体山信仰の「御生祭」の形態を現在に残す興味深い行事といえる。油日神社は平安時代の歴史書「日本三代実録」に、元慶元年(877)、神階昇叙の記載が見える古い神社である。
また、「源平盛衰記」には「大原庄油日明神の列」とある。
室町時代の成立と考えられる社蔵の「油日大明神縁起」によれば、聖徳太子により創建されたとしている。当社には、室町時代の絹本著色聖徳太子絵殿4幅が現存、その関連を示している。
当社は神仏習合の形態をとり、延宝8年(1680)当時、境内には天台宗の光明院・昭養院・成就院・燈明坊・善応寺があった。明治の初年に廃寺となったが現在も絹本著色十一尊曼茶羅図などの仏教絵画が保存されている。
別当は金剛寺または油日寺と呼ばれ、現在の神宮寺に当たる。
両側に石垣が積まれた参道を進むと、楼門及び廻廊がある。楼門
永禄9年(1566):建築
国重要文化財:建造物:指定 1906・04・14
三間一戸楼門、入母屋造、檜皮葺 附:棟札 3枚楼門は墨書銘により永禄9年(1566)の建立である。腰組及び上階柱上の組物とも三手先の和様楼門の形をしているが、下階の中央間には頭貫上とその上の通肘木上との2段に蟇股を入れている。下段の蟇股は龍(正面)や瑞鳥(背面)を彫刻した通例のかたちである。
しかし、上段は蟇股の枠を用いないで、植物の葉を反転の強い曲線で表した彫刻で斗を支えており、上階の中央間の間斗束には蓮の花と葉の彫刻を付けているのが特異とされる。
廻廊
近江独特の宮座(みやざ 氏子による氏神祭祀集団)の集会に用いられてきたもので、その原形を保つ。楼門と同字室町期の建築。
東西に4間、さらに北に5間の板張りの廻廊が続く。
コの字形に長く続く廻廊は、室町時代の建造物として全国的に数すくない。左廻廊
国重要文化財:建造物:指定 1904・04・14
桁行九間、梁間一間、一重、切妻造、檜皮葺 床板張右廻廊
国重要文化財:建造物:指定 1906・04・14
桁行十間、梁間一間、一重、切妻造、檜皮葺 床板張拝殿
慶長14年(1609)頃:再建
国重要文化財:建造物:指定 慶長14年(1609)頃建立間口三間、奥行三間、一重、入母屋造、妻入正面及び背面唐破風付、檜皮葺 正面に5段の石段を設ける。
方柱上に舟肘木、二軒疎垂木で入母屋造の妻を正面とし、正面と背面に軒唐破風をつけた桧皮葺屋根は軽快で、四面に建つ格子戸や妻の木連(きずれ)格子も美しい。柱はすべて面取りの角柱である。
永正5年(1508)6月18日付で桜宮聖出雲作と墨書された福大夫面(県指定文化財)がある。
中門・拝殿・透塀
本殿
明応2年(1493):建築
国重要文化財:建造物:指定 1901・01・27 1493年再建三間社流造、間口三間、奥行三間、檜皮葺、附:棟札15枚
一段高い玉垣内に建っている。
明応2年(1493)年社僧の勧進により甲賀郡内諸村の347人が米百八十石五斗六升五合、金子四十一貫四百文を寄進し上棟された。
棟札が再建年代を、14枚が修理経過を明らかにしている。
柱はすべて自然石の上に立つ。身舎柱は円柱で、庇柱と向拝柱は面取りの柱である。
向拝は連三斗に手狭を組み、中備に蟇股、前室は両隅柱上に連三斗を組んで桁と繋紅梁を受け、中柱上は平三斗組で各間に蟇股を入れる。
脇障子には舞楽を舞う人物像が浮き彫りにされている。
右の蟇股には雲と竜、左には竹と虎、中央には牡丹唐草(からくさ)に勧進者の花押(かおう)を彫る。
祖霊殿
本殿に向かって右側に、敷石積跡が残る一画がある。油日神社の塔頭跡である。その先にある建屋が祖霊殿である。
本社の氏子の祖先の霊を奥深い境内の祖霊殿で祀っている。
その他の社殿
鐘楼
境内社
木製の鳥居をくぐって参道をすすむ。その左側に建屋が並ぶ。木々に囲まれ落ち着いた雰囲気の中にある。
社務所、参集殿である。
甲賀歴史民俗資料館
油日神社の境内に接して建っている。楼門の右手奥にある。
甲賀市には23件の国指定重要文化財があり、県内4番目を誇っている。文化財の他にも多くの資料が存在し、これらを保存・展示している資料館である。
当神社関係では、曼荼羅など多くの仏画類が含まれる。かつて天台宗の神宮寺が関与する神仏習合の祭祀が行なわれていたことを示す。
また明応2年(1493)の本殿上棟にかかる巨大な棟札は、寄進を行なった郡内の諸侍ら347人の名が見え、信仰の拡がりが知れる。
勿論、「ずずい子」や「福太夫神面」も展示されている。
甲賀武士(忍者)の資料や、甲賀市の地場産業である製薬業と家庭配置販売業についての資料もある。
高野槙
樹齢700年以上と推定され、滋賀県の自然記念物に指定されている。
境内の老樹
境内を囲む鬱蒼とした森、目一杯に木々が林立している。本堂裏側には直径1mを越すばかりの老樹が目だって多くある。
約120年前の明治23年(1890)、関西鉄道草津線(現JR草津線)が開通した。その線路敷設工事の際、神社の木々が枕木用に伐採され使われたが、それら老樹はその時残されたものである。
以後、植樹された若い木々が森を埋めている。
5月に油日郷の村々を挙げて行なわれる「油日祭」は、甲賀路の代表的な春祭りで、風流の太鼓踊りや奴振りの賑わいが春の山里を一層明るくする。
油日の奴振
県選択無形民俗文化財
大祭日は5月1日。特に5年毎に行なわれる頭殿行列は一般に(奴振)と呼ばれる。
社伝によれば平安末期に円融天皇の勅命によって始められ、甲賀の豪族5家が毎年交代で頭殿(祭主)を務めたという。
祭りの準備は1月2の申の日から始まり、5月1日の本祭には頭殿を先頭に、お供(長持奴、挟箱持、毛槍奴)約60人がそれぞれの役を演じながら本殿に向かう。「奴振」とともに大踊と小踊が行なわれる。
油日の太鼓踊り
国重要無形文化財
「奴振 やっこぶり」は頭殿(とうどう)と呼ばれる祭主に従う供(とも)の行列であり、先頭は御用長持ちを舁(か)く長持奴が長持歌を独特の調子で身振り面白く練り歩き、これに花奴が続く。大踊と小踊が行なわれる。
大踊は雨乞を意味し、小躍りはその返礼の時のもので、踊の種類はホンデン踊、笠踊、花笠踊などに分かれる。
習練の太鼓の音色が境内に響く。
ずずい子「室町時代」
高さ40cmの木彫人形で、手足は勿論、巨大な男根の上下に動く。
小児であるのに大きな男根をもち、手足も動くように作られた木像で、永世5年(1508)桜宮聖出雲作の銘をもつ福太夫神面と対になることから、これも同時期のものとされる。
盥(たらい)の中から着物と丸帯を取り上げて、これを男子の誕生と見せる。巨大な男根は豊かな実りをもたらす呪術性を示す。
ユーモラスとは異なる、一種の呪術性を感じる。
ずずい子は同社で明治維新前に新年の行事として行なわれていた「稲講会」に用いられた記録が残るが、おそらく古くに伝えられた田楽が年頭にその年の豊作を祈る予祝儀礼として民俗化したものであろう。
油日岳
海抜690m余。頂上に聳える老檜巨杉も鉄道沿線から肉眼で見える位の手近かな山で、一日のハイキングコースとしても格好な所とされ喜ばれている。
頂上からは甲賀・伊賀の山野が一望でき、三上山も小さく見え、晴天の時は琵琶湖の一線が浮き出される。
岳神社は杣の水源油日岳頂上に鎮座、油日大神の神体山として荒御魂をまつり、水神罔象女命(みずはめのみこと)を祀る。
社殿は40年毎に式年の造営が行なわれる。
春朝翠霞の中に映ずる油日岳、旭光輝き亘る秋空にうきでる油日岳、四六時中仰ぎ見るこの御山のみ姿が人の心の糧となったことは今も昔も変わりない。
山頂には油日神社の奥宮にあたる岳大明神(だけ)が祀られており、今も、毎年9月11日の夕方から山頂への荒魂(あらみたま)を山麓の油日神社に迎える神事が行なわれる。
登山路
神社の裏側に登山道がある。標高694mである、車で半分ほど登れるようだ。
参考資料《甲賀郡志、甲賀市史、滋賀県の地理、郷土資料辞典、かくれ里をいく、他》白鬚神社祭神:猿田彦命赤鳥居を過ぎて直進する。民家がきれた左側にある。通りからかなり奥まった、太い木々に囲まれた丘陵に建つ。
小さな社であるが、神霊な雰囲気がとってもいい。
社の基礎の石垣もきれいな整層積で、戦国時代の古さを感じさせる。
本殿は永世7年(1510)再興で、棟札が残る。
祭神猿田彦命は本社にも配祀されているが、油日大神の天降り鎮座ましし際のサキダシ彦で、授福方除敷地祓いの神として参拝者が多い。
神宮寺浄土宗
白鬚神社の隣にある。
神宮寺は油日神社の別当寺で、油日神社の神仏習合の寺である。
もと天台宗であったが、寛文年間(1661〜73)王誉が中興して浄土宗に改宗。
なかなかの風格が感じられる社寺である。
善應寺(ぜんのうじ) 西国33ケ寺第4番札所天台宗
本尊:十一面千手観世音菩薩像
もと油日神社の塔頭の一つで、大化2年(646)聖徳太子建立と伝える。
比叡山延暦寺に属し、1350余年の法灯が護り継がれている。
北朝観応元年(1350)足利尊氏の弟直義に味方した甲賀武士団が当寺に集結挙兵した。
往時は広大な寺領を有し権勢を誇っていた。
本尊十一面観世音菩薩
秘仏で、33年に一度の開扉、像高:67cm
不動明王・子安観音を安置する。
乳銀杏
呼吸根が乳の形になって樹面に現れる特殊な現象を持ち極めて珍しいとされる。幹周り2m以上、樹齢100年以上
油日館
神宮寺前のY字路から右に曲がり坂を上ると右手に竹やぶが見える。そこが油日館跡である。
竹薮のなかに僅かな土塁が見える。
石碑と位置図が立っている。おそらくもとは平地方形城郭であったと思われる。
石碑のある道を進む。石灯籠の並ぶ道を道なりに進むと、油日神社の社殿の前に出る。この一帯の境内は深い森となっている。
油日神社文化財一覧福太夫面(ふくだゆう)は、江戸末期まで毎年正月初申の夜に、拝殿で上下の瀬古神主家が勤める稲講会の種蒔神事に用いた祭具である。
背面に出雲明秀作の墨書銘がある。ずずい子の背面にもあって、同一人物の作とされる。
古面
絹本著色聖徳太子絵伝
本来は六幅から構成さる絵伝で、現在誕生から15歳までと34歳から没するまでの四幅の聖徳太子の絵伝が伝わっている。
室町中期の作とされる
曼荼羅・他
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