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滋賀県甲賀市 大池寺

Daichiji, Koka city, Shiga

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Nov.23,2020 瀧山幸伸

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A camera

                                                                                          

 

B camera

                                                                                                                                    



September 9, 2018 野崎順次

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滋賀県甲賀市名坂1168

臨済宗妙心寺派

龍護山 大池寺

(Daichiji Temple, Koga City, Shiga Pref.)

寺伝では、奈良時代末期にこの地を訪れた行基が、現在も寺の周囲にある4つの大きな溜め池「心字(しんじ)の池」を造り、そのほぼ中央に本堂を立てたのが寺の始まりとされています。寺名もこのことに由来しています。「心字(しんじ)の池(いけ)」はその後、一千年以上にわたって灌漑(かんがい)用水として周囲の水田を潤してきたといいます。

長い刈り込み垣に挟まれた参道を行くと、山門と白壁の塀が目をひきます。境内には本堂のほか、書院・茶室・庫裏(くり)などが立っています。本堂の床は四半畳敷きの瓦で珍しく、行基(ぎょうき)の作と伝えられる釈迦如来像が安置されています。

また、書院の東側に、ある蓬莱(ほうらい)庭園は、江戸時代に水口城を築いた小堀遠州(こぼりえんしゅう)の手によるものといわれ、四季それぞれにすぐれた趣をみせてくれます。

(滋賀県観光情報 滋賀・びわ湖観光情報ウェブサイトより)

パンフレット、現地説明板、アプローチ

            

山門から本堂

          

市文 木造釈迦如来座像

         

再興開山丈巖禅師御木像など

       

市名勝 大池寺庭園 江戸初期

本庭は本寺書院の東北庭に当たり、面積九十八坪のやや方形に近い枯山水であるが、この枯山水は、一般の枯山水と異なって、全庭大刈込一式の作品である。このような大刈込一式の枯山水は、江戸初期正保から万治にかけて流行を見たもので、京都の修学院離宮の上の御茶屋の大築山や堤塘の大刈込、正伝寺の七五三刈込一式の庭、大和郡山市の慈光院庭園といった例があるように、この頃の流行型であるが、特にこの大刈込は、その先例が岡山県の頼久寺にあり、これは小堀遠州の作庭であったから、遠州系の作庭の中に、このような大刈込の庭ができても不思議ではない。

本庭は東部から北部にかけて、二重の大刈込垣を作り、この大刈込垣はただ単なる垣としての役目ではなく、大海波を見せた大刈込であって、それ自体が庭園としての重点であり、さらに中央部に大刈込による船形の中島が作られていて、大刈込一式の蓬莱山水としての構成であることが解り、ともかく異色のある傑出した庭園である。

(重森三玲「日本庭園歴覧辞典」大池寺庭園より)

                          

書院、庫裏、茶室、中庭、坪庭

                       

本堂周り

                 

山門横の小庭園

   

廻遊式琵琶湖庭園

             

今池

   


Nov.2010 撮影: 中山辰夫

甲賀市水口町名坂168 臨済宗

本尊:木造釈迦如来坐像大岡寺から西へ約2km、国道一号線を北に走り、名坂の集落を抜け低い丘陵沿いの道をゆく。

眼前にあらわれる大池寺の佇まいに心がひきつけられる。長い刈り込み垣に挟まれた参道の先の、門と塀、本堂の屋根が後山の松林に溶け込む。禅寺らしい清らかさと静けさが迎えてくれる。奈良時代末期にこの地を訪れた行基が現在も寺の周囲にある4つの大きな溜め池「心字の池」を造り、中央に本堂を建てたのが始まりとされる。寺名もこれに由来している。

境内には、枯山水の「蓬莱庭園」や樹齢400年に近い「臥龍の松(がりゅう)」がある。書院の東側にある蓬莱庭園は、サツキの大刈込み鑑賞式枯山水で四季折々優れた趣を見せてくれる。

作庭は小堀遠州で、作事奉行を勤めた水口城の落成の際に、祝意を表して作庭したと伝わる。

社殿は2年前に新築され、まだ木々の香りが漂う感じである。

本堂・書院・茶室・庫裏などがある。

本尊の「木造釈迦如来坐像」と「大般若経六百巻」は市指定文化財である。

                      

寺伝によれば、今から約1200年前、天平年間(729〜784)高僧・行基の創建とされ、勅命により七堂伽藍を整え、自刻の仏像を安置して、「邯鄲山勝蓮寺」と号したという。その後一時天台宗となったが不詳である。

元亨元年(1321)無才智翁によって再建されたが、天正5年(1577)兵火を被り全焼。慶長年間(1596〜1615)堂宇を建て徳川家康から寺領700石を与えられた。寛文7年(1667)松島瑞巌寺(宮城県)の丈厳が当寺に留錫し、堂宇修築を行なったが現在の寺観はこの時のものと伝え、現寺号。宗派に改められた。

同年後水尾天皇より白銀100両が下されるとともに、小堀遠州も保護を加えたとされる。

大池寺内には、本堂・庫裡・茶室・隠寮・書院・鐘楼・土蔵・弁天堂などがあるが、中でも本堂は、大池寺再興以来、当時のままを保ち、それは禅宗建築における仏殿様式で床は瓦敷きとなっている。

昭和60年(1985)に、本堂屋根の修復工事を行った際、瓦より建立寺の年代を示す刻印が発見できた。又、屋根板には当時の寄進者の祈願が記されていた。

この工事で、本堂西側に隣接し開山堂を増築したのが唯一の変化である。又、庫裡においては昭和25年(1950)に、大改築、修理を行った。

龍巌月泉和尚が、昭和12年(1937)に住山するまでに、住職不在の期間があり、また庫裡も建築以来、それまでは手が加えられておらず、当時の建造物は葦葺きの大屋根で建物の崩壊は、はなはだしく、いたるところに雨漏りや壁落ちのある惨憺たる建物だった。

書院前庭の江戸初期、小掘遠州作と称される枯山水庭園はじめ、境内いたる所に風情ある庭があり、年間を通じ四季の移り変りを楽しむことができる。

山門

    

庫裏

樹齢400年近いとされる「臥龍の松」

       

茶室・他

    

本堂と木造阿弥陀如来坐像

    

本尊は宇治の平等院を思わせるような「阿弥陀如来」。丈六仏で鎌倉時代の作、市指定文化財である。

桁行五間、梁間五間、寄棟造、本瓦葺、西側面及背面軒下張出付 寛文10年(1670)建築

平面は方三間の身舎の四周に庇をめぐらし、内部床を四半敷瓦とする禅宗の仏堂であるが、正方形ではなくやや横長で、柱はすべて角柱とし、側通に舟肘木を置く以外に装飾がすくなく、中世の禅宗様仏殿とは全く異なった新しい様式を示す。

わずかに来迎柱相互間に禅宗様の頭貫・台輪をいれ、組物は出三斗組、中備に挙鼻付の平三斗を入れて、この部分のみ禅宗仏殿らしい装飾をみせる。

江戸時代に変化をとげた禅宗仏殿の初期の例として重要とされる。

床は「カワラ」敷きとなっている。禅宗の仏殿様式にあわしてある。滑りにくさにも役立っている。

信長の兵火で焼失下に関らず紋所の幕があるのは、信長がにその後再建したためとのこと。

土蔵・他

    

書院と庭園(蓬莱庭園)

              

さつきの大刈込みを配した鑑賞式枯山水で、規模は小さいが、様式は備中松山城に近い頼久寺の庭と双璧といわれ、庭園史上貴重なものとされる。小堀遠州が築城の祝意をこめて作庭したともいわれる。

前方正面が二段構えとなっており、左右の大刈込みが海洋の大波小波をあらわして、中央の七つの石と、小刈込みはまるで宝船の七福神を連想させる。

これが鶴島にもなっている。その右の刈込と小岩を組み合わせたのが亀島とみられる。刈込本位の庭で、変化のある線をたくみに構成している。

茶室前庭の蓬莱石組もおもしろく、本堂前の石畳に沿う低い潅木の垣も整然としていて、若葉の頃は清らかな美しさを呈すると思われる。

なお、この寺には狩野秀信筆の墨絵や、明兆の「涅槃図」があり、境内には仏足石もある。

前庭・他

     

心字池

中興の丈岩禅師が明暦年間(1655〜58)に火災予防のためにこしらえた人造池で、どんな旱魃にも絶対水がなくならないそうである。

雑記名坂とは名古屋と大阪の中間地点にあることから名づけられたともいわれる。

平成5年2月1日に85cm積雪があった。全く前例の無い、初めてのことだった。(ちなみに彦根は3cm)

書院・他の社殿も耐えられなくなり、やむなく平成6年から立替を行なった。仏殿以外はほぼ建て替わった。現在の住職は28才。先代が若くして逝去された。先代からは小学生の時から「刈込み」の手ほどきを受けてきたので、今は住職の手で刈込みを行なっている。今年の猛暑にもめげずにサツキは元気だった。寄贈された水撒装置をフルにつかって毎晩水を与えたとのこと。

当寺のあたりは水道配管の終点部に当たるため、夕刻になると水圧が下がって水が出にくくなる。そのため夜間に水遣りを行なった。

当然、池からの水も利用した。

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