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滋賀県甲賀市 水口神社

Minakuchijinja,Koka city,Shiga

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曳山祭
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Apr.20,2014 中山辰夫

水口神社

水口町宮の前祭神:大水口宿彌命(おおみなくちすくねのみこと

水口神社は、平安時代の延喜式に記録されている式内社で、水口を開拓した大水口宿彌命が祀られている。

江戸時代に水口宿の繁栄とともに社殿が整備され、藩主加藤氏の保護を受けて「大宮さん」と呼ばれ親しまれてきた。

撮影日は、水口曳山祭が毎年4月19日〜20日に行われる・「例大祭」当日の水口神社である。

境内

太鼓橋 江戸時代のもの

拝殿

入母屋造 間口三間 奥行三間  1844(弘化元)年に建造されたもの

中門、幣殿、本殿

一間社流造 間口二間 奥行二間  現在の社殿は1897(明治30)年建造されたもの

本殿に向かって左側にある石灯籠は江戸初期、鳥居前の太鼓橋も江戸時代のもの。

六角型石灯籠

花崗岩製。基礎に僅かな小欠がある以外は各部完存する。総高200.5cm

水口曳山祭

甲賀市水口町 滋賀には多彩な曳山祭礼が伝わっており、代表的な曳山祭は、春の長浜祭・水口祭・日野祭・大溝祭、秋の大津祭・米原祭、などである。いずれも江戸時代に端を発しており、その時代の町人の豊かな経済力をバックに生まれたもので、町人文化の象徴的な存在といえ、約400年の歴史を背負って継続されている。 その一つ水口曳山祭は、水口神社の大祭で、毎年4月19・20日に町をあげて挙行される。今年の20日の本祭りの午後は快晴も手伝い、町中がカラッポになるほどの人が神社周辺に集まった。 水口は江戸時代、東海道の宿場町、加藤氏2万5千石の城下町として栄えた。その水口衆の心意気を示す伝統の祭りで、曳山が登場したのは1725(享保20)年で、9基の曳山が藩邸にも繰り込んだといわれる。

19日は宵宮祭で、神社では神輿が出御、町中では曳山に提灯や自慢のダシを飾り付け、にぎやかに宵宮囃子を奏でる。

山車蔵は各町に1棟ずつ持ち、間口3.6m、奥5.5m、高さ7mの切妻妻入り、上部に定紋をいれる。

本祭りの20日、各町内を出発して神社に向かう。曳山16基のうち、今年は8基が参加した。その昔、雨乞いの返礼に練物・つくり物・各種踊りとともに山鉾が巡行した。御旅所に曳山と纏(まとい)田楽が到着後、揃って水口神社に向かう。

水口町中散策(12:30頃)

路面に曳山の巡行跡が残っている。しかし人影は皆目ない。

纏田楽

各町の警固は袴を着用し、先端部の御幣を付けまとった田楽を持っている。曳山巡行の前・後に分かれて宮入する。

纏田楽は側面が扇形、短形、などの箱の木枠を作り、その四面に町名を書いた紙を貼る。先端に御幣を付け、全体を紅白の布きれ巻いた棒に、田楽豆腐のように取付けたもの。祭りに参加の41町が一基ずつ作る。かっての練物の名残といわれる。

神事を待つ人々の表情である、

境内に宮入りした曳山

各曳山で意匠を凝らす屋上のダシ

曳山の装飾

「ほいのぼり」

拝殿の左右に一本ずつ立つ。この前で氏子古式祭等の神事が行われる。ホイノボリは竹を細く割って作った竹ひごに紙の花をつけて美しく飾られたのぼりで、この近辺では祭りの欠かせないものである。

水口ばやし

県無形民俗文化財指定

祭りのムードを盛り上げる「水口ばやし」が曳山巡行時や神社の曳山前で賑やかに披露された。江戸流神田囃子の流れを汲むとされる勇壮な調べである。

囃子は曳山を出した各町で継承される。大太鼓・小太鼓・鉦・横笛を扱う若衆は小学生を含む若い人たちで、楽譜もなく口頭で伝播し、聞き覚え、見覚えで、手を取っての練習を毎日重ねてきた。

神輿渡御

神事の後御輿渡御が行われ、各町内をまわる。

帰り山

提灯に火をつける。雨が降り出したので早めに帰ったので見逃した。

21日はゴエン(後宴)

祭の後始末をする。この日は”山遊び“といい、古城山や付近の山へ出かけたり、野洲川原に下ったりして親類、近所、友人仲間と野宴を楽しむ風習があった。

今は後始末だけの様だ。 ≪参考≫ 曳山紹介


Nov..2010  撮影/文: 中山辰夫

水口神社「含む水口曳山祭り」水口町宮の前

祭神:大水口宿祢命  配祀神:大己貴命

祭礼:水口曳山祭

近江鉄道水口城南駅下車3分、水口歴史資料館や図書館が近辺にある。

平安時代の延喜式に記録されている式内社で、水口開発の祖神「大水口宿弥命 おおみなくちのすくね」を祀る。

江戸時代に水口宿の繁栄とともに社殿が整備され、藩主加藤氏の保護を受けて「大宮さん」と呼ばれ親しまれてきた。

祭礼は4月19日・20日に行なわれ、宿場町の繁栄をもとに町人たちが作り出した曳山祭礼である。

豪華な曳山と力強い水口ばやしが祭りを盛り上げる水口曳山祭が開催される。

社伝によれば御祭神の大水口宿祢命は饒速日の命六世出石心大臣の御子で、出石心大臣の命の御母は淡海川枯姫である。

淡海川枯姫は川枯首阿目加伎?命四世の孫阿自夷沙比止命の後であって川枯神社に祀る。

大水口宿祢命は母方の縁に依り此の地に居住されたものと思われる。土地の開拓の神として人々の崇敬が篤い。

当社は延喜式内の旧社であって神明帳にある甲賀郡八座の一つである。

本社の境内は往古には東西三十町南北二十五町を所有していたが永禄年間(1558〜70)にその大半を官没され、天正年間(1573〜92)に至り社領を失いわずかに五六間四方を残したという。寛文3年(1663)6月代官小堀仁右衛門が水口へ赴任の時郷民に命じて再建させ、明年5月に至って竣工した。

元禄10年(1697)拝殿の補修、正徳2年(1712)6月下野国壬生城主の加藤和泉守嘉矩が水口へ入城、本社の荒廃を嘆じて町民に造営をさせ、享保14年(1729)9月遷宮を行ない、同19年(1734)修復を加える。

延宝(1673〜81)の頃よりの旱魃の時雨乞祭を行なう。その時藩主の参拝又は代参があった。

明治元年(1868)9月聖上、御東幸の時勅使を差遣せられる。明治27年(1894)6月14日境内を拡張し社殿の造営に着手し、同30年(1897)4月竣工、これが現在の社殿である。水口曳山祭(みなくちひきやままつり)水口神社を起点に行なわれる

水口は中世、伊勢神宮のための街道筋の宿場として開け、江戸期には東海道五十三次の一宿として大いに賑わった。

また加藤氏二万五千石の城下町として、この地域の政治・経済・文化の中心地であった。

水口祭は、この町に住む民衆の力で創りだされた。祭は水口神社の春の例祭である。

同社は延喜式内社で、江戸時代に水口宿の繁栄と共に社殿を整備した。また藩主加藤氏の保護を受けて栄えてきた。

今も“大宮さん”と親しまれている。 水口祭の呼びものの一つに曳山がある。

その巡行は享保20年(1735)に始まるといわれ、現在16基を有している。

二層露天式人形屋台と呼ばれる構造で、複雑な木組や精緻な彫刻、華やかな幕を飾り、屋上に山車(人形飾り)を乗せている。

4月19日、宵宮祭、20日、例大祭。

曳山が町内を巡行し、神輿渡御や稚児行列も行なわれる。

また、もう一つの呼びものに曳山で奏でられる水口囃子がある。

大太鼓・小太鼓・鉦・横笛を用いて、神前で額・大蛇(おろち)、巡行中に馬鹿囃子・大廻(おおま)(馬)などを演奏する。 レポート”水口曳山祭“

参考資料《故国百選、水口曳山祭、甲賀市史、他》


Sep.2010  撮影: 中山辰夫

石橋

社務所、斎館

拝殿

入母屋造 間口三間 奥行三間

中門・幣殿

本殿

一間社流造 間口二間 奥行二間境内社

その他

境内社

石塔籠

本殿右側前方に建つ花崗岩製の六角石塔籠である。

火袋に蓮華、日輪、青鎖、火口を設け、三茎蓮の近江式装飾文を刻出している。

基礎は素面ながら、竿中央に連珠文帯を儲け、下部には康永元年(1342)4月20日の造立銘がみられる。

木造女神像

国指定重要文化財

木造、22.2cm、一木造、作者伝来不明。

垂髪で両手を袖に入れて前に拱いた半身像で彩色を施す。素朴で豊満な姿に藤原期(10世紀から13世紀)神像の特色を示す。

例大祭

この神社の例大祭は「水口曳山祭」で4月20日に開催される。

「曳山祭」は江戸時代中期、享保年間(1716〜35)に町民の力で創り出された祭礼で、町の繁栄と心意気を示すものである。

4月19日「宵宮祭」で各町内曳山に提灯を付け飾りつけ、「宵宮ばやし」を奏でて祭り気分を盛り上げる。

4月20日の「例大祭」は各町内を出発した「曳山」と「纏田楽」(まといでんがく)が、お旅所の「弟殿」と呼ばれる所に集まり曳山には「ダシ」を飾りつけ水口神社へ渡御が行なわれる。

午後神事が終了すると、夕刻に曳山は提灯を灯し各町内に戻っていく「宵山(帰り山)」が行なわれ、華やかに幕を閉じる。

参考資料《滋賀県の地名、甲賀市史、甲賀をひもとく、他》

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