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滋賀県甲賀市 信楽 多羅尾村

Tarao, Koka city,Shiga

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Dec.2010 中山辰夫

参考資料

多羅尾村は信楽地域の南部、信楽山地のなかにある山間の集落であるが、南は三重県、西は京都府と境をなし、早くから道が開かれ、奈良から近江、また京都から伊賀・伊勢へ抜ける京街道の要地であった。

峠として伊賀上野へ抜ける御斎峠(おとぎ)をはじめ、野殿越・島ケ原越・押原越がある。

中世は信楽庄に属し、1353年の書に、「信楽庄多羅尾郷」とある。その庄官に多羅尾氏がおり、その後勢力を拡張して本拠地とした。

寛永石高帳には幕府代官多羅尾領とされ、以後同領として推移し、一時大津代官の管轄下にあったが、

再び多羅尾領に戻り明治維新を迎えた。

村人の組織として左座・右座の二座よりなる宮座があり、その由緒と多くの年中行事を伝える。

宮の谷に里宮神社、六角に高宮神社が鎮座し、里宮神社の秋の大祭には太鼓踊りが奉納される。

この地域の伝統食として「茶粥」がある。朝宮地区と同様、今も「信楽の味」として食されている。

ここでは、耕地面積が少ないため米を大切にすることもあり、粥(かゆ)が日常的に食されてきた。

多羅尾は茶の産地であり一番・二番茶は販売用に、3月に取る春番茶を蒸し上げ、乾燥させた茶を使って粥を作っている。

多羅尾代官所跡

多羅尾集落の南西にあり石垣が残る。江戸時代幕府代官を勤めた旗本多羅尾氏の居館で、代官所を兼ねた。

今から約650年前、正応4年(1291)関白左大臣の近衛家基葉、中央政界の紛争を避け小川に隠れすんだ。

その子、経平も病弱のため左大臣の職を辞し、同じ小川に住み、信楽郷の領主になった。

経平の血を引く高山太郎光俊が多羅尾の領主となり、多羅尾氏名を名乗った。

多羅尾氏は次第に勢力を伸ばし、14代光俊は、近江を勢力下におさめた織田信長の旗下となり、続く豊臣にも仕え、近郊合わせ8万石の大身に成長した。

しかし、文禄4年(1595)、関白秀次が高野山で自殺させられる事件が起こり、秀次に仕えていた光俊も、その領地を没収された。

その後、「本能寺の変」に際し、家康を居城に一泊させ、明智の追手の中を加太越えに、伊勢の白子浜まで送り届けた多羅尾家の恩を忘れなかった家康が、光俊の子、光太を幕府直轄の信楽代官にした。

その後、多羅尾氏は次第に領地を増やし、特に25代純門は在職30年善政をしき、4万石の管轄地を増加され、全国の代官の中でも上位となった。

純門は、文学を好み、国学者佐々木弘綱などを招き、学問や歌道を奨励した。

その城跡が多羅尾代官所跡である。

多羅尾滝の脇磨崖石仏群

市指定文化財

茶屋出の交差点を、大戸川に沿って東北にやや進んだ街道筋にあって、大きな岩肌に彫出されている。

この道は伊賀上野に通じる御斎峠(おとき)へ通じるため行き交う人も多く、安らぎの場となっていたようだ。

正中2年(1325)の紀念銘と願主銘の刻銘がある。

横長の二段に重なる花崗岩に彫刻されている。この岩壁に大小21体の像が彫られている。

中央にひときわ厚肉彫りに陽刻された像高:60cmの阿弥陀如来坐像が定印を結んで座っている。

県内では、例の少ない像容を彩色で荘厳した痕跡が見出される、極めて貴重な磨崖石仏群である。

浄顕寺

甲賀市信楽町多羅尾

開基は古く800年の昔にさかのぼる。

徳川幕府直轄代官であった多羅尾氏の菩提寺。二代光太の妻逝去によって、菩提を弔うため建立された。

木造聖観音立像

国重要文化財

本堂内左側の厨子内に安置され、秘仏とされている。恵心僧都の作とも伝えられる。

この像はもと真言宗の平楽寺にあったが、伊賀の乱のとき、伊賀上野より、寺号、仏像ともに多羅尾に避難していた。

明治初年平楽寺が廃寺となり全部浄顕寺に移った。その中で本尊仏であったのがこの聖観音像である。

像高:1.15m、ヒノキ材、寄木造立像で、七宝の蓮華座上に立っている。

頭上には華麗な宝冠をつけ、左手に半開の蓮華を持っている。面貌穏やかで、水晶の白豪をつけ、

ゆるやかな纏衣と相まって藤原末期の様式を備えている。

十王地蔵

この寺の境内には伊賀に通ずる御斎峠の路傍にあったという南北朝期の石仏十王地蔵がある。

天慶元年(938)、多羅尾の開祖甲賀三郎兼家が当地で出世すると、兄重宗、定頼の二人がこれおねたみ、

兼家を謀殺しようとして、かえって自亡した。その亡霊の冥福をいのるために地蔵尊十基が造られた。

もとは御斎峠の近くにあったものをここに移したと伝わる

高宮神社(たかみやじんじゃ)

信楽町多羅尾646

祭神:火産霊神

当社は垂仁天皇4年より4年間、倭姫命皇大神宮を、信楽日雲里、多羅尾村高宮に奉斎するとあり、その後正安元年(1299)近衛基平

一子、高山太郎師俊こと地を領有し、日雲の宮跡に火産神と近衛家の祖を祀し今日に至る。

拝殿・本殿以外に手水舎、社務所が建つ。

本殿

国登録文化財

構造:一間社流造、木造平屋建、檜皮葺、建築面積5.0㎡

建築:安政6年(1859) 登録基準:造形の規範となっているもの

解説:

一間社流造,檜皮葺の社殿。棟札より安政6年の新築で,近江蒲生郡八幡町の名工高木作右衛門が棟梁を努めたことが知られる。

同種の社殿としてはやや大きく,身舎を内陣・下陣に分けるなど形式を整えている。中規模一間社の好例である。

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