滋賀県甲賀市 紫香楽宮跡
Shigarakinomiya ato, Koka city,Shiga
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宮町遺跡・他を含めて評価 | |
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Dec.2010 中山辰夫
紫香楽宮跡、甲賀寺跡
Shigarakinomiya ato / Kokaji ato
信楽町牧
国史跡:指定(大正15年(1926))
聖武天皇がはじめて信楽に行幸した天平14年(742)に通ったであろう旧街道も、牧東で国道307号線と合流する。
暫くは307号線を進む。かつては丘陵地帯の松林が景観をなしていたようだが、開発が進み姿を消している。
高原鉄道紫香楽宮跡駅から北西へ700mの所に、松樹の繁る小丘がある。この丘が「内裏野 だいりの」と呼ばれ、天平14年(742)から745年に至る4年間、聖武天皇が都城として経営した紫香楽宮跡(国史)である。
聖武天皇が離宮造営に着手したことに始まる紫香楽宮。わずか数年で遷都されたため長く幻の都といわれてきたが、平成12年に宮町遺跡で宮殿跡が発見されて以来、発掘が続けられている。
宮跡には小さな社殿が建っている。その周りにかなり大きな礎石が散在し、講堂跡、金堂跡、僧房跡など小さな石柱が立ててある。
1200年を越えた今なお、建造当時の330個余の礎石が、ほぼ東大寺式の伽藍をなして、そのままの姿で残っている。
平日は実に静かな宮跡である。
金堂
僧房跡
鐘楼
中門
塔院
聖武天皇の御代は、咲く花の匂う如しといわれた奈良の都の時代であるが、貴族層・僧侶層が大きな力を持って政治にも影響を与える状況にあって、天皇には苦労の多い時期であった。
天平12年(740)12月に、奈良からすぐ北の山背(やましろ)の恭仁へ都が遷されたが、14年(742)2月5日、はじめて恭仁京東北の道を開いて、近江国甲賀郡へ通じた。
瓶原(みかのはら)から和束川に沿って湯舟から近江に出、朝宮をへて大戸川沿いに信楽谷に入る八里の道である。
8月11日、天皇は甲賀郡紫香楽村に行幸の意を詔し、造離宮司が任命された。
ここにはじめて紫香楽の地名が歴史上に登場する。
かくて紫香楽宮が造営され、甲賀寺が建てられ、金銅盧舎那仏の大像造顕がはじめられる。
天平16年(744)11月13日、大仏の体骨が立てられた。
翌17年正月元旦、紫香楽宮を新京と定められたが、奈良へ都をかえすことを望む者が多く、怪火や地震がしばしば起ったので、早くも5月11日に奈良遷都となり、わずか2年9ヶ月で紫香楽宮は姿を没し、大仏造立も改めて奈良で再開されることになった。
その結果、完成したのが、東大寺の大仏である。
紫香楽宮は、天平時代のあわただしい政情につれて花開き、また消え去ったのである。
《歴史と文化 近江 川勝政太郎著より抜粋》
文献資料
参考資料《甲賀郡志、甲賀市史、甲賀をひもとく、天平の都・紫香楽、他》
宮町遺跡
Miyamachi iseki
昭和48年(1973)のほ場整備工事で奈良時代の太い柱が見つかった。
その後、20年以上続けてきた発掘調査での多量の木簡の出土、宮の朝堂と考えられる大型掘立柱建物の発見などから聖武天皇の紫香楽宮の宮殿跡であることが分ってきた。
天平14年8月から天平17年5月に至るうちの564日間、なだらかな山並みに囲まれた景観が美しい小盆地である宮町の地で、聖武天皇はその日々を過ごした。
宮町調査事務所
宮町遺跡の発掘調査拠点
宮町遺跡の出土品や、紫香楽宮跡に関する解説パネルなどを展示公開している。
文献
新宮神社遺跡
Shinjujinja iseki
宮町遺跡の宮殿跡と甲賀寺跡を結ぶと見られる南北に走る道路跡と橋脚跡、道路脇に立つ建物跡が見つかった。
道路の幅員は約12mを測り、紫香楽宮内の主幹道として機能した「朱雀路」だと考えられる。
参考資料
鍛冶屋敷遺跡
Kajiyashiki iseki
甲賀寺の造営に関る銅製品の官営鋳造工房跡である。生産工程に合わせて施設が造りかえられ、中型の銅製品を鋳造する13もの工房が整然と並んで操業された時期、梵鐘や仏像の台座といった大型銅製品を鋳造した段階などの変遷が確認された。
参考資料
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