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滋賀県甲賀市 矢川神社

Yagawajinja, Koka city,Shiga

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Sep.27,2014 中山辰夫

甲賀市江南町森川案内

分岐点には1851(嘉永4)年に建てられた山上庚申道の道標があった。神社入り口に立つ常夜燈二基は天保の銘を持つ。

モニュメントの前の三叉路の先に参道が見える。矢川神社名は、761((天平宝字5)年の石山寺増改築の際に切った木を運び出した杣川の川津の名「矢川津」から取られたと言われる。参道〜境内

石橋は花崗岩製。1671(寛文11)年建立。三本の円柱が三行三列に配置され、縦横の貫で固定する。梁に12本の桁を渡し48枚の橋板石を受ける。甲賀郡中惣遺跡群の碑

神社は中世になって、郡惣中の会合の場所となっていた。其の碑である。新治には多くの城遺跡がある。

矢川神社は、杣庄内二十二カ村の総社で「杣一之宮矢川大明神」と称されて、甲賀の雨宮として信仰を集めた。江戸期を通じて雨乞いの立願があり、返礼の雨乞踊りや能・狂言が神前に奉納された。楼門

県指定文化財 大和国布留郷五十余村より雨乞いの返礼として奉納された。元は二層の楼門であったが、天正元年大風で上層部が吹き飛んだ。

細部の手法は、新宮神社と類似点が多い。組物は和様三手先組で、各紅梁上には板蟇股を置く。室町時代の意匠が窺える。

拝殿

本殿

1756(宝暦6)年の築造。三間社前室付流造、向拝一間、銅版葺 規模が大きい。大工は近江八幡の高木但馬である。

蟇股の彫刻やあ紅梁など優れた絵様が見られる。高木但馬の最盛期の社殿建築と思われる。

狛犬と社務所

天保義民一揆 「矢川の早鐘」鳴り響く。

1842(天保13)年10月14日未明、幕府に抗議するため、矢川寺の早打ちの鐘を合図に数千人の農民が立ち上がり三上陣屋を目指した。

矢川寺は明治の「神仏分離」により廃寺となり、その跡地は、現在は社務所となっている。

鐘堂跡は残るが、その時鳴らされた鐘は戦時中に供出された。与謝野蕪村句碑、神社周囲の石垣は穴太衆積とされる。

   


Jan.2011 中山辰夫

解説:滋賀県教育委員会資料


Aug.2010 撮影: 中山辰夫

甲賀市甲南町森尻祭神:大己貴命・矢川枝姫命甲南駅の北西約700mのところにある。

創祀の年代は不詳だが、「延喜式神名帳」にも名を残す古社で、昔から雨乞いに好験あらたかな神様として信仰を集めている。

中世には甲賀武士(甲賀忍者)の崇敬を集めていた。

神域は約1万8300㎡、老樹の間に社殿がどっしりとした構えを見せている。

境内入口に建つ楼門は県指定文化財である。

社殿は南西方向に向かって建ち、楼門(県指定文化財)・舞殿形式の拝殿・本殿が一直線上に並び、拝殿左右に神楽殿(旧本地堂)と神輿庫が建っている。社宝として、江戸時代の16面紙本淡彩画(県指定文化財)が所蔵されている。昭和五十三年(1978)秋、拝殿を再建、同五十七年(1982)県俳文学研究会の手で「甲賀衆のしのびの賭や夜半の秋 蕪村」の句碑が建立された。

天平宝字六年(762)杣川中流の矢川津(やかわつ)の地に鎮座すると伝え、延喜式神名帳所載、甲賀八座の神社として知られる。

もと杣川流域は二十二ヶ村開拓の祖神と仰がれ、杣一ノ宮と称された。中世を通じて甲賀五十三家を中核とする連合自治組織いわゆる甲賀郡中惣の参会がしばしば当社にて催された記録にみえている。

また、当社は古来請雨の霊験をもって内外に知られ、室町時代中期の文明四年(1472)大和国布留郷五十ヶ村より請雨の返礼として楼門一棟の寄進を受けた。現存の楼門(県文)これである。

天正年間(1573〜92)、水口岡山城築城に際し当社別当矢川寺の坊舎が壊されるなど社頭が一時荒廃したが、慶長七年(1602)の検地帳に境内四町八反余とあり、慶安五年(1652)に拝殿、宝暦六年(1756)に本殿を再建し、正徳二年(1712)以来、水口藩の崇敬社に定められるなど江戸時代を通じ復興がはかられた。矢川の森から響く鐘の音は「水口八景」の一つ。矢川の遠鐘として親しまれたが、天保十三年(1842)十月四日未明、この鐘を合図に数千の農民が当社に結集、幕府の検地反対の一揆を起こし十万日の日延べをかち取った天保一揆(甲賀騒動)は上甲賀の農民と当社との深い関係を物語るものである。石橋

市指定文化財

橋は楼門前の池に架かる。寛文11年(1671)に設置。石造反橋(そりはし)で太鼓橋とも呼ばれる。

花崗岩製 形式は石造桁橋 橋板幅369cm、親柱真々幅314cm、同真々長差608cm、地上の高さ195cm

池中に三本の円柱が三行三列に配置され、縦横の貫(ぬき)二段で固定する。各柱頭に梁をのせ、その上に十二本の桁を渡し、四十八枚の橋板石を受ける。大型の反橋として貴重とされる。

楼門

県指定文化財

三間一戸楼門(上層を欠く)、入母屋造、茅葺

建立:室町時代 文明14年(1482)

楼門は馬場の北端に近世の石造反橋を挟んで一段高い段丘上に整備された境内の入口に南面して建つ。

その建立は、文明4年(1472)雨乞い祈願を行なった大和国布留郷(ふるごう 現天理市付近)の住人が、その返礼として奉納したと記録に残されているが、解体修理の際に墨書が発見され、文明13年(1481)に立柱し、翌14年(1482)年に完成したとある。

その後、大風で屋根が大破し、数年間放置された後、慶長年間(1596〜1615)に現在の形に修理されたと記録に残る。

平面は桁行三間、梁間二間で南面して建つ。下階柱間は棟通り中央間のみ両開き板扉を建て込み、その他の間はすべて吹流しとしている。

柱礎石は自然石を置き、雨落葛石(あめおちかずらいし)は切石をならべ、雨落内は土間叩きとする。礎石上に木製礎盤(そばん)を光付け、地覆を妻面および両脇間の棟通りに配し、中央間棟通りには蹴放(けはなし)をおく。

組物は和様三手先組(みてさきぐみ)で、柱通り上の通り肘木は三段通る。

中備(なかびぞなえ)は、間斗束(けんとづか 蓑束)を入れる。最下段の通り肘木のうち、中央間の梁間材および各脇間の隅行き材は、柱通より内部部分を紅梁型に造りだす。

各紅梁上には板蟇股をおく。

組物の形状など形式・技法や彫刻絵様・意匠などから、室町時代の意匠をうかがい知ることが出来る建造物とされる。

文化財修理の観点で、「金輪継ぎ工法」で修理した柱に注目。

拝殿

入母屋造 間口三間 奥行三間 入母屋造 正面唐破風付

本殿

市指定文化財

三間社流造 間口三間 奥行三間、銅板葺 

建立:江戸時代 宝暦5年(1755)

大型の三間社で県下に一般的な前室向拝一間付きである。

新宮神社一之宮本殿よりやや大型で、平面形式は類似しているが、当社の縁は三方だけでなく背面にまで廻している点で異なる。

各蟇股、妻飾の笈形、手挟等の彫刻類は派手につくる。

身舎と前室庇柱とのつなぎには一般的な海老紅梁を用いずに水平の紅梁を使い、従って側面には紅梁を二段に重ねて中備蟇股を入れる。

その中備蟇股は龍の彫刻である。

庇正面も頭貫を紅梁型とする。脇障子も華麗なもので、笠木下に長押を廻し、その下に薄肉彫りの彫刻付きの鏡板を嵌める。

身舎の棟木、軒桁木口には六葉付の華麗な三花懸魚を飾る

大工は蒲生郡八幡町の郡大工頭高木但馬に決定されたが、以前からの出入り大工との間で争いがあった。

幕府京都大工頭中井家とつながりの強い大工組頭としての高木家の優位性と卓越した彫刻類のデザイン力に注目すべきであろう。

他の社殿

境内社

池ヶ原神社 (境外) 八坂神社 屋船神社

木造神像

市指定文化財

男神像、女神像、女神小像からなる木造神像は、矢川神社本殿にご神体として祀られている。

男神像は大己貴命と伝わり、ヒノキ一材より丸彫する神像で、平安時代の作とされる。

髪を左右に分けて垂らし、両手を袖の中で隠した姿の女神像は、矢川枝姫命と伝わり、衣を着けて座った姿で彫られ、鎌倉時代の作である童女を思わせる女神像は、他の二像に比べて質素な作りである。両袖を胸前で重ねる姿が表現され、南北朝期の作とされる。

棋書(ぎしょ)仙人図・山水図

県指定文化財

この障壁画は、もと矢川神社の別当寺、日吉山矢川寺清浄院にあったもので、江戸後期の画家、横井金谷(よこいきんこく)が襖8枚の表裏十六面にわたって描いた襖絵である。

四面を一つのまとまりとして四つの画題が描かれ、うち一つは棋書仙人図で他は山水画である。

金谷は江戸後期の文人画家で、画は与謝蕪村に学んだとされ、矢川神社の作品は近江蕪村と称せられた彼の晩年の大作といわれる。

5月 1日 矢川祭り

深川祭りともいう。神前での神事のあとは、神輿を中心に氏子各村から奉じる榊を子供が持ち、稚児も加わって深川市場の天満神社境内の御旅所まで渡御が行われる。近年、深川市場・深川・耕心の子供神輿も境内に練り込むようになった。

参考資料《甲賀郡志、甲賀市史、滋賀県の近世社寺建築、滋賀県の地名、甲賀をひもとく、その他》

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