滋賀県甲賀市 横田渡
Yokotanowatashi,Koka city, Shiga
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Sep.13.2014 中山辰夫
甲賀市水口町泉最寄りはJR草津線の三雲駅である。県教育委員会主催の「天井川の里を行く—大沙川隧道と横田渡し」に参加した。
駅から常夜燈までは約1kmの距離である。
この橋は1951(昭和27)年に架橋された。
橋を渡り終えた所は交通の要衝である。 ここから常夜燈までは約500mである。
現在「横田常夜燈公園」として整備されている横田渡の常夜燈一帯
この常夜燈は高さ8.3mで、東海道中に於いては最大級の規模を誇る。
竿部には「金毘羅大権現」「常夜燈」「文政五年壬午八月建立」、基壇には「萬人講中」とあり、京都・大坂等の寄進者の名前が多数刻まれている。
中には「江戸六組通日雇中」という銘もあり、三都の人々からの寄進があったことがわかる。
巨大な常夜燈は外国人の目をも驚かせた。ドイツの医師・シーボルトは、江戸参府の途上でこれを目にし、『この川岸(野洲川)には金毘羅様を記念した石燈籠と
いう燈火をともす大きな台がある』(江戸参府紀行)と記している。
また、常夜燈の建立に合せて金刀比羅宮も勧請されており、渡の安全を祈願した様子が窺われる。
湖東地方から琵琶湖に流れ出る野洲川は、明治頃までは横田川と呼ばれ、甲賀市水口町泉の辺りは川幅が狭くなっていることから、古くから渡河の地点として利用されてきた。
江戸時代になり、街道の整備が進むと、軍事上の理由から河川の「渡」について幕府が直接管轄し、通年の架橋を認めない事例が増えた。
この横田川もその一つであり、東海道石部宿と水口宿の間のこの場所は、「東海道十三の渡し」の中でも難所の一つに数えられ、秋から冬の渇水期は水の流れている所に土橋を架け、春から夏にかけては四艘の小舟で通行したという。
横田橋の歴史
1891(明治24)年、三雲〜水口間に板橋が滋賀県により架けられた。その場所はここである。
1896(明治29)年9月の野洲川の氾濫で常夜燈が倒壊した。その後、河川敷には堤防が設けられ、常夜燈は堤防の外に移された。
板橋は、1929(昭和4)年下流に横田橋が新たに架けられ、その機能を果たし終えた。もう一つの常夜燈
横田渡には別の常夜燈が現存しており、下流の対岸約700mの地点、湖南市三雲の旧東海道筋沿いに所在する。
三雲駅から旧東海道に入り、それらしい家並みをしばらく進むと左側に所在する。
泉側の常夜燈より40年前に建立されたものである。
踏切を越えて山の方向へ進む。
モニュメント
常夜燈の南側に迫る横田山の先端には、三上藩の圧政に対して、検地10万日の日延べを勝ち取った天保義民を顕彰する、天保義民之碑が聳えたつ。
甲賀市水口町泉解説:滋賀県教育委員会発行資料
滋賀県史跡指定 東海道十三渡しの一つ横田渡しは石部宿と水口宿の間、鈴鹿山脈に源を発する野州川のこの辺りを横田川といい、江戸時代の参勤交代などで通行量が増加すると渡し船や渡し賃の制度が整えられた。
東海道と近江太郎と称される野州川(横田川)が交差する地点は横田渡しと呼ばれる。
この「渡し」を物語るのが東側に立つ常夜燈。
往時は夜も通行が絶えず、対岸の渡し場の目印として文政5年(1822)に建設されたもので東海道髄一の規模を誇っている。
資料(滋賀県教育委員会発行)
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