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滋賀県湖南市 廃少菩提寺石多宝塔および石仏

Haishobodaiji,Konan City,Shiga

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湖南市菩提寺字岡山1846 多宝塔 重文 近世以前/その他 鎌倉前期 仁治2(1241) 石造多宝塔 仁治二年七月 日の刻銘がある 19610323


April 28,2024 大野木康夫  source movie

 

国指定史跡
【国指定文化財等データベースより引用】廢少菩提寺阯ニ在リ石多寶塔ハ花崗石造ニシテ仁治二年辛丑七月日願主僧良全施主日置氏女ノ二十字ヲ刻シ當時ノ石造多寶塔トシテ稀有ノモノニ屬ス石佛ハ後背ヲ有スル地藏像三躯左右及臺座ニ四體ノ像アル焔魔王像一躯ニシテ共ニ花崗石ノ半肉彫ナリ焔魔王像ハ略中央ニ近キ所ニテ竪ニ割斷セラル□林□□□及□□□阿彌陀佛權大僧都宗□法印等ノ文字ヲ刻セリ

     

多宝塔(重要文化財)
仁治2(1241)年の建造
石造多宝塔 仁治二年七月 日の刻銘がある

                         


January 2, 2023 野崎順次  source movie

 

滋賀県湖南市菩提寺
廃少菩提寺跡石造多宝塔および石仏
(Stone Pagoda and Buddhist Images at Ruins of Shobodaiji Temple, Konan City, Shiga Pref.)


国史跡 

栗東の金勝寺が大菩提寺といわれるのに対し野洲川をはさんで向かいあった寺として少菩提寺と呼ばれていました。「少」といって興福寺の別院として天平3(731)年良弁によって創建された大寺院で、聖武天皇以後歴代天皇の勅願所です。滋賀県の多くの寺がそうであるように、織田信長の兵火に焼かれ、廃絶しました。
(ゲジデジ通信ウェブサイト)

現地説明板

   

国重文 菩提寺多宝塔 鎌倉時代中期 高454cm 花崗岩
前項の廃少菩提寺の遺物で、この大きい石造多宝塔は左手の一段高い竹林の中に残っている。一見したところ、上層の屋根がいくつもの石を積んでいるのが目立つ。基礎は低平で、初重軸部はやや背が高いところ、古調を示す。屋根の軒反りは鎌倉中期の様式をよくあらわしている。上層屋根が複雑なのは、軒下に持送り石を入れ、屋根の上に綴ぶき式の石を加えているからである。多宝塔は石造で造りにくいのか、古い遺品はきわめて少なく、この塔は鎌倉中期様式のすっきりした作品である。軸部北面の三行の銘文に、「仁治二年(1241)辛丑七月日、願主僧良全、施主日置氏女」とあり、基礎西側の刻文は磨滅が甚しいが、「菩提寺石塔寄進田地……右志者為如法……二親幷……仁治二年辛丑七月日」の文字が見える。土豪の日置氏の女が施主となり、両親の菩提のためこの石塔を造立し、供養料田を寄進したのであろう。
(川勝政太郎「新装版日本石造美術辞典」1998年9月30日)

                             

地蔵尊像(三体)
三体の地蔵尊像は、それぞれ一体づつ別の石に刻まれている。中尊は像高158cmで、手には短い錫杖を持ち、舟形光背の中に高肉彫りして頭上に笠石をのせている。中損は鎌倉初期、両尊は南北朝である。花崗岩。

                        

菩提寺閻魔石仏 室町時代後期 高170cm 花崗岩
頭部を山形にした石面に、中央に道服をつけ肩をいからした閻魔王が、にらみ下ろすようにして坐り、向って左に弥陀、右に地蔵の坐像を配し、下段に僧形と地蔵の坐像二体を、いずれも石面をほりくぼめた中に厚肉彫する。右方で石が割れてつなぎ合わせてあるが、よく見ると右の部分は彫刻様式が新しく江戸時代に補修したものである。当時流行した冥界思想によって造立されたもので、室町時代後期の庶民信仰の雰囲気がただよっている。
(川勝政太郎「新装版日本石造美術辞典」1998年9月30日)

                  

周辺の山道

    


Dec. 2009 撮影/文: 中山辰夫

(はいしょうぼだいじせきたほうとうおよびせきぶつ)

湖南市甲西町菩提寺国史跡:指定 1926 10 20

石部町の中ほどから北へ、横田川を渡ってつきあたると、甲西町の菩提寺という集落となり、この集落内にある。

野洲・甲西線(27号)のバス停菩提寺保育園前下車、その車道を菩提禅寺の方向に5~6分歩くと石碑があり、そこを左に竹林の見える山手にわずか入りこむと姿をあらわす。

この地一帯は、もと奈良興福寺の別院で、円満寺少菩提寺と呼ばれ、数多くの大伽藍が雄大な姿で聳え立っていた。奈良時代紫香楽宮を発願、建立された聖武天皇が、国の繁栄と安泰を願い、天平3年(731)良弁が開基した古刹である。

興福寺官務牒疏によれば「金蕭菩薩の霊地で、金勝寺(栗東市)を大菩提寺と呼ぶに対してここを少菩提寺と証した。

住侶学房三十六宇、交衆十六家、属侍十九家、承仕二十五人、仕丁十八人また別所五カ所をあげる。本尊は毘盧遮那如来で大般若修練道場とした。」と伝え、偉容を誇っていた。

金勝山文化圏や阿星山文化圏とも一連の仏教文化圏を形成していたと思われる。

その概況は西応寺に残る「円満山少菩提寺古絵図」が伝える。

建武2年(1335)足利尊氏は寺領を安堵している。

元亀元年(1570)6月、織田信長の兵火に遭い焼亡。廃寺となり現存しない。

その遺物の石塔や石仏が残る竹やぶや雑木林には何か心惹かれるものがある。

    石造多宝塔

国重要文化財:建造物:指定日 1961 03 23 花崗岩製:高さ:4.4m

この多宝塔は今私有地となっている竹藪の中にあるが、かつてこの地にあった菩提寺の遺構の一つである。

台石の西南面には、全文は判読しがたいが造立の由緒を刻み、軸石の西北面には仁治2年(1241)の年記と願主、施主の名を刻んでいる。

初重笠石は軒と隅でわずかに反らせ、笠石の上に亀腹型と二重軸部を円形に作り出した石をのせ、さらに斗繰をつけた方形の石をのせて、二重笠石を受けている。

仁字2年(1241)本願主僧良全、施主日置氏娘と刻まれた在銘の鎌倉塔である。

石造宝塔としてはやや異形に属するが、その規模も大きく、かつ造立年代の確実なものとして貴重である。

この塔は石部の長寿寺にあるものと同じで、珍しい形をしている。堂々とした力強い塔である。

        

地蔵尊

三体が並ぶ。

笠石を乗せる中尊が1.5m、鎌倉時代初期の厚肉彫りである。

左右に二体は南北朝時代の作。

三体とも優しい、いいお顔をなさっている。

       

閻魔王石仏

三体地蔵の前の山道を少し登ると、右側の林間に将棋の駒型の珍しい閻魔王石仏がひっそりたたずんでいる。

閻魔大王と地蔵とは切っても切れない縁がある。閻魔様は、実は地蔵尊の化身である。十王思想という。人は没後冥府へ行き、七日目ごとに冥府の判官十王から善悪の審判を受ける。十人の王にはそれぞれ本地仏がある。閻魔大王の本地仏が地蔵尊—この菩薩は釈迦仏の滅後、弥勒仏出世までの永い無仏の世界で、仏に代わって六道の衆生を導くという。

この里の人々は、地蔵信仰に安全立命の暮らしを託したのであろう。

        

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