滋賀県湖南市 廃少菩提寺石多宝塔および石仏
Konan Haishobodaiji
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湖南市菩提寺字岡山1846 多宝塔 重文 近世以前/その他 鎌倉前期 仁治2(1241) 石造多宝塔 仁治二年七月 日の刻銘がある 19610323
Dec. 2009 撮影/文: 中山辰夫
(はいしょうぼだいじせきたほうとうおよびせきぶつ)
湖南市甲西町菩提寺国史跡:指定 1926 10 20
石部町の中ほどから北へ、横田川を渡ってつきあたると、甲西町の菩提寺という集落となり、この集落内にある。
野洲・甲西線(27号)のバス停菩提寺保育園前下車、その車道を菩提禅寺の方向に5~6分歩くと石碑があり、そこを左に竹林の見える山手にわずか入りこむと姿をあらわす。
この地一帯は、もと奈良興福寺の別院で、円満寺少菩提寺と呼ばれ、数多くの大伽藍が雄大な姿で聳え立っていた。奈良時代紫香楽宮を発願、建立された聖武天皇が、国の繁栄と安泰を願い、天平3年(731)良弁が開基した古刹である。
興福寺官務牒疏によれば「金蕭菩薩の霊地で、金勝寺(栗東市)を大菩提寺と呼ぶに対してここを少菩提寺と証した。
住侶学房三十六宇、交衆十六家、属侍十九家、承仕二十五人、仕丁十八人また別所五カ所をあげる。本尊は毘盧遮那如来で大般若修練道場とした。」と伝え、偉容を誇っていた。
金勝山文化圏や阿星山文化圏とも一連の仏教文化圏を形成していたと思われる。
その概況は西応寺に残る「円満山少菩提寺古絵図」が伝える。
建武2年(1335)足利尊氏は寺領を安堵している。
元亀元年(1570)6月、織田信長の兵火に遭い焼亡。廃寺となり現存しない。
その遺物の石塔や石仏が残る竹やぶや雑木林には何か心惹かれるものがある。
国重要文化財:建造物:指定日 1961 03 23 花崗岩製:高さ:4.4m
この多宝塔は今私有地となっている竹藪の中にあるが、かつてこの地にあった菩提寺の遺構の一つである。
台石の西南面には、全文は判読しがたいが造立の由緒を刻み、軸石の西北面には仁治2年(1241)の年記と願主、施主の名を刻んでいる。
初重笠石は軒と隅でわずかに反らせ、笠石の上に亀腹型と二重軸部を円形に作り出した石をのせ、さらに斗繰をつけた方形の石をのせて、二重笠石を受けている。
仁字2年(1241)本願主僧良全、施主日置氏娘と刻まれた在銘の鎌倉塔である。
石造宝塔としてはやや異形に属するが、その規模も大きく、かつ造立年代の確実なものとして貴重である。
この塔は石部の長寿寺にあるものと同じで、珍しい形をしている。堂々とした力強い塔である。
地蔵尊
三体が並ぶ。
笠石を乗せる中尊が1.5m、鎌倉時代初期の厚肉彫りである。
左右に二体は南北朝時代の作。
三体とも優しい、いいお顔をなさっている。
閻魔王石仏
三体地蔵の前の山道を少し登ると、右側の林間に将棋の駒型の珍しい閻魔王石仏がひっそりたたずんでいる。
閻魔大王と地蔵とは切っても切れない縁がある。閻魔様は、実は地蔵尊の化身である。十王思想という。人は没後冥府へ行き、七日目ごとに冥府の判官十王から善悪の審判を受ける。十人の王にはそれぞれ本地仏がある。閻魔大王の本地仏が地蔵尊—この菩薩は釈迦仏の滅後、弥勒仏出世までの永い無仏の世界で、仏に代わって六道の衆生を導くという。
この里の人々は、地蔵信仰に安全立命の暮らしを託したのであろう。
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