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滋賀県湖南市 大沙川隧道・由良川隧道・家棟川隧道

Zuido,Konan city,Shiga
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Sep.13.2014 中山辰夫

湖南市吉永

■■三隧道の位置関係

■■天井川

湖南市の周辺の南側には、甲賀市信楽町へと続く山々が迫っている。今は緑に覆われているが、明治時代末頃には樹木が伐採で殆ど無く、そのため、山々を水源として流れ出る大沙川、由良川、家棟川は、砂を運び、天井川となっていった。

これら3筋の川は、西から東へ約2.5㎞の間に並行して北流し、それらが全て天井川となって東海道を横切り、街道を行き来する人々の障害となった。

このため、明治時代に入り、石造の道路隧道をそれぞれの天井川の下に設け、道路整備を図った。

■■大沙川隧道

大沙川隧道は、湖南市のJR草津線甲西駅の南東約2.5㎞の旧東海道と大沙川が交差する位置にある天井川・大沙川の隧道である。

隧道は、1884(明治17)年に滋賀県下最初の道路トンネルとして築造された。別名「吉永のマンポ」と呼ばれている。

西側に隣接する由良谷川隧道〔1886(明治19)年築造〕とともに、切石造のきれいなアーチ断面を持ったトンネルで、国指定重要文化財に相当する最も重要な土木遺産と評価(土木学会)されている。

所在地図

旧東海道の石部宿〜水口宿の間にある。

大沙川隧道東側坑門 西側坑門 

大沙川隧道は、内部の側壁刻銘「明治十七年年四月築造」が示す通り、滋賀県で最も早い時期の道路トンネルとして建設された。

刻名

隧道は、長さ 16.4m、高さ4.6m、幅4.4m、半アーチ断面、花崗岩切石造で、石の積み方は切石積層板積みである。平均的な切石の大きさは、長さ68cm

厚さ0cmである。

弘坊杉

湖南市指定文化財

大砂川の堤の上には、「弘法杉」と呼ばれ、樹高26m、周囲6m、樹齢約750年といわれる大杉がある。

隧道西側出口近くの左側に大木が列をなす。

■大沙川隧道は、建設当初の位置で現存する現役の石造道路隧道としては、日本最古であり、旧東海道の整備を目的に、滋賀県特有の天井川を克服するために設けられた隧道としても貴重である。

■■由良川隧道

大沙川隧道から1.5km西側にある。1886(明治19)年の築造である。街道の通行を善くするためにつくられたアーチ型隧道

各坑門

長さ16.0m、高さ3.64m、幅4.5m、欠円アーチ断面

外人技師の設計により、県費で、大沙川・由良川・家棟川の順に造られた。建設当初の姿を保つ。「由良谷川」の県令「中井 弘書」の額石が残る。

■■家棟川隧道

由良川隧道から800m西側にあった。1886(明治19)年の築造。街道の通行をよくするためにつくられたアーチ型隧道

高さ3.64m、長さ21.82m、幅約4.55mであった。 1979(昭和54)年に河川改修のために撤去された。

現在は、「家棟川」と陰刻された題額だけが旧東海道の路傍に残されている。

常夜灯は、家棟川の傍にあり、「奉両宮常夜燈」と記されている。

■■大砂川隧道及び由良谷川隧道について

湖南市(旧甲西町)の山々は明治の末頃までは禿山が多く、一面に赤土の肌をさらしていた。

中でも岩根村(野洲川の右岸側)と三雲村(野洲川の左岸側)の荒廃はひどく、菩提寺村庄屋の龍池籐兵衛(1840?1896)は「ヒメヤシャブシ」の育成に成功して、この潅木を植林し、今日の美しい緑の山並みを見ることができるようになった。

当時三雲地区には天井川が多く、大砂川、由良谷川、家棟川もそれぞれ旧東海道と交差していた。

人々は、天井川に出会えば、土手を登り、小橋か浅瀬を渡って川越するという「人馬通行ノ難所タルハ衆人ノ熟知スル所」であった。明治になると東海道を整備することになり、その一環として天井川に隧道を掘って人馬の通行の便を図ることになった。

大沙川隧道は県下最初の近代的な道路隧道である。今日、大沙川隧道、由良谷川隧道は、天井川の平地河川化や自動車交通の障害となっているが、当時の原形のまま使用されており、両隧道とも、かつての山の荒廃、天井川の成因や川越の苦労、明治の道路交通の近代化などを教える生きた教材である。

明治の近代化を象徴する貴重な記念碑であるとされる。≪引用≫

 ■大沙川隧道及び由良谷川隧道の評価(土木学会)

ランク=A(最も重要な土木遺産で、国指定重要文化財に相当する。)

【評価情報】

明治10年代の道路トンネル=ポータル坑内とも総切石造りの初のトンネル、東海道筋ならではの立派さ、天井川=滋賀らしさ

■■三雲城遺跡

1487(長享2)年に三雲典膳が佐々木六角の命により築いた城で、東西約300m、南北約200mの広大な城域を有していたが、天正年間に廃城となった。

その後、1585(天正13)年に水口町に岡山城が築かれた際に石垣等が用材として持ち去られたとされる。

縄張りの中心部は4ケ所の郭によって構成され、北側の郭は約50×40mの広さがあり井戸も残る。また、その北東部には三方を巨大な石材を用いた穴太積みによって築かれた22.4×12mの大きな枡形遺構が残る。記録によると六角氏が度々当城に居たとされる。家紋を刻んだ石も残る。

■■西住寺

大沙川隧道を出てすぐ右側に建つ。

宗派:浄土宗 本尊:阿弥陀如来 安土の浄厳寺の末寺であったが、明治以降は知恩院に属す。1685(貞享2)年吉祥坊が中興した。

本堂が甲賀郡より移築したとされる。門前の「石造一石六体地蔵菩薩」は室町時代の作とされ、市指定文化財である。

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